0と1  第十三話 ゆるして

0はレストランに居た。
向かいには、60代後半に見える女性。その隣には、0と差ほど変わらない年の女性がいた。

待ち合わせ場所に来るのは母だけだと思い込んでいたので多少面食らったが、3人でスムーズに今の所は会話が進んでいた。
むしろ、3人で確かによかった。

今目の前にいる母だけではここに至らなかっただろう。
隣にいる女性は妹。父親違いの姉妹だった。

母をこうやってまじまじと見るが、ただただ幸せそうにしている。能面の微笑みだ。何かに麻痺している、その表情に浮かぶ皺だけが母という女性の人生の本質で、それ以外は全て遠い昔に置き去りにしてしまったようだった。

そんな、ものがなしい能面の仮面を表情につけている、そんな印象だった。
視線は虚ろだった。

謝ってほしい、なんて思ってもいなかった。突然の現実に追いつかないのもあるが、この母の印象が奇妙で、少し恐ろしかった。

再会は、妹となのるこの女性が、0と母を仲介した形でスムーズに今の段階へと事を流してくれた。

年は、0の5歳下だった。

0が両親と別れた時くらいに生まれていたのだろう。


端的に、妹はハーフで、母は外資系の仕事、通訳の仕事で妹の父親と出会った。母は私と別れた、いいえ、元の家族と別れ、アメリカで新しい家族とともに生活していた。母とアメリカ人の父親と妹の三人で暮らしていたそうだ。

「0さん、ずっと会いたかったのです。母はあなたをアメリカに呼びともに4人で暮らそうと言っていました。

今母は病気が進行して、認知症が悪化してますが。

その前には、60歳になる前くらいから精神的な病で、解離性の離人症状もあったり、健忘症が出たりで一人では危険な状態が続いていました。」

「・・・。」

無言で、真剣な眼差しで0は彼女の芯のある、冷静で落ち着きがあり、深みのあるその声に聞き入りながら話を遮ることなく聞いていた。
傾聴していた。

深く、彼女のしんとした雪原にふく風のような冷たさのある声、対象的に温かみのある、それもまた暖炉のような包み込むような広がりのある暖かさを保つその声。

耳を澄まして、彼女の声のでどころへ、0は深く誘われていった。

その繋がり方は、同じ母から分け与えられてた血がそうしたのか。

「今は薬も少し減って、解離は落ち着いてるんですよ。認知症についてはごく最近わかったので。進行は早いみたいですけどね。
・・・仕方ないかなって。」
「まあ、生きていれば。ですね。」
無邪気に微笑んで話す彼女を母は少女のような無邪気な顔で見つめている。


0は応えなかった。
なるほど。母はかつての人格を今、ここでは不在にしている、という訳か。

もともとどんな人物かもわからないが。


「0さん。今、私たちは母の希望で日本に、母の実家の近くに住居を持とうと計画してまして。現在は、都内に住んでますが、いずれは。

その方が、母のためにもなると思うのです。
私は都内で、執筆活動と友人のアトリエなどの運営の仕事などしてます。このような状態で、いまさらって0さんに思われても仕方ないけど。」

