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中国カルチャーを追いかけて(その1)

(タイトル写真:photo by Hitomi Oyama)

『中国新世代 チャイナ・ニュージェネレーション』の「はじめに」で「中国カルチャーを追い始めてから23年が経つ」と書いた。この本は、ちょっとした一区切りになったので、私が中国や中国カルチャーに興味を持ったきっかけについてまとめてみた。思いのほか長くなってしまったので、3回に分けて掲載したいと思う。

私は、短大から大学に編入学し、学生生活を4年間過ごした。短大での専攻は、英語・英米文学だった。高校生の頃から、英語は好きで勉強していたので、自然と英語・英米文学に進んだ。しかし、短大に入学し、仲良くなった友人の影響もあってか、次第に興味が映画に移っていった。1日、多い時で映画館で3本見るほど映画にはまった。特に、中国映画や台湾映画、香港映画を好んで見ていた。同じアジア人だからだろうか、どこか共通の人間味が感じられ、違和感なく入り込めたのだ。

当時、ミニシアターでは、チャン・イーモウやチェン・カイコウ、ホウ・シャオシェンなどの大御所の作品が多数上映されていた。ただ見るだけではもったいないので、ノートに映画の半券を貼り付け、その横に感想を書いていくという「映画ノート」を書き始めたのもその頃だ(最近、実家で久しぶりに見つけて、数百本分の感想が書いてあって自分でも驚いた)。編入学して、映画や演劇の概論を学ぶ学部に入ると、より勢いがついたのか、映画や演劇、音楽ライブなどに足繁く通った。

大学では、今でも感謝している先生との出会いもあった。映画評論家の故和久本みさ子先生との出会いだ。非常勤で授業をもっていた和久本先生の授業は、毎週どの授業よりも楽しみにしていた。ある日、授業終了後、和久本先生に「映画が大好きで、映画ノートをつけている」とノートを見せながら伝えると数日預からせてと言ってくれた。後日、ノートを返してもらった時に、和久本先生から「こんなに映画が好きなら、キネマ旬報の編集長を紹介するわ」と思いがけない一言をいただいた。数日後、和久本先生に連れられて、キネマ旬報の編集長に会うと、また思いがけないことに「雑用でよければ、バイトしないか」と言ってもらえた。その日から、一週間に数回キネマ旬報でアルバイトをするようになった。

キネマ旬報の「中華電影完全データブック」という特集号で、初めて編集補佐として編集の仕事に携わった。そして、大学卒業を前に、もっと中国のことが知りたいと思い、中国への留学を決めた。大学の第二外国語はフランス語だったから、中国語は習ったことがなかった。発音が難しい言語という知識くらいはあったけれど、中国映画で流れる綺麗な音の中国語には、少し憧れもあった。言語を学べば、映画の見え方も変わってくるだろうと思った。だから、留学先は、迷わず、中国一の映画大学である「北京電影学院」で中国語を学ぶことを選んだ。1996年のことだ。

北京電影学院の敷地では、連日のように学部の中国人の学生たちが課題の映像撮影をしている姿を目にしたし、敷地内の大きな映画館では、留学生も学生証を提示すれば無料で映画が見られた。映画にどっぷりと浸かれる環境だった。半年後、環境を変えたいと思い、中国の俳優や女優を目指す卵たちが通う演劇の学校「中央戯劇学院」に移った(冒頭の写真は当時の入口)。そこでは、連日のように中国人の学生たちが発声練習や体を鍛えている姿を目にした。ここから、未来の俳優、女優が誕生するのかと思うと、ワクワクした。ちなみに、このワクワクは現実になったわけで、今、当時学生だった彼ら・彼女らをスクリーンで目にする度に、懐かしい気持ちがする。

和久本みさ子さんのこと。(madame FIGARO.jp)
https://madamefigaro.jp/blog/figaro-japon/1217wakumoto.html


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