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【親愛なる、】 優しき隣人/短編小説

無音をカーペットのように敷き詰めた部屋の中で私は身じろぎ一つせずに転がっていた。天井には光量を落とした白熱球が滲んだ水彩絵の具のように広がっている。じっと見つめれば見つめるほどに白熱球のオレンジが天井に滲み溶けていくようで、もしかしたら私自身も溶けているのではないかと錯覚する。体温と同化したぬるい温度のフローリングは自身との境目を失っていた。 

敷き詰めた無音を剥がしたのは買った時から変えていないスマホの着信音だった。
ワンコール、ツーコール……顔を動かさずに目だけをそちらに向け数える。薄暗い部屋の中でスマホの明かりは太陽のように輝いて、その眩しさが痛い。
じっと見つめたままでいるとふいに音が途切れ安心する。部屋に戻った静寂に私は再び部屋との境界線を失っていく、はずだった。

再度鳴り始めたスマホ。光り出す画面。見つめる私。剥がされていく無音。
二度かかってくるのは急用なのだろう。それでも見つめたまま動かずに相手が留守番電話にメッセージを残してくれるのを待つ。じっと、溶けるように待つ。
間髪入れずに三度目が鳴った時仕方なく這うようにして出ると、へにゃへにゃとした声が鼓膜に貼り付いた。

──もしもし?ミチ?ヒロだけど今日仕事休みだったよね
「……だったと思う」
──うん、休みなんだね。今日は外に出た?
「……出てない」
──じゃあ、今から出られる?イルミネーションが綺麗なんだよ。くっそ寒いけど。一時間くらいしたら迎えに行くから準備しておいて。
「……あのさ」
──あ、電車来たから切るけど、なんか言おうとした?
「……なんでもない」

何故こんなにもこいつは人の話を聞かないのか。実家同士が近いために人生のほとんど最初から関わりを持ってきた。そしていつだって話を聞かないヒロは唐突に連絡してきては出掛けようと言ってくる。かと言って別に予定がある訳でもなくやる事と言えば床や照明と同化していると思い込むくらいだ。

それじゃと少し声が遠くなりブツッと通話が途切れた。
その音が鼓膜に貼り付いた声を強引に剥がしたのを感じながら、ゆっくりと立ち上がると関節がぱきりと鳴った。いくら溶けているように思っても実際は違う。溶けるどころか長いことフローリングに押し付けられた筋肉は固くなり骨は軋む。
高温で焼かれても骨だけは残るのだから当たり前か、いや、焼くのではなく溶けるのならば骨も溶ける…?などと本当は心底どうでもいいと思っている事に脳のリソースを割きながら軽く化粧をする。
余計な事を考えていなければ、今にも溶けた何かが溢れ出て手に負えなくなりそうだった。

コートを着込みフェイクファーのマフラーを首に巻くと毛先が少しチクリとした。鏡の前で一周ぐるりと回ってみる。まぁ、外に出ても問題はなさそうだ。
マンションのエントランスを抜けると見覚えのある車が静かに停車した。窓越しにヒロが手を上げているのが見える。
音もなく止まった車は同じように音を立てずに発車する。

電車じゃなかったの?一度家に戻った。わざわざ?だってミチ電車苦手じゃん。いや別に苦手な訳じゃ……ヒロの声は電話の時よりはっきりしていて、ああ運転しているからかとぼんやり思っている内に車は知らない場所を走っていた。
自分で運転しない私はいつまで経っても道を覚えられない。ヒロは度々ここはどこだと説明してくれるが、地名と自分が実際に訪れた記憶と現在の場所が一致せずに頭が痛くなるのを感じた。

十六歳の時に両親が事故で亡くなってから私はほとんど出歩かなくなった。友達に誘われると出掛けるが自発的に外に出ようと思うことがなくなった。引き取ってくれた母方の祖父母と一緒に住んでいた頃はあまりに引き篭もっていては心配をかけると時折外出していたが、それでも隣街に行く程度であとは自室で寝転がって天井を見上げていた。
友達と遊ぶのは楽しいと感じてもそれ以上にぼんやりと天井を眺めている方が落ち着いた。今も昔も変わらない。私はずっと溶け続けている。

