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ジャズの専門店ミムラさんの思い出(2011年9月22日ブログ記事より)

2011年9月22日のブログ記事より(2020年10月加筆修正済み)

大阪に帰ってきました。
私はいつも帰阪のたびに「いつミムラさんに行けるか」を頭のどこかで考えていたことに、今更ながら気付きました。「今回はこの日に大阪で演奏があるから梅田を通るな」「この日が空いてるな」と思って自然と予定を組んでいたんです。
今日はレッスンだけの予定で、半日空いてたので、いつも通りならレッスン前に寄っていたでしょう。ぽっかり空いた時間に、これは以前ならミムラさんに行く時間だったなー、と。

7月29日にお亡くなりになられてから、あちこちで思い出話のブログなどを拝見し、「そうそう」と思いつつ一緒になって悼んではいたのですが、自分で色々書くことはためらっていました。何というか、私の個人的経験なんて書いたところで、ミムラさんとの思い出を持っていらっしゃる方には邪魔だと思えて仕方なかったのです。

先日、奥様に分けて頂いた遺品を使って、これからの自分の作品に組み込めるよう、なんだかんだしておりました。(追記:『Music In You』の撮影に使いました)
そして今週自主盤『I'm Missing You』のリマスター盤発売ライブがあるので、練習しながら色々思い出したり考えたりしてましたが、自主盤の再発、それから11月の新録『Music In You』をリリースする機会をメイキングしてくれたのも三村さんで、新録『Music In You』の分は、録音してすぐ最初に音源を聴いてもらったのは、三村さんだったんです。

『I'm Missing You』は、ちょうど今日から7年前の9月22日ぐらいに自宅に届きました。そして10月にミムラさんのお店に持っていきました。飛び込み営業するなんて初めてで、実は自主盤で飛び込み営業をしたのは、後にも先にもミムラさん一軒だったので、やっぱりご縁だったのかなと思います。

なぜミムラさんのところに持っていったかというと、「元ワルツ堂」というキーワードがあったからでした。

私は98年にジャズの勉強を始めて、98年から大阪音大に通っていましたが、以降、卒業後の仕事もほとんどの乗り継ぎ駅が梅田でした。そのため、ジャズCDを探しに行くのはもっぱら「キタ」で、丸ビルのタワレコと阪神百貨店(ちゃんと記憶していませんが、WAVEでしたっけ?)コースか、ESTのワルツ堂、ロフトのWAVE、LPコーナーに行くコースで、よくCDを探していました。たまに足を伸ばして「ミナミ」へ行く時は、アメ村のタワレコ、OPAのHMVから難波のビッグピンクやナカ、ライトハウスあたりまで細かい店に行ってました。

当時の店舗はそれぞれ特色があって楽しかったのですが、ESTのワルツ堂はかなり物が多く、しかも探し難い雑多な陳列で「宝探し」感があり、毎回苦戦しました。でも隅々探せば本当に楽しく掘り出し物も必ずあって、すごく面白い店だったんですよね。それがワルツ堂が倒産で無くなりました。そのうち、ロフトのWAVEもLPコーナーも無くなったので、私のその物色コースは無くなりました。上に挙げた店も、かなり無くなっています。
まあ今考えたら、そういうレコ屋があった時にジャズを始めることができたので、幸せだったとも言えます。

それで、その物色コースが無くなったところで、あちこちで薄水色の「ジャズの専門店ミムラ」のショップカードを見かけるようになりました。聞けば、どうやら元ESTワルツ堂のジャズ担当の方が開いたお店らしいということ。ふむふむとは思ってたんですが、堂山町などにあまり用事がないため、CDを持って行く時までは、行ったことがありませんでした。

『I'm Missing You』は、500枚ぐらい作ればいいやと思ってたんですが、500枚も1000枚も値段が変わらなかったため、1000枚プレスに。そうしたら、自宅に100枚×10箱届いた時はその量に「絶対こんな量は売れない」と、引きましたよ。
これはさすがにどこかに預けた方がいいなと思い、どうしようか考えてた時にミムラさんのショップカードを思い出して、個人店ならもしかして扱ってくれるかもと思って、持って行ったんです。

