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【親友なる、】 兄/短編小説

 十六歳の時に一回り歳の違う兄が死んだ。
享年二十八歳はあまりにも若く、死んだという実感すらどこか遠いものに感じていた。
 それから十五年が経ち、俺は今日黒い服を着込み、花を持って歩いている。


 ゆるゆると伸びる坂道をひたすらに登る。周りには誰も居らず、自分の歩く音だけが木々と蝉が鳴く間で響いていた。その下で力尽きた蝉を無数の蟻がせっせと運んでいるのを見て、思わず目を背ける。俺は子供の頃から虫の死骸が苦手だ。生命をなくした抜け殻が怖いような、広いデパートの中で迷子になってしまったような不安な気持ちになり避けてしまう。

───でもね、こうやって命は連綿と続いていくんだ

 まだ小学校に上がる前、近所の公園で蝉や虫を見ては怖いと泣く俺を抱き抱え目を細めながら優しげな声で言った兄を思い出す。
 当時の俺は連綿という言葉を知らなかったが、何か大切な事を言っているのだけは分かった。兄は穏やかな海のような人で、真剣な話をしていると、少しだけその海の温度が下がる。嬉しい時や一緒に遊んでくれている時は温度が上がる。昔は本当にそう思っていたし、兄の纏う雰囲気から海温の上がり下がりを肌で感じる事ができた。それはあくまで俺に対するものだった為、兄以外には言えなかったし、言ったところで信じてもらえなかった。それでも俺は尊敬する兄との秘密が出来たようで、嬉しくてたまらなかった。

 ジジジッと足元で蝉が鳴き、踏んでしまったかと思わず飛び退く。
 美しく飛ぶ蝶やひと夏で命を終える蝉から目を逸らし避ける度に、連綿の意味も、命の繋がりも大きくなったら分かるようになるさ、と言った兄に申し訳なくなる。俺は今でも死骸や死体、すぐに死んでしまいそうなものが苦手だ。


 たっぷりと太陽光を吸収した黒色の服が焼け焦げるのではないかと感じ始めた時に、ようやく目的の場所に着いた。
ひらけた空間に一面の墓石。坂の上にある為か、風が吹き抜け花が揺れた。
 兄の墓は掃除され、まだ新しい花が活けてあった。数日前に誰かが来たのだろう。そしてそれが誰なのか俺は知っていた。

 兄には婚約者がいた。穏やかな海を見守る澄んだ空のような人だった。葬儀の後に一度顔を合わせたきりで、それ以降は会っていない。もしかしたら母は連絡を取っているのかもしれない。毎年同じ花があるのを見ては、安心するような、悲しいような気持ちになる。兄をまだ覚えている人がいる安心感と兄を忘れられずに立ち止まっている人がいる悲しみ。相反する二つが心臓の辺りをぐちゃぐちゃにしていつも胸が苦しくなる。

 水を汲み、掃除をし、花を活ける。何度も繰り返したその手順は思考を挟む事なく進んでいく。以前はここに来るだけでも、兄の死を眼前に突きつけられているようで、苦しかった。それを感じなくなった事が良い変化なのかは未だに分からない。
 線香に火をつけ香炉へとそっと寝かせると、ゆらりと薄く立ち昇る煙と香りに目を細めた。持ってきたリュックサックからすっかりぬるくなってしまった缶ビールを取り出し供える。自身も手に持ち小さく、乾杯と呟いた。

「…兄貴がさ、ビール好きなのか分からないけど持ってきたよ。ぬるくなっちゃったけど、俺が帰ってからちゃんと飲むから勘弁してな。二十歳になったら一緒に呑もうって言ってたじゃん?急にその事思い出してさー。でも兄貴の好きな酒知らないし、そもそも酒呑むんだったかなって考えて結局分からなくてビールにしたよ」

 蝉の鳴き声が重なり合い、一つの鳴き声のようになっていた。
 俺は一人、喋り続ける。

「こういうのって二十歳になった時にやるんだろうね。けど何でか思い付かなくてさ、俺もう三十一だよ。年はとりたくないね、兄貴より年上になっちゃったよ。これから先も、どんどんと…」

 蝉の鳴き声が重なり合い、ぐわんぐわんと響いていた。
 俺は一人、喋り続ける。

「報告なんだけどさ、俺結婚する事になったよ。前に一緒に来た人居ただろ?その人と結婚するんだ。まぁ、前に来た時も結婚の話は出てたんだけどさ…兄貴さ、俺に彼女出来たら紹介してくれって言ってたじゃん?自慢の弟ですーって言うからって。あの時は本当に勘弁してくれよって思ってて、実際に文句、言っちゃったけど、ごめっ…ごめん…」

 蝉の鳴き声が重なり合い、あまりにも重なり過ぎて聞こえなくなった。
 俺はもう、喋ることができない。

 大好きな兄だった。自慢の兄だった。
 ありがとうもごめんも言えずに死んでしまった。そして気が付いてしまった。兄という人物を「兄」としてしか知らない事に。一人の人間として何を考え、何を好み、思うのか。それを知る前に居なくなってしまった。
年が離れていた所為か、兄を知ることよりも自分を知ってほしいと思っていた。頭では仕方のない事だと分かっている。
子供の頃の自分に自身を差し置いて兄を知れというのも、思春期の自分に兄ともっと関われというのも無理な話で、そもそも過去の自分を責めるのはお門違いだ。
 それでも俺はこの行き場のない悲しみを何かの所為にしたかった。ただ一つ残った兄弟としての兄の記憶すら、少しずつ風化し留めようとすればする程に指の隙間からこぼれ落ちていく。

 死者を少しずつ忘れていくことが、生きていく上で正常だなんて、なんて残酷なのだろうとずっと思ってきた。
 思い出す度に辛く、悲しみでしかなかったとしても忘れたくなかった。どうしても、忘れたくなかった。
 けれど俺は生きている。忘却と罪悪感に苛まれながらも、どうしようもない程に生きている。苦しさの中でも共に生き、守りたい存在ができた。これから先、彼女と家庭を持てば加速度的に兄に関する記憶を思い出せなくなるだろう。それを許してほしかった。忘れていく自分を許してあげたかった。

 子供の頃、虫を見ては怖いと泣いていた俺はもう居ない。側で宥めていた兄も居ない。戻りたいと願っても戻れない瞬間の連続が日々なのだと、兄の死を持ってして知った。
 今この瞬間を焦がれる日がいつか来るのかもしれない。それでも、それでも俺は。

 荒く顔を拭くと少しだけ視界がはっきりとした。リュックサックに二つの缶ビールを戻し、歩き出す。
 蝉は変わらずうるさい程に鳴いていて、Tシャツから伸びる剥き出しの二の腕に触れる温度がほんの少しだけ上がったような気がした。


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