イルミネーションは少し離れた駐車場から見ても分かるほどに広大なものだった。
車を降りると息を吸うたびに冷たい空気が体中に巡るのを感じて心地良かった。ヒロは車の反対側で寒い!とマフラーを首に巻いているが、耳が千切れそうになるくらいに寒くなるのはまだこれからだ。冬は好きだ、寒くなればなるほどに全ての音が降り積もり、やがて無音になっていく。それは美しく完璧で、同時に何者の気配も感じなくなる季節であった。

「ミチ、行くよ?」
「あ、うん」

並んでイルミネーションへと向かって歩く。駐車場は砂利道でざらざらとした感触がブーツ越しに伝わってくる。

「たまにぼーっとしてるよね」
「…そう?」
「今もぼーっとしてたじゃん」
「ん、ああ、そっか」

なまじ付き合いが長い分、ヒロの前では気が抜けているのかもしれないと歩きながら思う。とは言え今も続く学生時代からの友人にも同じような事を言われるため、案外私はそんなものなのかもしれない。

更に進むと普段は自然公園として使われている敷地に入る。そのイルミネーションはピカリピカリと光るものではなく、淡い色で統一されひとつひとつの光の粒が緩やかに重なり合いそれぞれを引き立てあっていた。一瞬この光の中に溶けられたら、という思いが頭を過ぎり、しかしどうやっても混じり合えないことをヒロの声で思い出す。

「な、綺麗だろ?」
「うん」

何故こんなにも良くしてくれるのだろう?と思うほどにヒロも周りの友人も私に関わる人はいつだって優しい。申し訳なくなるほどに優しく、その優しさに疑問や罪悪感を持つ自分が少し嫌いで、けれども変えようのない部分だとも知っている。

グラデーションのように変わっていく淡い色を見ながら道沿いに歩いていくと家族で来ている人が多いことに気がつく。時間が早いからだろうか。光の中で無邪気に笑う子供たちは可愛らしく微笑ましい。目の前の楽しいことだけにフォーカスして他のことを考えずにいられるのは、子供の特権だ。出掛けても帰り道のことなんか気にせずに疲れるまではしゃぎ回る。小さい頃は私の家族とヒロの家族でよく遠出したっけ、そんな事を思い出して懐かしい気持ちになった。
同じように子供たちを見ていたヒロは、

「あーあ、クリスマス前に浮気されて別れるとか何の罰かね」

と、鼻の頭を赤くして笑う。口元が厚手のマフラーに隠れているせいか少し聞き取りづらいその声は特段悲観した様子もない。
ヒロの彼女とは私がまだ恋人がいた頃に何度か一緒に遊んだが、柔らかい雰囲気の人だった。何となく好かれていない気がしてあまり仲良くなることもなく、私が恋人と別れてからは会う機会もなくなったが浮気、か。何度か感じた値踏みするような言動と私自身が感じた雰囲気の矛盾がそこに帰結するとは思わなかった。

「…浮気するような人は別れて正解だと思うけど」
「そうなんだけどさ。クリスマスの雰囲気が傷口に塩というか、そもそも浮気されたこと自体ショックだし」
「…簡単には割り切れないよね」

私が恋人と別れた理由も相手の浮気だった。ミチはいつだって俺を見ていない、そもそもさ、ご両親が亡くなったのは悲しい事だとは思うよ。けどいつまでメソメソしてる訳?いい加減前向いたら?
最後に話しをした時に言われた言葉が脳から出て耳にぶつかり木霊する。私が恋人と別れた一番の理由は、浮気されたことでもそれを責任転嫁された事でもなく、その言葉が許せなかったのかもしれない。

「でもまぁショックだけど、ミチも一人クリスマスだから仲間だな」
「いやいやいや、私はそもそも去年も一人だから」
「また作らないの?」
「恋人って作るもの?」
「ミチは理想が高いからなー作ったら材料費高そうだ」
「最高級品でお願いするわ」

クスクスと笑い合うと、出てきてくれて良かったよとヒロが小さく呟いたのが耳に届いた。聞こえなかった振りをしてイルミネーションに向き直る。
分かってる。今日のコレはヒロが恋人と別れただとか彼の状況に関係なく、私のためのものだと。両親が死んでから必要最低限しか外出しなくなった私を連れ出すためのものだと、分かっている。

ヒロは私が両親の死で変わってしまったと思っているのだろう。学生の時も社会人になった今でもずっと変わらずにヒロはあの手この手で私を外の世界と触れさせようとする。

「理想高いのもいいけど、あんまりだとご両親が悲しむぞー」

ピクリと目尻が震えた。ヒロはいいやつだ。間違いなくいいやつだ。ただ、こうやって度々両親の事を引き合いに出す。
だから私は。
けれど私は。
チリチリと喉の奥を擦られているような気分になり、自分の心配してなってと笑いながら言って歩き出す。思ったよりも声が上ずっていて、誰に責められた訳でもないのに焦燥感に駆られる。