元々このCDを録音したのは、待っていても何も起こらないし、名刺代わりの作品を作ろうと思ったからです。

当時、エンリコ・ピエラヌンツィの曲やオリジナル曲でライブする時は、もちろん私の演奏が稚拙だったこともありますが、聴いてくれるお客さんが本当にいませんでした。
でも、自分自身がヨーロッパ・ジャズ・フリークなので、自分のような趣向の人間が沢山いることも知ってたし、そういう人たちに沢山聴いてもらえたらと思ってたんです。
『I'm Missing You』は、当時自分がヨーロッパ・ジャズ・フリークとして聴きたいと思える選曲と曲順で、精一杯フリーク目線でやりたいように作ったところはあります。私はCDに育てられてるから、この価値観は間違ってない!と半ば信じ込んで、作っていたような気がします。

それに加え、CDを作ろうと思ったのは、お客さんが入らないからと「入らないなー」と言ってるだけで何も動かないミュージシャンは格好悪いなあと思っていたからです。

当時、ある日本の超有名ミュージシャンのライブに行った時、その人が「ジャズはこんなにいい音楽なのに、お客さんが入らない。嘆かわしい」「売れるのは、どうしようもない商業音楽」ということをMCで言ったんですが、あんなにがっかりしたことはなかったです。
人が動くには何かの理由が絶対あるし、人が動かないのにも絶対に何かの理由がある。ジャズって他から見たらちょっと難しいことをしているかもしれないけど、音楽の真剣度はそのままで、ポピュラリティを得る努力をしてきたかどうかというと、そうではないと思いました。
「売れるものはダメ、良いものは売れない」みたいな価値観で自分のことを肯定して生きていくのは嫌だなと思いましたし、他人のせいにするのって格好悪いじゃないですか。自分の人生は自分の選択の積み重ねによってできているのだし、他人のせいにせず歯をくいしばって現状を受け止め、自省し、ならどうすればいいか考えれば良いと思うのです。
想像ですが、同世代や下の世代のミュージシャンで似たような目線の人も多いのは、それは世代的に、景気の良い時を経験していないというのも大きい気はしています。
自分で切り開く動きも起こさないのに厭世的なことを言うミュージシャンにはなりたくなかったので、とにかく1枚作って動こうと思ったんです。翌年の横濱ジャズプロムナードのコンペティション出場も、同じようなモチベーションで出た部分も、ほんの少しありました。(大きくは別の理由です、また次回に)

そうしたら、最初に入ったお店『ジャズの専門店ミムラ』が、最高の出会いだったんですよ。

できたてのCDを持って最初にお店に伺った時は、先にお客さんが一人いらして、その方が帰るまで話しかけるのを待ちました。
というのは、やはり初めてのお店、小さな個人店でジャズの専門店と名乗っているところは、きっと面倒臭いオヤジがいるに違いないと思ってました。実際、私はあちこちレコ屋に行くのが好きでしたが、自分のような二十歳そこそこの女性がいたことなんてほとんど記憶にありませんし、たまに「若い女がこんなところに何で来たんや」的なオーラに包まれることがありました。
何というか、ジャズはおじさんのものだみたいな事を、おじさんたちが思ってそうな排他的な空気って時々あるじゃないですか、まあいいんですけど、「若い女に何がわかるねん」的な空気で接せられることって少なくなかったですよ。LPコーナーは全然そんなことなくて、本当にいろいろ良いものを沢山教えて貰いました。

04年にミムラさんに初めて伺った時、ESTワルツ堂時代に店員さんと喋った記憶がないしどんな方かもわからないので、わりと気構えて行ったと思うんですが、おそらくミムラさんから「何かお探しですか」と話しかけてもらったんじゃないかな、その日のやりとりであまり緊張した記憶がないし、普段からどんなお客さんでも「何かお探しですか」ってすぐ声かけてらっしゃいましたからね。

その場ですぐパッケージを開け、その場ですぐ聴いて下さって、その場ですぐ「10枚持っておいで」と言って下さいました。気構えて行ったのが嘘みたいな感じでした。
その後「10枚売れたからまた10枚持ってきて」を繰り返し、その度にお店に行って、最終的には170枚売ってもらったんですよね。あの狭いお店で、ローカルのミュージシャンの1枚の自主制作アルバムが、170枚ですよ。私が行き出した頃は、まだミムラさんとお付き合いのあるミュージシャンは少なく、3人ぐらいは覚えてますが、在阪の方は知る限り1人しかいませんでした。

全国的にアルバムが紹介される前に、ミムラさんのお客様宅で20人ほど集めたプライベートコンサートを開催して頂きました。その時、私の持ってるCD持ってきーやと言って、店に委託したCDでもないのにかなり枚数売って頂いたのを覚えています。
全国流通しだしたのは、05年の1月に、ある大阪の問屋さんがうちで流通をやろうと声かけて下さったんですが、たまたまミムラさんと取引のない問屋さんだったので、ミムラさんでの委託販売はずっと引き続きやってもらってました。

