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通りすがる、通り過ぎる、点を結ぶ。

ひとりごと、ひとりごと。
ぽつぽつ、ひとりごと。

子どもの側に、本気でで向き合ってくれる人がひとりも居ないなら、人数がどんなに居ようと、たぶんそれは「不在」だ。

おおげさでなく「命」の危機だと思う。

まっすぐに舗装された道の先に数人の人と子どもの姿がぼんやり視界にある。家族かな?何も気に留めることなく通りすがりの人として私はすれ違う。

近づくにつれて様々な情報が飛び込んでくる。

こういうとき、どうしても気になってそこで何が起きているのか意識が向かってしまう。詳細を知りたくなってしまう。

その子が、ものすごく些細なこと(その場にいた大多数の人がそう思えるような)で怒りだし、泣きながら「我慢して何かいいことあるの?」と言っているのが聞こえる。もう、さんざん我慢してきたのだと想像する。

「なんでそんなことぐらい我慢できないの?」と、そこにいた人たちは相手にしなかったが、それは、ただのわがままとは違っていた。

大人は「今」の話をしている。
その子は「今まで(そしてたぶんこれから)」の話をしている。

どうしても話がかみ合わない。

その子の心の叫び。
絶叫だった。

ひとつひとつの言動・・・
それだけを切り取ると、すべてその子がしていることなのだけど、そうさせる、そうさせてきた背景がくっきりと見えてくるようだった。

それはあくまで想像で仮定、でも、いま目の前で起きていることにひっかかる。

ああ、そんでどうするの?私は。
いつも同じところに行き着くけど、

となりで彼女の見ている世界を見た。
しゃがんで、ちらりと同じ方向を見てみる。
視線があるならまだしも、素通りしていくたくさんの人の姿は、まるで自分が「不在」として扱われているような絶望感だった。

いや、それは私の絶望であって彼女のものかどうかはわからない。

周囲にいた人を労い、彼女に声をかける。
気の利いた言葉一つ言えなかったけど「この人どんな顔なんだろ?」って私を見てくれた目には少しだけ警戒が溶けていたように思う。

おこがましくも、それは希望か?
いや、私にとっての希望か。

自分の気持ちに忠実で、それを言語化している。
そばにいる大人に訴えることができている。

それをあきらめてはいけない、キャッチする人もいる。

「あなたはいい子だよ。」って伝えたかったんだ。

この世の中に、ときどき私は絶望する。
でも、「私」が存在していることが奇跡だと気づかない世の中にときどき、あっかんべーしてみせる。

だいじょうぶ、うまくやっていけるよ。
自分に絶望する必要はないんだ。




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