一首鑑賞 いち。(斎藤秀雄)

未補の一首鑑賞文。
最初の一首は、斎藤秀雄さんのこの歌です。

死ぬときにくぐる粘液 死ぬまでに使った文字が浮かんで沈む/斎藤秀雄

「粘液」という言葉が、歌全体のイメージを作っている。
日常的にあまり意識しない、異質な、どこかほの暗い、畏怖。まとわりついてくる。
それほどに、「粘液」のインパクトが強かった。
一般的に死ぬときにくぐるもの、のイメージに粘液ってあるのでしょうか。
あまりない、と思うのだけれど。
(死ぬ際によく連想されるのは、門、橋、川、トンネルなど。境界線を示すものが多い)
だからこそ、なぜ「粘液」なのだろうという引っかかりが生まれた。
この歌を読むにあたって、鍵になる言葉だと思ったから。

歌に「死」の字が二回出てくることも気になる。
「死ぬまでに」は、「今までに」でも「人生に」でも「生涯に」でも、他に置き換えられる言葉はたくさんあるはずなのに。
あえてもう一度、「死」を繰り返したこと。

「粘液」と「死」
繋がりが気になって、少し調べてみると、死ぬ際に粘液が関係する場合があった。

人がもうすぐ死ぬときの状態を、死戦期と呼ぶらしい。
死戦期になると、身体の様々な機能が少しずつ失われていき、死の兆候を示しだす。(事故死などの不慮の死は除いて)
その兆候の一つに、死前喘鳴という呼吸があると知った。(臨終喉声とも言う)
咽喉に気管から分泌される粘液が溜まって、呼吸が困難になるそうだ。独特の呼吸音を発して、嚥下することも出来なくなる。声を発することも、おそらく出来ない。

怖いな、と思った。とても。
最期の最期、言いたいこと、話したいことがたくさんあるだろうに。何も話せなくなってしまうなんて。
それでも、意識が働いていれば、頭の中にはたくさんの言葉が浮かぶのだろう。
それこそ、自分が知る限りの全ての言葉が。
でも、伝えられずに、浮かんだそばから、沈んでいく。喉にたまった粘液の中に。
そうして、死んでいく。

人は皆、産道を通って生まれてくる。
母親の粘膜を通り、それこそ粘液にまみれて。何一つ言葉を持たずに。
生きている間に、どれほど多くの言葉を覚えても、最期、死ぬときは全てを残せない。
何もない、ゼロになって死ぬ。
今でこそ、死んだら火葬されるけれど、世が世ならそのまま打ち捨てられ、腐り果てて、自らが粘液と化して死ぬ。

粘液を通って生まれた人間が、また粘液をくぐって死んでいくならば、そこには廻り続ける輪廻があるなと思う。
失った言葉を、また次の世で得られるのは、救いのようでもあるし、絶望のようでもある。(結局はまた失うのだから。)

普段意識しない「死の瞬間」が色濃く漂うこと。獲得と喪失を繰り返して、生が廻ること。
最初に歌を読んだときに感じた畏怖は、ここから来ていたのかもしれない。
死を強く意識してしまったら、怖くて生きていけないから。
それなのに、こんなに深くこの歌を考えてしまったこと。
それこそが、この歌の持つ力だと思う。
考えてはいけないのに、惹かれてしまう、魅入られてしまう。

美しい風景や、心情を詠んだ歌だけが、良い歌ではないのだと気づかせてもらいました。
打ちのめされるような歌でした。

#短歌
#tanka
#一首鑑賞

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