「私は別にそうはおもっていません。むしろ、感謝しています。」
「・・・。
そうですか、謝罪するべきか、ともおもったのですが・・・。」

「あなたは悪く無いんだし。私はあなたにも母にも何も求めていないです。冷たいようですが、穏便に再会することを願っていたので。」

妹は、言葉に詰まっていた。渦巻く彼女の想いと母と彼女との歴史の重圧が彼女にのし掛かっているようにも見えた。

苦痛の匂いが沈黙に滲んんだ。

0には痛いほどそれがわかった。

「本当に、よく私を探してくれた。そう、それだけですから。私の記憶は幼いころで止まったままだった。感謝しているの。

そして、あなたは勇気がある、そして愛もね。」

0はハッとした。愛、なんて他人にはっきりと言ったことがなかった。それだけじゃない。
無意識的に彼女の行動原理は愛によるモノだと、理解できた自分自身にも驚いた。

自分のような人間に愛さえわからないし、縁遠いものだとおもっていたから。

妹は、瞳に涙をためていた。そのヘーゼルとグリーンの混ざり合った明るいひとみは光を蓄えていた。

「母を許せないとおもってもいいんですよ。

私だけが・・・姉さんから母を独占していたのも同じですから。

そうじゃないと・・・・」
一瞬に、妹の陶器のように青白い顔に炎が、怒りにも似た、自身を攻め立てるような怒り色が投影された。

しかし、ほんとうに瞬間的だった。次の一呼吸で自制をもって声のトーンを落としながら

「いえ、なんでもありません。ごめんなさい。0さんに必要なのはこれまでの母の歴史ですよね。母も私も0さんと暮らしたい。そう思っています。

もちろん、突然の再会にこの成り行きは強引すぎるのは承知です。

でも、母はまだ、日になんどか正常、いいえ元の母に戻ることのできる状態なんです。

今回0さんが見つけられなければ、神様もあわずにいなさい、それが私に示された道なのだと、そうきっぱり諦めるつもりでした。」

0は姉妹の感覚をはじめて味わっていた。芯の強さが似ている。
考え、根元が似ている。

自身の感情を奥へと追いやり、俯瞰しながら周りの人とたちへ少しでも平等に自分のできることは何か?と模索し、自身の感情と高い志のなかで、多少の自己犠牲の感覚さえも、自分と他者の世界の均整を目指して、自分と他者を天秤にかけている。

そんな彼女の瞳は、
母でもなく、私でもない。彼女の父親から譲り受けた、哀愁を愛でることのできる色を持ち合わせていた。
けれど彼女の後ろ姿は、遠い記憶の若いころの母そのもので、匂い、指先の形・・・断片的な記憶を彼女の挙動から、0はどんどん引き出されていく。

彼女は母以上に母の魂を胸のうちに宿していた。

記憶を置き去りにしたのではなく、彼女が全てを引き受けたかのようだった。

母はここいるというのに。

彼女の中に母そのもの、そして私と同じ感情がその肉体に住まっているのだと深く感じた。過去の母がきちんと彼女の中、妹の中にあり、私を導いたようにも思えた。



「わかりますよ。きっと私があなたなら、同じ選択をしたでしょう。」

「・・・・。」
妹は深く息をついた。

「私も、母を知りたい。

正直、母を許せるかと迷っていたけど、判断するほど、母のことは断片的な映像の記憶しかないの。だから・・・

だから、いきなり一緒に暮らすのは今は無理でも、定期的に会うとか、どうかな?

なにより、私はこの世界で家族はもういなくて、一人だって思っていた。

妹がいることは、素直に嬉しい。」

「・・・。」
妹は驚きと嬉しさと苦痛の混じった顔で0を見つめ返した。
この子のくせなのか、眉尻が時々下がっていた。

綺麗な顔に八の字に下がる眉の困り顔に、素直な喜びが愛嬌として漏れていた。

「もう一つ、大事な話が。」
「はい。」

「0さんのお父様のことです、母が解離を起こした原因にもなっているようなんです。何度か会っていたみたいなんです。

お父様は、仕事では伝統食器の職人さんだったと聞いています。
すみません、私は直接お会いしていないので、母つてに聞いた話なんです。


お父様がお亡くなりになった際、工房に0さんの名前が書かれた箱があり、それを遺品として、母が引き取りました。
実際二人の間にどんな会話があったのかわかりません・・・。


今日はその品をお渡ししたいんですけど。母もいつ完全に記憶が飛んでしまうかわからないし、二人で動けるうちにできることを、やりたいと思って。」

「わかりました。ありがとう。話してくれて。」

そう言うと、木箱をそっと手渡しした。
木箱に0の名前が書き込まれていた。

木箱は杉か何かの木材でできており、つるりとなめらかな触りごごちに、その箱自体が、伝統的な形状と美しさを宿していた。
結ばれた赤い紐も着物の帯ひものような品があった。これも職人がつくりだしたものだろうか?0にはそこまで判別はつかなかった。

