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人生を生きるということ。私が尊敬するのは祖父❤️

先日90歳で他界した大好きな祖父。
かっこよくて、いつもハットをかぶるお洒落さ、愛情の深さ、芯の太さ。
偉大すぎる祖父でした。
火葬場で色んな思い出話をする中で、新たに知ることが沢山でもっともっと大好きになりました😍
亡くなった今も、祖父宅へ毎日遊びに行き「じいちゃん今日もかっこいいね!」など話しかけ、お線香をあげています。遺影の写真は私が以前撮った祖母や叔父叔母との家族ショット📸満面の笑みで、しかもかっこいいんです✨

祖父の歴史に、私も『自分の人生を全うするぞ!』という想いを抱いたので、ブログに残すことにしました🤗先日から書こうと思っていたけど、涙が溢れ出て書けなかったんです。自分の中でも、もっと前向きに❤️と色々な覚悟を決めたので、思いつくままに綴ります☺️

昭和6年東京生まれ
一番右がおじいちゃん👴
写真に傷が(祖父の顔にも)沢山あるけど、残っていることが奇跡です👏

昭和11年(祖父5歳)
日本政府は、満州(現中国の中の日本の支配地)の日本人増加と日本国内の農業恐慌の緩和策として日本人を500万人満州に移住させる「満州開拓移民推進計画」を発表し、国の割り当てで第14次に分け、27万人の日本人が満州へ移民として移り住みました。

日本の歴史で習ったことがあると思いますが、「満州開拓団」として満州へ一家で渡る⛴父母姉祖父、そしてその後弟2人いたのかな?

昭和12年(祖父6歳)
日中戦争が始まる。
戦争拡大のため、開拓団の男性5万人が兵士として軍に召集される。その中に祖父の父も含まれました。

開拓団として、残された高齢者や女性、未成年者は、交戦や病気などで約8万人が死亡したと言われています。

昭和20年(祖父13歳)1945年8月戦争にソ連が参戦
日本軍は開拓団を棄てて撤収しました。

この時、祖父の母親は病気で他界。弟達も他界。
祖父と姉はソ連の兵士、戦車に追われながらも必死に逃げたそうです。
戦車から追われる中、ハルピンまで逃げ、気づいたら亡くなった人の横で寒さに耐えしのぎながら身を守った。ネットで調べたけど、ソ連に追われる中、集団自決をする人達も多かったみたい😢

「日本に帰られる船がでる」
それを知り、祖父と姉は港へ、そこで祖父は高熱病気へ。
その状態で船には乗ることげできなかった。
祖父の姉は、祖父を置き去りにし、一人船に乗り日本へ帰国。
(お葬式で知ったのだけど、祖父は子どもを8人もち子育てしながらも、お酒を飲むと、姉から置いて行かれたことを思い出しては涙していたそう)

ひとり残った祖父。
道端の草むらで倒れていたのを、中国人に拾われ、働かされた。
十分な食事も与えられず、ソ連の兵士から逃げ回るだけでも身は痩せほそっていたのだろう。
使いものにならない、と次の中国人に回され、そしてまた次の中国人に回される。

4人目の中国人と日本人夫婦に回され。
何百頭の山羊を放牧し、また小屋に戻し、戻すのがかなり大変だった。
この時、今でいう中学1〜2年生。想像するだけでゾッとするし、祖父の強さに涙します。

この時狼に襲われそうになった話をよく聞いたな。
生活の場は山羊小屋。
十分な食事も与えられない。祖父は、山羊のミルクを搾りながら飲んでいた。
中国人と日本人夫婦は、なんでこの子はご飯も十分に与えていないのに、と不思議に思われていたんだって。

そこから成人し、中国の国の仕事。日本で言う公務員として、林業に携わった。
そこで、日本人の祖母(祖母の父もシベリア出兵で召集されていた)と結婚し、中国の黒竜江省で子宝8人に恵まれる。
何にもないど田舎の暮らしだったみたい。

昭和47年(祖父40歳)
日中国交回復

昭和50年(祖父43歳)
公安局から日本に帰れるとの知らせがくる。約1年、日本で過ごす祖父の父との手紙のやりとりの末、ようやく43歳で一家で帰国。日本へはプロペラ機✈︎で帰ってきたそう。
私の母は14歳、この時の話は詳細に覚えている。中国での大金を持っており、中国の警察に守られながら帰国した。
この時最後に拾って育ててくれた中国人と日本人夫婦にお礼として100万程渡したんだって。祖父の人柄が溢れているなと思った。中国では大金だったけど、日本円に換算すると円高のためかなり減ったんだって。

母達子ども8人は、祖父母から「日本に帰られても、塩水を飲む覚悟で生きていこう」と言われていたそう。

祖父の父が過ごす、長崎へ、祖父祖母子8人。
長崎新聞にも一家の写真が出て(今も残っている)。
色んな物資が届き、日赤の毛布を使っていたそう。

まずは、生活費を稼ぐための仕事。
43歳で職業訓練校へ。45歳で卒業し、溶接の仕事へ。
生活保護の案内がきたが、自分達の力で生活をするという信念で生活保護を断った。

母から聞いた話、
溶接の仕事では、嫌がらせを受けたことも。
1週間の出張を言われたが、子ども8人も育てるため、断ったことで嫌がらせを受ける。

複数でやる仕事を、祖父だけに任せられた。
「どうせ出来ないだろう」と思われていたが、
祖父は夜遅くまで働き、作り上げやり遂げた。
そして、周囲を実力で認めさせた。

その背景には、苛立つ祖父を祖母がサポートし仕事に送り出していた。
祖母の縁の下の力持ちがあったのだと感じる🥺元気で明るい祖母の存在も偉大。
祖母は施設に、寝たきりだし、コロナで2年以上も会えていない。寂しいよー。

私の知っている祖父は
・愛情深い
・芯がある
・奉仕の精神
・恩義を忘れない
・お酒が好き
・みんなでワイワイすることが好き
・料理が上手

すごい人だった🥺

毎年餅つきをするのだけれど
餅米を蒸す、大きな鉄なべも祖父が退職の時に自分で溶接した特別な鍋。
餅つきをした後は、その鍋で角煮を煮る。
スパイス調合は祖父担当。本当料理上手。
独身の時は、仕事帰りに祖父の手料理を食べに行ってました。
美味しいんだよね🌸

祖父の死を通して
自分がどう生きたいかを考えました❗️
そして何歳からでもチャレンジできることを感じました☺️

祖父のような人になる
そして祖母のような暖かさももち
自分のやりたいことをしていきます❤️

最後まで読んでくださりありがとうございました💝

皆さんの尊敬する人は?☺️

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