感情観察2:躁に気をつけてネ


ここ数日多弁になっている。
頭が明るくてうるさい。
表面に出ている感情とは別の川が心の奥の方に流れていて、その川の名前は、「不安・不穏」。

この躁を注意深く観察し、鬱転を防ぎたい。
しかし防ぐ方法がわからない。
躁転を防ぐこともできなかったのだから。
なるべく波を立てずに二つの川をちょうどいいところで静かに合流させたい。
それが最適解な気がする。

どうでもいいことを、世間や自分のフォロワーに対して全く需要が見込めない発言を、積極的に発信することに、現在前向きである。

「あ、マジで誰もこの話題興味ないなー」

と感じることもできる。感じてる。
その羞恥心、その気まずさ、フォロワーに対する罪悪感を受け止めているのは、暗い川側の自分だ。躁の私は鬱の私に痛みを手渡すことで、たぶん身軽になっている。
だけど、どちらも自分なので、いわゆる「自分いじめ」みたいな意識はない。
私はやりたいことをやって、言いたいことを言う、それが気持ちいい。さらに誰かが理解してくれたら射倖心を感じる。

TwitterやInstagramに、誰も興味のないであろう話題を投稿するときに、罪悪感や恥ずかしさを感じる。
でも、変わらず守るだけのSNSに飽きたし、最終的にはそういう態度が損になると思えたのだ。

今日は、『ここは今から倫理です。』の高柳先生を性的な目で見ているという、どうでもいい話をした。
自分が悪魔ならこの聖職者と戦って、先生を堕落させるか、さもなくば調伏させられたいという気持ちになる。
高柳先生は、憧れや、この人に認められたい、受け入れてほしいという欲望を掻き立てる。
しかし、飄々とあらゆる手をかわすような、結構ムカつく面も併せ持っていて、私的にはめちゃくちゃエロい男像なのだ。
意図してセクシーに描かれていると思う。

ただ、この人が現実にいたら、めっちゃ好きか、めっちゃ嫌いになるかだと思う。そして関係は上手くいかない。やるだけならいいかも。
恋愛をするなら、もっと父性で私を補完してくれるタイプのほうが合っていると思う。
私は高柳先生を性的に見て好きだ。
だけど、恋愛するならお兄さん系がいい。私を好きな人でないと難しい。私を回避する人とは難しい。

雨瀬シオリさんが別名義で描いているエロ漫画がすごく良いと思ったのも、きっと作者の大事にしているエロに、共感できる部分が多いからだと思う。エロのセンスが合う。

こういうことは、TwitterやInstagramで一言投稿しても、フォロワーさんには需要がなく、また大抵理解されずすれ違い、苦しいきもちになることのほうが多い。
それでも言いたいから言うのだけど!

ドレスコーズ・毛皮のマリーズ・志磨遼平の楽曲「この悪魔め!」が好き。悪魔のような女に振り回される男の歌なのだが、「口紅から機関車まであいつと僕が手に入れる」の、恋愛観。

大槻ケンヂの「Guru」みたいに、私も殺し合いのようなキャッチボールをしたい。

そういう感覚が、「悪魔になって調伏されたい、悪魔になって堕落させたい」なのだと思う。
私はお前を殺す。そうでないのならお前が私を殺せ。という恋愛観。

私は恋愛観と漫画と音楽の話をしたかったのか。

16タイプ性格診断MBTIの結果を執拗になぞってアピールしたくなるのも、私の威嚇なんだと思う。
自己診断で導かれた「私はこんな人間です」を他人にアピールすることは、たぶん星座は蠍座ですくらいの意味しかないと分かったいるのに、たまに言いたくなる。
それは、私のMBTIタイプに私自身納得していて、気に入って受け入れているからなんだろう。
あわよくば誰かによく見られたい。
その結果が示す長所を、私に見出してほしい。
しかし、それで誰かに「相性が悪いな」「苦手なタイプだな」と距離を取られるのは嫌だ。
私はそのことを小さい人間の自明だと思い、恥じている。
恥じているのに、小さくアピールをすることをやめられない。

理解してほしいと、理解なんかされてたまるか、が共存する。

泣ける曲を聞いて浸ってる自分を客観的に見てキショがってる自分もいて、「そんな曲よりもっとテンション上がるのがあるよ!」と肩を叩いてくる。


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