そして05年に横濱ジャズプロムナードのコンペティションで優勝して、2つのレコード会社に声かけて頂いたのですが、1社は「実は去年、大阪に出張に行った時にミムラさんに〈これ聴いたってー〉と自主盤を勧めてもらって買って聴いていた」と連絡を下さったのです。それがデビューしたスパイスオブライフで、ミムラさんの仲介のもと、ミムラさんで待ち合わせして、初めてお会いしました。あとで聞けば、それは自主盤をミムラさんに預けて間もない時期だったそうです。
先月のジャズライフで『I'm Missing You』のレビューを書いて下さった評論家の後藤誠さんも、ミムラさんに勧められてCDを持っていたとレビューで書いて下さっていて、色んな方に勧めて頂いてたのだなあと、改めて感謝の念にたえません。

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「売ろうと思ったものを売る力」のある販売者さんって、凄いですよね。もう本当に、あの規模の店舗で170枚とかありえないので、売ろうと思ったものを売れる方だったんです。

余談ですが、日本橋のディスクピアの前のジャズ担当者さんもそういう方で、初回70枚とか取って下さってて、インストアライブをすると決まったら店内が物凄い勢いで自作パネル(看板屋に発注したものではなく)で溢れ、沢山人を集めてました。
関西で何人かそういうジャズ売り場の販売の方を知っていましたが、皆さん本当に知識豊富で、お客さんの顔も物凄く読んでらっしゃるんですよね。完全なマンパワーです。お客さんの方も、そのジャズ担当者から買っているという意識でした。
個人的に感じるのは、関西のおっちゃんは地元の人に対して応援したるで!という意識が、他の地域より少し強いような気がします。それは店舗の方だけでなくリスナーの方もそうで、土地柄かもしれませんね。

ちなみに、その日本橋ディスクピアの担当者さんはミムラさんのことを心の師匠と呼び慕ってらっしゃいましたが、ディスクピアでインストアライブの時は、ミムラさんがご自分のホームページに「亀ちゃんとこ行ったってねー」と宣伝してらっしゃいました。最近そういうことって、なかなかないだろうなあ。

ミムラさんに最後に伺ったのは、7月22日だったと思います。リマスター再発盤『I'm Missing You』の予約特典にサインを入れに行ったのですが、これは毎回CDを出す時の恒例で、どのCDも必ずミムラさんだけのオリジナル特典をつけていました。

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(最後にお店に行った2011年7月22日、ミムラさんのFacebookより転載)


実は今までのリリースのうち1枚は、販売会社的にフライングも特典も駄目みたいなことを言われてたんですが、ミムラさんだけはデビューのきっかけにもなり特別なので、会社に了解をとってミムラ特典は継続してやらせてもらいました。
いつも大体初回は50枚取って頂いてましたが、いつも予約ですぐ売ってしまわれるので、自主盤の限定生産は「(限定だから)後で手に入らへんようになったら、瞳ちゃんから委託で分けてーな」と、そんな話をしてました。
特典にサインを入れる時、お客様のお名前も一緒に書くのですが、特に予約帳を見るわけでもなく、「○○さん、○○さん、あ、○○さんも」と、平気で30、40人のお名前を挙げていかれます。完全にお客さんが見えて商売してはるんですよね。そうじゃないと、初回で50枚なんて取れないんですけど。

お店の写真があればいいのですが、本当に狭いお店でしたので、お店をご覧になれば50枚在庫を持つことはイレギュラーだとおわかり頂けると思います。

ミムラさんご逝去の報せを下さったのは、前述の日本橋ディスクピアの当時のジャズ担当者さん「亀ちゃん」からで、朝イチの電話で伝えられ、わけがわからず、悲しいとかもわかりませんでした。前日に倒れられた時に、直前まで一緒におられたそうです。その後半日ぐらい経って、お客様から沢山メールや連絡がきたのですが、正直心に追い討ちをかける状態で辛かったです。

その後閉店し、大阪のホームが無くなって寂しい思いをしていますが、ミムラさんにお世話になったからこそ、CDショップへの挨拶まわりもまだしていますし、アーティストはCDを作った後は放ったらかしで、宣伝や売る側の努力について考えないということがあってはいけないと思いました。売る側のお仕事にもリスペクトを持ってやっていきたいなと、いつも思っています。


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