中身を開けた。白いメモ用紙が二つ折りになって入っていた。その奥に天然の木材でできた赤い箸が、錦の布に包まれるように鎮座していた。

あるべきところに帰還した、持ち主のもとへ旅路をえてやってきたかのような存在感を放っていた。

箸は丁寧にうるしか何かで塗りこまれ、深みのある朱色で、派手さではなくあたたかさ・・・そう。そうだ。スカーレットレッド。黒が少しまじって落ち着き、赤の温かみを木材が活かされている様な、そんな品だった。

”1。のミトンとの会話を思い出す0。あなた、そこにもいたのね・・・。”

深く自分の心に0は潜水していた。

メモを開く。

「愛華へ」

「000010101100000010101」

「黄金の文字、りんご、音」

その3行だけだった。


「・・・・。」


0は涙があふれた。

まったくの不意打ちだった。

理解を超えた、言葉をこえた、親子の血、血族に眠る感性という扉が、開かれ導かれているようだった。その先へ。

0と1。1と0。0と0。1と1。

それは人が人を導き、人としての進化が生死をこえたものとしての暗号としてあるんだ。みんな一つで、一人が一つ。写しあい、離れ、繋がり、深く個別になりながら、その力を応用しながら自分を他者を導いていく。
生きていく力、そのもの。

0はそう捉えた。

引力。メモに記されたのは言葉。意味ではなく、原理で。原始的、根元の力をもって意味を超えて生きる力を注いで記されていた。

父さん。父さんも同じものをインスピレーションし、感じ悩んでいた。

直感的に受け止める。

そうなのだろう・・・父さん。

避けらないなにか。引き受け、受容するかしないか、それだけ。

決断をし続け、生きて、辿り着いたのがこの今で現実なのだと。


「お父様は心不全だったそうですよ。山で作品の材料と集め、スケッチをしていたようです。山で心配停止で見つかったそうです。なので、いつか0さんに作品を渡すつもりだったのだと思いますよ。いつ頃用意されたかはわかりません。
母は、0の為だけに生きていたいし、自分の人生を0を通して見つめ続け謝罪していたそうです。ただ、元の家族の通りに暮らすことは考えていなかったみたいです。」

「・・・そうですか。」

空白がなにかで埋められていく。

いいえ。もともと耐えず私に降り積もっていた透明なにかがあったのだ。みえていなかった。だって透明だったのだもの。

今妹の話で、それらに着色された。

距離、時間、空間をこえて。その時その瞬間の父の感情と心が染めてくれた。妹はそれを運んできた。

着色された何かが0の世界にも色を伝達するように、音のように。世界が切り替わっていくようだった。鮮やかに。


その3行で、父の言葉の音で、色彩で、

0は愛華という、名前を自覚した。

誰かに呼ばれ続けたからではなく、形式でもなく。

求められ、慈しんだ心の音色が、0を0として、受け継がれた血族の繋がりの中で「アイカ」と母が父が妹が呼びかけることを、0自身がこころから引き受けた瞬間だった。

これまで、生きながら何度も心は死んだように感じたことはあった、けれど、今こうやって命を吹き返す現実もあるのだと。

それは

赤ん坊が生まれたから、人間が生まれた。0はそうおもっていなかった。いつも、まだ自分は生まれていない。認めれていない。
穴のあいたバケツという私が、そうじゃなくなる時に、人間として本来の姿としてこの世界に誕生する、そんな想いがあった。

それは険しい道ではなかった。


3行の文章は暗号であり、0から愛華へと続く扉の鍵だった。黄金の宝だった。

涙がしずかにしずかに降りていていく。

「許してほしい。愛華のかえる場所をせめてちゃんと作っておく為に俺は俺を貫かなければならなかった・・・・」

なにもかも0のなかのブロックが解除されたようだった。

流れるままに。

そこへ父の想いが確かにあった。宿主をもたなくなった感情が人と人の記憶を移動しながら、やっとここへ辿り着いたのかもしれない。
幻や理想とも違う。
現実と夢想もしくは虚構の間にある道を通って。

