今日もリンゴの木を植える

私たちは、たくさんある物にはあまり価値を感じませんが、少ししかないものに価値を感じます。

例えば、魚であればおいしいサンマより、あまり取れないクエの方が値段が高い。

ワインなんか、目隠しをされたソムリエの人がマズイと言ったワインでも、年代物の希少品であれば高値が付きます。

宝石なんか、そこらへんの地面に転がっていれば誰も欲しいとは思わないでしょう。

このような、多いものには価値を感じ、少ないものに価値を感じる、という習性は、命に対しても言えるのはないでしょうか。

若い時には無限に月日があるような感じがして大事に思えません。

しかし、大怪我をしたり、病気で余命宣告をされたり、老人になって、やっと命の大切さが分かってきます。


アンドレ・マルローというフランスの作家の言葉があります。

「僕が死を考えるのは、死ぬためじゃない。生きるためなんだ」

私も今になって少しずつ死を意識し、命の大切さがわかるようになりつつあります。


もし今、余命1ヶ月と宣告されても、私は普段と同じ生活をするでしょう。

確かに昔の私なら残っているお金で、スカイダイビングをしたり、グランドキャニオンを見に行ったり、欲望を満たそうとしたかもしれません。

でもそんなことをしても虚しさが残るだけだと思うのです。

悔いが残らないのはおそらく、いつも通勤の時に出会う人たち、職場の人たち、そして家族、嫁と子供に全力で接すること。

そして自分を毎日成長させることだと思います。

とはいえ、まだまだ全力で皆に接することができていませんし、全力で成長できているわけでもありません。

実際にその状況にならないと、本当のことはわかりませんが、今は全力を出し切れていない自分にもどかしさを感じています。


この命の大切さを、若い時の私のような人たちに伝えたいのですが、私では説得力がないので、

稲垣麻由美さんの

「人生で本当に大切なこと」

もしくは清水研さんの

「もしも一年後,この世にいないとしたら。」

をおすすめしておきます。





「たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日、リンゴの木を植える」

マルチン・ルター

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