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指をさされた偏愛年表

※「文学サークルお茶代」さんの参加作品です。記事自体は最後まで無料で閲覧可能です。

 偏愛と呼べるほど熱狂的にはまり込んだ対象というものがかつてあっただろうか。ざっと思い返してみたけれど、よく思い出せない。きっと記憶が経年劣化しているせいで、当時の感情についての表象記号(「楽しかった」とか「悲しかった」というような記号、標識のこと)とその対象物とがズレを引き起こしているのだ。体験というのは記憶と時間の中にあって常にすでに劣化していく。体験の反復はよりいっそう体験そのものの価値の劣化を促進する。
 だから思い出と対象物を過去の集積の中から引き揚げてみたときに手の隙間から零れ落ちていくのは、もはや修復不可能なまでに引き裂かれてしまった当時の感情や体験であり、残されたのは他人のようになった思い出と飽きるまで消費され尽くしてしまった対象物なのだ。
 零れ落ちたものは地につく前に雲散霧消してしまい「掴みえぬ対象」となっているのだが、すでにそこにないものを、「いや、そこにあった」と主張したがるのが我々の性であり、必死にかき集めようと虚しく空を切る動作こそが、我々の生の営みである。
 無価値な生を肯定する態度のうちに、引き裂かれる運命にある体験を受け入れる態度のうちに、否定の否定としての無限の価値が生み出されるならば、そのような態度をもって、かの発狂しつつあったニーチェのように「この人を見よ」と自身の生涯と著作、いわば自身についての年表を断然と指さすこと、この身振りに最高の価値があるのではないか。
 こんなような戯言を、本文に関係があるかもよくわからないような戯言を眼前に投げ出しておいて、私は私の年表を指さすのだ。

0~6歳頃(2002年~2008年)

 何も記憶がない。両親によればウルトラマンにご執心だったとのこと。ウルトラマンの関連で言えば、ウルトラQのケムール人とマンモスフラワーがいつまでも記憶に残っている。いつ見たかは不明。小学生の間と推測される。

7~8歳頃(2009年~2010年)

 小学校の図書室で何となく選んだ分厚い本を借りたことで、ギリシア神話にドハマりする。ギリシア神話のお話をいくつかまとめたものだった。なぜ分厚い本を選んだのか。きっと彼は先生に自慢したかったのだろう。これによって私は『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』シリーズという、人間と神とのハーフの子供たちの冒険譚に夢中になる。当時の私は本気で、自分の父親が実はポセイドンなのではないかと考えた。

9~10歳頃(2011年~2012年)

 小学四年生のころに取り組んだ発電の学習(当時は東日本大震災があった)から、電子と原子核に興味を持ち、化学から宇宙物理学へ興味の方向が変わり、科学雑誌『ニュートン』を読み漁り、相対性理論や量子論、宇宙論の知識を身につけた。もちろん数式など操れるわけがなく、表象だけの理解にとどまった。(速度によって時間の進み方が変わるんだねー、とか、観測するまで量子の位置と運動量が確定されない原理があるんだねー、とか)

11~15歳頃(2013年~2017年)

 高校進学まではとにかくライトノベルを読み漁りゲームをしまくった。最初にハマったライトノベルは『とある魔術の禁書目録』シリーズで、文学を通過してなおいまだにその価値を認められるライトノベルのひとつである。ファンタジー系のライトノベル(『終末なにしてますか?~』や『ダンまち』や『狼と香辛料』など)も現在まで深い印象を残している。
 自作PCを組んでいたので、PCゲームもたくさんやった。マインクラフトに始まり、FPSやインディーゲームにお熱だった。これらのゲームが面白くないと思われるようなことは今後ないだろう。今でもちょくちょくプレイすることがある。
 PCついでにネットワークやプログラミングを勉強し始めたのもこの時期のことだ。
 あとニコニコ動画にハマったのもこの時期。典型的なオタクだったように思う。

16歳~20歳(2018年~2022年)

 オタク期からサブカル期への移行が不明瞭だったため、並行期間が長い。滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』と佐藤友哉の『フリッカー式』でセカイ系と純文学を徐々に読み始める。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』から見るアニメ・漫画・小説の幅が広がると同時に批評的な目線で作品を鑑賞するようになる。
 と並行して、洋楽と洋画への目覚めが突如勃発する。グリーン・デイから入りメロコアを通過しつつハードロック、グランジ、メタル、プログレと様々な音楽を体験し、やがてサイケデリック・ミュージックとオルタナとポスト・パンクとジャズとエレクトロニカへ収束する。
 洋画はいろいろ見た。入りはアクション映画だったけれど、果てはグリフィスの『國民の創生』を見るまでに至った。アメリカン・ニューシネマとヌーヴェルヴァーグこそ至高なんだ、という見解だ。どの俳優や監督が好きとかは特になく、ただただいろんな映画を見た。ちゃんと邦画も見ていた。
 ちなみに私は大学の受験なんかやめてしまい、専門を卒業して会社に就職した。そこで捻出された空き時間はすべてこういう時間にあてられている。この意味では、私の偏愛は作品それ自体にあるのかもしれない。

21歳~現在(2023年~2024年)

 東浩紀の『動物化するポストモダン』から哲学に興味を持ち、興味は書物へと集中するようになる。ドストエフスキーの『罪と罰』やニーチェの『ツァラトストラかく語りき』、キルケゴールの『死に至る病』といった実存哲学から、ユングやラカンといった精神分析学や構造主義、その他ポスト構造主義などに触れた。

 様々なジャンルやカルチャーを横断するように<蹂躙するように>消費していると、人はある問いの前に立ち尽くしてしまう。いったいこれ以上どんな経験があるのか? 原初の体験、いわば最初に知ることの快楽というものはすでに過ぎ去ってしまったのか? 反復される知に、永遠に回帰する体験に価値はあるのだろうか? そこに価値を見出すことができるだろうか?

 体験が思い出となり、過去へと追いやられてしまうと、もはやその体験は取り戻すことができない。反復され消費され尽くした(消尽した)対象物は、そこから取り出される感情を日に日に少なくし、それ自体空っぽの本堂へと変化するようだ。
 本堂に伏蔵されていた本尊が次々に取り去られて空虚と化す様を眺めているのは虚しいけれども、経験可能な感覚と感情が日に日に奪い去られていく自己を眺めているのはなんとなく物悲しいけれども、そのことは人間の力ではどうしようもない。
 「しかしそれでも」と、否定を否定するこの身振り、生の空虚さを否定しつつ・受け入れる態度が真の意味での生の価値なのだと、私は最後にもう一度宣言しよう。
 そして私は、この空虚さを肯定するに至った一人の人間の人生というものを、年表としてここに開示し、指をさして言うのだ、「この人を見よ」と。

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