太陽を反射して光るしかない夜の月のように。逆さまに現実化されていくこの世界に悲しんでいる。人が人を悲しんでいる。それは形ある人でも、魂だけになってしまった形ない人の住まう空間をとおって今にやってきた。


「大丈夫?ハンカチあるよ。」
それまで無言でいた母は、幼い子のように覗きこんできた。

その目は鏡でよく見慣れた、私自身の瞳だった。そっくりだった。顔のパーツも、鼻筋の入り方から、口元の口角が真横に惹かれている形・・・指先、髪の質感・・・0そのものを形作るもの、それだった。


しばらく、目に見えるものが全て断片的で、象徴的で、自分自身も何かの象徴であるように感じた。

喜怒哀楽が同時にあり。なにかに感情がさだまることがない感覚。

”喜怒哀楽・・・その続きがこれからの私だ。死んだ後にその後を繋ぐナニカになり得るのかも。ああ。それは期待じゃない。希望だ”


記憶は母の中に眠っており、父の想いはこの箸につづられ、妹が空白の時間のつなぎ目だった。三人の存在が0を愛華という存在に引き上げた。

私が本当に望んでいたもの。

”許すこと。わたしは私として私に生きていいていい。と自分を許せる現実を求めた”

0は、0という人間と愛華とアイカを理解した。

いくつもの人間を自分の内みた、魂の人間のわたし、他人とともにいる人間の私、世界と繋がる素材としての人間のわたし。

どれもが自分と家族を、世界と家族の世界を広げていた。

空っぽな底の空いたバケツという自分は、その空間に浮かんでいただけだった。
自分はバケツの外にある世界をなんとなくみえてはいたが、バケツに執着していた。

それが私が私である象徴だと思っていたかった。

かわいそうであることに、それ以上誰も責められないだろうという甘え。それで自分を守れると思い込んでいた愚かさ。

それらが、目の前にいる母に攻めるような感情など放り捨てていた。

「泣いたら、僕もかなしくなるもん。」

母は今を失い、その引き換えに過去の、もしくは母の中に住まう子供という人間になることで私たちを受け入れようとしたんじゃないか?

こころにある母の本質が今の母であり、もとめた現実なんじゃないか?

「・・・・。」

「あ、0さん。今は母は5さいくらいの子供なんです。僕っていったり、あたしって言う性別がよくわからないですけど。認知か解離の症状かも判別が難しいのですが、人格がいくつかあって。性別もその時々で。

けど、いつもこの夕暮れ時にはこの子供のような人格になるんです。人懐こく、優しい子なんです。私もこの子に何度も支えられました。」

1。1のようにもみえた。少年のような少女のような。人と人の間で揺れ動く繊細な魂。

その母の、純粋な瞳の奥には、1という男の子がいた。いえ、1と言う、ちいさな人間がいた。0は確かめようのない、しかし深い真実に向き合っていた。


「だいじょうぶだよ。みんないっしょにいるからね。」


そう言って0の手を母はとった。

”目の前にいるのはかつての昔の私でもあった。置き去りにされた捨てられた私を私自身が励まし、受け入れようとしていたあの頃の心に住まっていた私だ、そして、1。君だ。君は私そのもので母の中にもいる”

「かあさん、許して・・・。ごめんなさい。」
震える声で絞るように、愛華は母の手を握り返した。


「本当は・・・、私は母さんが、父さんが大好きだった。嫌いになろうとした。

そんな自分も嫌いになろうとしていた。

ごめんなさい。ごめんなさい。

逃げていたのはわたしです。

ごめんなさい」

0は小さい子になって、途切れ途切れの息に声を絞りだした。しやくり上げる小さい子供のように背中を丸めながら、暖かさに打ちのめされながら。



「みつけてくれて、ありがとう。」






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