「正しさ」が非常に排他的な性質であるという話

こんにちは。
今回は「正しさ」という概念が持つ排他性について思うことを書いてみたいと思います。

まず、「正しい」という言葉を辞書で引いてみました。
1、道理や法にかなって、誤りが無い。
2、きちんとしている。整っている。
Oxford Languages

特に前者の意味が今回の話題に関連する部分になります。さて、本題です。

「人を殺すことは許されないことである。(=正しくない行いである)」

まず、この内容に疑問を抱く人はあまりいないと思います。この場合の正しさには枕詞として「社会的に」という言葉がつくと考えます。

人を殺すことは社会的に正しくない行いなので、禁を犯した人は社会的に追放されます。平たくいうと刑務所に隔離・管理されることになります。

正しくない場合に追放する、ということ自体が果たして「正しい」ことなのか、という点については別の議論になりそうなので今回は割愛します。(例えば死刑制度などは、人を殺すという禁を犯した人を殺す、というねじれ構造になっている、という見方もできそうです)

ただ、人類が生存戦略として社会性を選択する以上、「社会的な正しさ」から逸脱したものを社会から追放するのはある程度致し方ないことのように思います。

いずれにしろ正しさという言葉は「〜という場において」「〜的に」という枕詞を付与して使われることが多い概念です。これは全てに通ずる「絶対的な正しさ」は存在しないからで、逆にいうとその枕詞が曖昧な状態で使われる「正しさ」は非常に危ういです。

繰り返しですが、「正しさ」は排他的な一面を持ちます。そもそも「正しさ」という概念の本質は正しくないものを明確にし、追い出すことにこそあると言えるのではないでしょうか。

自分が何かを正しいと感じるとき、逆に何を逸脱した存在だと考えているのか、一瞬でも振り返ってみるといいかもしれませんね。

今回は以上です。

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