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アートアクアリウムは残酷なのか

アートアクアリウムとの出会い

以前、日本橋のアートアクアリウムに行った。
たしか5年くらい前で、季節は水ぬるむ夏。

単発のイベントだったそれが、8月末から「アートアクアリウムミュージアム」として常設になったというニュースを見たので、その時のことをふと思い出した。
そしてその体験をもとに、アートアクアリウムに対して思うことを、いま書いてみたいと思う。

この記事ではアートアクアリウムについて、否定も肯定もする。
それは最初に伝えておきたい。

否定も肯定も「しない」ではなく、否定も肯定も「する」。
それは、自分の立場を決めることに対して単に消極的だったというわけではなく、モロモロ考えた末に「中立」を選んだということだ。
そんな心の移り変わりも書きつつ、書いている僕と読んでくれている方、双方にとって何か得るものがあればいいなと思う。

否定パート:綺麗だけど、どうなの?

さて、アートアクアリウムとはなんじゃい、という人のために簡潔に説明しておくと、「金魚をきらびやかに展示するイベント」である。

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出典:アートアクアリウム美術館
https://artaquarium.jp/

こんな感じ。
もう少し詳しく言うなら「金魚をユニークな形の水槽にぎっしりと入れて、無数の照明で鮮やかに演出するイベント」だろうか。

当時、大学生で暇だった僕は、友人に誘われるまま「アートアクアリウム?ちょっとお洒落な水族館って感じかい?よし行こう!」なんて返事をして、東京まで足を運んだのだ。

会場はコレド室町。
最寄り駅は東京メトロ半蔵門線・銀座線「三越前」。
老舗百貨店や高級ブランド店がそこかしこに立ち並ぶ、なんとも贅沢な街。

予備知識もなく行ったアートアクアリウムは、とんでもない大混雑だった。
館内が薄暗いということもあり、他のお客さんの肩やら腰やらカバンやらがバシバシとぶつかってきて、大都会東京の怖さを身をもって味わう。

それでもなお、初めて見る豪華絢爛な金魚の展示は胸に響くものがあった。

暗闇に浮かぶ、鮮やかな色彩の照明。
そしてそれに照らされる無数の金魚の乱舞。

圧巻。圧倒。
なんせ、こんなものは生まれてこのかた見たことがない。
子どもが高熱に浮かされて見る夢のような、現実離れした光景だった。
画像やテキストだといまいち伝わらないだろうから、参考までに動画も貼っておこう。

レーザー光線のような強烈な照明が金魚にあたると、鱗がその光を乱反射させてきらきらと輝く。
そこに流水の動きも加わると、万華鏡の底から海を見上げているような感覚になって、もはやサイケデリック。

なんてスゴい展示なんだ。
僕は驚きと喜びの溜息をつきながら、会場を練り歩いたのでした。
めでたし、めでたし。

……と、いうワケにはいかなかった(だからこれを書いているのだ)。

最初はその美しい展示に心を奪われていたのだが、他のお客さんとぶつかりまくっているうちに、心身ともに少しずつ疲弊していった。

薄暗い空間、換気も悪く、足を踏まれる。
水槽の中、おびただしい数の金魚。
ギラつく照明。
そのうち、その一匹と目が合った。
つぶらな黒い目。真っ暗な目。

僕はふと、あるフレーズが思い浮かんだ。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが創った、あまりにも有名な言葉。

「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」

僕らは金魚を見ている。
そして、金魚も僕らを見ている。

僕らは密集して、薄暗いフロアから。
金魚たちも密集して、強烈な照明に照らされた水の中から。

そのことに気付くと、彼らが「生きている命」だという事実が生々しく迫ってきた。

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出典:アートアクアリウム美術館
https://artaquarium.jp/

スポットライトによる強い光、来場者による騒音、過密な水槽。
「優雅でいいな」なんて傍から見て思っていたが、それは人間側の勝手な感想であって、金魚たちはどう感じているのだろうか。
水草もなく、空気のブクブクも見当たらない。
華美な装飾で忘れそうになるが、あの水の中にいるのは生きている魚たちだ。

嫌悪感とは言わないまでも、ちょっとした不快感、あるいは違和感を抱く。
言葉にするなら「人間の好き勝手にされて可哀そう」という気持ち。
そして僕はその気持ちを日本橋から、湘南にある自宅へと持って帰ってしまった。

そしてずっと、アートアクアリウムは「金魚が人間の好き勝手にされてなんだか可哀そうなイベント」として僕の中にあった。
商業主義の犠牲になった哀れな生き物たち、そのシンボルとして僕の中に鎮座していたのだ。

