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MBTIを好む人と好まない人の違いのMBTI的考察

 必ずや出てくるであろう反論を恐れずに、思い切って単純に、あるいは暴力的に定義づけるのであれば、MBTIを好む人と好まない人の違いは、たぶん次のようになるだろう。

・外向型(頭文字がEの人):MBTIを好む
・内向型(頭文字がIの人) :MBTIを好まない

 これは次の場合に当てはまるときにのみ効力を発揮するものだ。すなわち、外向型は自分の心を把握する能力に長けていないので、MBTIが自分の性格を間違いなく表しているのだと勘違いしてしまう。もしくは、外向型は自分の意見を客体の判断に委ねる場合が多いので、MBTIという客観的な理論が自分の意見より正しいのだと思い込んでいる。
 それと反対に、内向型は自分の心を把握する能力に長けているから、MBTIが自分の性格のすべてを表すことができないことに気づいている。もしくは内向型は自分の確固たる意見というものを持っているので、MBTIという大衆的な理論には迎合したくないと考えている。
 このことは、MBTIの原型を作ったC.G.ユングの『タイプ論』の次の文章を引くのがよいと思われる。

ある人は世間の人がみな賞讃しているという理由で新進のテノール歌手を賞讃するが、他の人は彼が気に入らないというよりは、むしろ皆が賞讃しているものが必ずしもそれに値するとはかぎらないという考えから、彼を賞讃しない。ある人は経験に照らしてこれ以外はありえないという理由から既成事実に従うが、しかし他の人はもう千回も同じことが続いたのだから千一回目には新しい事態が生じるはずだと固く信じている。前者は既成の外的事実を基準にして自らを方向づけるし、後者はつねに自分の意見を持っていて、それが彼と客観的な既成事実との間に割り込んでくるのである。ところでもっぱら客体や客観的な既成事実を基準にして自らを方向づけ、そのためによくなされる重要な決断や行動が主観的な意見ではなく客観的な状況に左右される場合、これを外向的な構えと呼ぶ。

C.G.ユング『タイプ論』, 林道義訳

 もう一方の人間はもちろん、内向的な構えのことを指している。

 しかし、MBTIを好むか好まないか、と認めるか認めないか、の違いはまた別であり、正しく思考したいと考える人はMBTIの統計的な正確さや、自分の考える性格像と診断されたMBTIの性格像が一致しているかということを気にして、MBTIを認めたり認めなかったりするだろう。この判断はMBTIの正確さをどこまで許容するかによって決定される。
 また、内向型で、MBTIの正確性を認めない人間でも、自身の心を把握しようとする楽しさ、好奇心においてMBTIを好む人が存在するかもしれないし、外向型の人間でも周囲にMBTIを批判する人しかいなかったら、もしくは尊敬する人物がMBTIを批判していたら、自身の意見もMBTIに対して批判的なものになるかもしれない。
 この記事を読んで、「自分は外向型と診断されたけどMBTIは好きじゃない」もしくは「内向型と診断されたけどMBTIは好きだ」と言って反論する人は、MBTIを何か誤解している。MBTIは診断されるものではあるが、それは病気に対する診断とは全く異なるものだ。病気は症状によって明確に規定されるものだが、MBTIはもっと曖昧なものである。もしこの命題が当てはまらなかったとすれば、それは診断テストが正しい性格を導き出せなかったか、もしくはMBTIの好き/嫌いの理由を、自身のタイプ傾向における正当な理由で説明できる場合である。(先に挙げたように、内向型でも自分の心を分析するのが好きな場合は、内向型の性質に当てはまる。)自分で調べたい場合は、内向型と外向型のはっきりとした定義が、ユングの『タイプ論』に書かれている。興味がある人はそちらを参照するのがよいだろう。

 もっとも、根本的に考えれば、タイトルにもある通りこれはMBTI的な考察になるため、はなからMBTIを信用していない人、ユングの心理学を認めない人にとってはなんの意味も持たない考察になることだろう。

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