「ミチのお父さん心配性だったじゃん。あーでもそれなら変なのに引っかかってほしくないって思うか」
「そうだったっけ」
「自分の親のことじゃん」
「そうだったかも」

チリチリチリリ。チリチリチリリ。

「いっつもさ、ミチが彼氏連れてきたら父さんは会わん!って言っててさ」
「そうだね」
「で、ミチのお母さんがじゃあ自分が会うからお父さんはいいですって」
「懐かしいね」

チリチリチリリ。チリチリチリリ。

「仲良かったな、二人とも」
「…うん」

私は、酷い人間だろうか。
『死んだ両親のことに触れてほしくない』
そう思う、私は酷い人間だろうか。

ヒロは悪気なんてなく、むしろ善意で両親のことを口にする。
亡くなった人を忘れないためには、話すしかないからだ。確かにそこに居たと存在を認めているからこそ、話題に出し昔のことを振り返る。ただそれだけだ。けれど私はヒロが、友人が、親戚が、全ての人が両親の事に触れる度に胃と食道の境目を撫でられるような感覚に陥る。

"ご両親はきっと嬉しく思っているよ"
"お父さんとお母さんが見守っていてくれるよ"
"思い出は大切にして、貴方は前を向いて生きていかなくちゃ"

言われる度に微笑んで頷く癖がついた。それ以上にもそれ以下にも出来ることがなかった。
相手は善意で、いや、もっと言えば、消化された出来事の会話でありそれは日常会話と変わらない。余程のことがなければ、良いお天気ですねと言われて怒る人はいないだろう。それと同じだ。そのズレが胃と食道の境目を撫でる。

私は、まだ、消化できていない。この先も消化しきることはないのだろう。噛み砕いて落とし込むにはあまりにも人生は短い。

両親が今の私を見てどう思っているのか、見守っているかいないか、そもそもそういった想いがこの世界に残っているのかどうかすら、他者と私の間で食い違い続ける。故に触れたくない。触れられたくもない。この苦しみも悲しみも私だけのもので、ずっと向き合っていく。そこに他者の感情は、要らない。

そんな事を思っているのに、微笑んで自分の意見を言わない自分に嫌気が差す。いや、言わなくていいとも思っている。どちらも本音だ。触れないでくれと言えば優しい周りの人たちは触れずにいてくれるだろう。でも、けれど、どうしても言えない。この悲しみは自分だけのものだと心底思っているのに言えない。何故なら、存在していた事を肯定してくれる彼らに救われているから。

どうしようもない矛盾。更に矛盾。そして矛盾。
どうしたって生きている私と時の止まった両親を同じように扱っている時点でズレてしまっているのだ、私自身がどうしようもなく。
だから溶けていく、混ざり合おうとする。滲んだ天井を見上げて、離れていく自分と両親を繋ぎ止めるのだ。

「ミチ」

振り返るとヒロがいた。へにゃへにゃとした声がゆっくりと私を人の形に戻していく。そうだった、私はヒロとイルミネーションを見に来て、

「どうしたの?泣きそうな顔してる」

心配そうな顔のヒロを見て、何故だかおかしくなった。おかしくて悲しくて、笑いたくて泣きたくなった。

矛盾していても苦しくても、私が溶けきらないのはヒロや友人や周りの人間のおかけだ。だからこそ、その優しさは優しさとしての側面だけを貰って、静かに生きていく。今までも、これからも。

死に対する痛みを共有するのではなく、共有できないのでもなく、しない。
それが私の大切な人の死に対する向き合い方だと気が付いてしまった。
それが良いことなのか、そうではないのかは分からない。その二つに定義できることなのかも分からない。自身が死ぬ間際まで、死しても分からないだろう。

それでいい。
共有しないことは時として今以上の苦しみをもたらすかもしれない。しかし周りは変わらずに優しく、私を愛すだろう。その愛を受け取って少しでも返せたらいい。

「ヒロ、ありがとうね」
「は?え、何?明日雪でも降るの?」
「うるさいよ」

イルミネーションの光が滲んで溶けて落ちていく。その淡い光は暖かく、心臓をぎゅっと掴んだまま離さない。


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