そんな折に目にしたのが、冒頭にも書いた「アートアクアリウムミュージアム」がオープンしたというネットニュースである。
常設となるからには相応の収益を上げたんだろうし、それは人気があることの裏返しだ。

でも、僕は反発した。

あんな風に生き物を粗末に扱うイベントが常設になってしまうのか、と。
金魚たちが可哀そうじゃないか、と。
あんなもの観に行くもんじゃない、と。

憤りにも似た気持ちになりながら、僕はスマートフォンの画面から顔を上げた。

しかし、そこで僕は目にしたのだ。

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それは、我が家の水槽であった。

職場の人がメダカを飼い始めたという話を聞き、「あ、いいなー」なんて言ったものだから、なし崩し的にメダカを貰うことになってしまって、急いで作った水槽だ。

それっぽく仕上げたが、もともとは無印良品で買った梅酒ビンである。
空気のブクブクがないので、水草の光合成によって酸素を作り出すために強い照明を当てなければいけなかったり、水質もうまいこと管理しないといけない。
ビンの隣にはホームシアター用のスピーカーが置かれていて、洋画なんか観たときには重低音が大きく響く。

さて、このビンに閉じ込められた、うちのメダカは「可哀そう」ではないのだろうか。

ここから少し自己批判を加えながら、アートアクアリウムの意義について思いを馳せる。

肯定パート:金魚の幸せって、なにさ

「金魚が可哀そう」という感覚の裏には、金魚の幸せを願う気持ちがある。
それは僕が特別に博愛主義であるからというわけではなくて、誰しもそうだろう。
いたずらにアリを踏みつぶすような子どもじみた嗜虐心よりも、生き物を大事に扱う気持ちの方が、普通は大きい。

でも、そもそも、金魚の幸せってなんだろう。

うちのメダカは幸せで、アートアクアリウムの金魚は不幸なのか?
うちの梅酒ビンでは感じない違和感を、アートアクアリウムで感じるのはなぜなのか。

自分自身にそれを問いかけてみて、金魚という生き物の存在意義を考えた。

そもそも金魚とは、ヒブナ(緋鮒)という、フナの突然変異を改良して作り出された人工的な生き物だ。
500年前には日本に持ち込まれ、江戸時代には大規模な養殖が始まった。
そして、軒先で飼うのが庶民の文化になっていった。

今では、和金、琉金、出目金、スイホウガン、ランチュウなどの様々な品種がいて、観賞魚の代名詞と言えるくらいの存在である。

そのルーツから考えれば、(短絡的な言い方だが)金魚という観賞魚として生まれてしまった以上は、人に弄ばれるのが運命とも言える。
金魚は人間が必要としなければ存在できない。
言い換えれば、鑑賞者がいなくなった時点で絶滅する生き物なのだ。

一方、金魚の生産量は年々減っているという現状もある。
金魚が「ありふれた魚」となる一方で娯楽が多様化し、金魚に対する消費者の興味関心が薄れているらしい。
それはたしかに頷ける話だとも思う。

金魚は結局のところ、商業と切り離せない生き物なのだ。
金魚によって生計を立てている人々が、古今東西に存在している。
その人たちが金魚文化の衰退によって苦境に陥っているのだとすれば、単に「なんとなく気に入らない」から批判するというのは、耳障りのいいヒューマニズムに溺れているだけなのではないだろうか。

もしもアートアクアリウムに、金魚文化をふたたび盛り上げるためのカンフル剤的な役目があるのであれば、あのきらびやかな水槽の向こう側にいる養殖業者の人々やその家族の未来のために、必要な施設なのかもしれない。

結論に代えて:公式サイトに問い合わせてみた

結局のところ、僕は金魚の専門家ではない。
金魚が見える世界がどんなものかも分からないし、金魚が音を識別できるのかも分からない。

もしかしたら、金魚は「ミラーボールの強烈な光をまったく意に介さず」「爆音を聴く耳も持たず」「ひれとひれが触れ合うくらいの過密空間でも平気で生きていける」生き物なのかもしれない。

だから、疑問に思ったことをアートアクアリウムの公式サイトから問い合わせてみることにした。

そうすれば、アートアクアリウム側の金魚に対するスタンスというか、何を大事にしているのかが分かると思ったからだ。

以下が問い合わせた内容である。

・金魚は一匹ごとにどのくらいの期間、展示されるのか(大まかに、どれくらいのスパンで他の金魚と入れ替えられるのか)。
・光や音、あるいは過密による金魚への負荷(ストレス)はあるのか。
・ストレスがあるのであれば、それをどう低減しているのか。
・金魚への餌やりはどうしているのか。
・金魚の生産量は年々減っているが、アートアクアリウムの目的の一つとして、金魚産業の振興は企図しているのか。

金魚に対する適切な管理を行っていること、そして、金魚産業に対してポジティブな効果を狙ってのイベントであると、そういう答えを期待した質問だ。

だが、問い合わせてから3週間が経っても返事がなかった。

確かに、僕の問い合わせに答えたからって一銭も儲かるわけじゃない。
待ちぼうけになりながら、なんかまあ、アートアクアリウムとはそういうものなんだろうなと思い始めた。

そして結局のところ、僕は「返事がない」のをアートアクアリウム側からの返事として、この記事を終えようかとも思った。


しかし、事態は思わぬ方向に進んでいく。


そのうち、実際に鑑賞しに行った人たちから、「病気になった金魚がたくさん泳いでいる」という報告がTwitterなどで上がるようになったのだ。

実際に写真を見てみると、尾が溶けてなくなる尾ぐされ病や、寄生虫によって生じる白点病に罹った金魚が大量にいるようだった。
中には地獄絵図と言っていいような写真もあって、多くの人がその飼育環境に異を唱えていた。
そして、アートアクアリウム側はそれを指摘する公式アカウントへのリプライをどんどん非表示にして、黙殺を図った。

しかし事が大きくなるにつれ、ついに大手メディアにも取り上げられるようになる。

これを受けて、アートアクアリウム側は次のような声明を出す。

詳しくはリンク先を参照してもらいたいが、要は「コロナのせいで工事が遅れたので仕方ない」というニュアンスだ。

そしてこの声明の内容について、アクアリウム全般について取り扱う「トロピカ」というWEBサイトに、ひとつの記事が上がった。

「トロピカ」はアクアリウムの管理設営などを行っている企業「東京アクアガーデン」が運営するWEBサイトで、僕も自分の水槽作りの際にはかなり参考にさせていただいた。

その記事がこれだ。

専門家の見地からとても丁寧に、そして冷静に考察されている。

さて。

「過度な照明や過密飼育によって、金魚に影響は出ないのか」というのが、僕がこの記事を書き始めた当初の疑問だった。
しかし、現実として病気の金魚が多く出てしまい、こうして社会問題になってしまった。
こうなればもう問い合わせの返事を待つ理由もないだろう。

トロピカさんの記事から一部引用させていただいて、終わりの言葉としたいと思う。

以下、トロピカさんのホームページから抜粋

今回のアートアクアリウムが炎上している件について、プロデューサーがテレビで説明してました。しかし、あえて厳しい言葉でお話しすれば、残念ながら逆効果だったかとおもいます。
とくに気になったのは、現状について仕方ないといったニュアンスで説明していることです。
コロナウイルスにより工期が遅れた、そして金魚の入荷が不安定だったなど開催者側には不備がないというように感じ取れました。
おそらく、多くの方がこのような印象を受けたとおもいます。筆者としては、ここは正直に「真摯に改善へ努めます」と謝罪したほうが良かったとおもいます。
「ご指摘されていることは最もで、プロとして情けない結果になってしまった。一旦休館し完璧に仕上げてから再オープンさせていただきます」というような言葉を添えれば、ここまでの炎上にはならなかったとおもいます。
結果論ですが、やはり誠実に対応することが1番ではないかとおもいます。いろいろな情報が出回っていますが、主催者は今まで何度もアートアクアリウムを開催、運営しているので、金魚飼育の実力はあるのです。コロナの影響で工期が遅れたり、金魚の手配に戸惑ったことでこのような結果に繋がっている事実もあることでしょう。
しかし、命ある生き物を扱う以上、生き物優先でイベントを行うことを忘れてはいけません。
イベントの開催日が決まっていたとしても、例え、機会損失が出てたとしても、命ある生き物を最優先として開催していただくことを強く望みます。
トロピカとしては、アートアクアリウムの更なる飛躍を切に望みます。
しかし、そこには命ある生き物を最優先であることを忘れてはならないのだと思います。
生き物と展示のバランスがとれたイベントにしていただくことをトロピカとして願っています。


金魚は、自分が観賞魚だと知って生まれてくるわけではないのだ。


そして僕は、大きな水槽を買った。


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アートアクアリウムはともかくとして、せめて、自分の手の届く世界くらいは良いものにしていきたい。

まあ、それも人間のエゴかもしれない。

でも、それでいい。

僕らは自分の手の中にいる生き物が、幸せでいてくれていると信じることしかできないのだから。
祈ることしかできないのだから。

もしも、僕らを創った神さまがいるのなら、そうであって欲しいから。

(おわり)

自己投資します……!なんて書くと嘘っぽいので、正直に言うと好きなだけアポロチョコを買います!!食べさせてください!!