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見えない時間が語るもの

 職場の近くに、立派なケヤキの木がある。高さは、ゆうに15mはあるだろうか。たまたまその木の周囲には遮るものがなく、ケヤキは幹を中心に、枝葉を同心円状に美しく広げていた。まさに絵に描いたような樹形をしていた。
 春は柔らかい黄緑色の若葉が芽吹き、夏は濃い緑を生き生きと太陽に差し出し、秋は、儚げに色づいてはらはらと落ち葉になり、冬はただ静かに佇んでいた。
 私は、ことあるごとにその堂々としたケヤキを見上げるのが癖になっていた。その無数の小さな葉に太陽の光を透かして見るのが好きだった。
 
 ところが先日、その木の剪定が行われた。すぐ傍にある施設では、毎朝落ち葉掃きが恒例となっていたということもあり、施設管理者は、終わりのない落ち葉との攻防に相当うんざりしていたようである。
 その結果、ケヤキはほぼすべての枝を失った。人でいえば、二の腕の真ん中でぶった切られたとでもいおうか。
 幹から伸びた太めの枝の数本が、どれも1mもあるかないかというほどの短さになっていた。白々と目立つ木口面が痛々しい。小さな葉1枚、生える余地のない有りさまに私は愕然とした。
 
 落ち葉が迷惑なのは、地面がアスファルトやタイルだからだ。そこを人が通ると滑ってしまう。それが土だったらどうだろう。人は、雨のたびに泥だらけで、これまた顔をしかめただろう。でも、落ち葉をわざわざ集める必要はなかったはず。
 そう考えると、ケヤキの育った場所がいけなかった。でも、それを植えたのも私達だ。

 きっと木は、枝は、復活する。頑丈そうな幹は、丸裸になってもびくともしない。
 そのたくましさに敬服しつつも、私は寂しくて、悲しくてたまらなかった。あの可愛い小さな葉が集まって風に揺れる時の勇壮なざわめきが聴こえない。恐らくこの先数年は無理だろう。何年かけてあの見事な樹形にたどり着いたのか。今の状態から枝が伸びたとして、またあの美しい姿に戻れる日は来るのか。子どもの頃に、通学路の木が伐採された時の衝撃がまざまざと蘇った。辛い記憶だった。
 なんて無惨なのだろう。
 ケヤキの静かな時間。何年も何十年も季節を巡っきた壮大な時間。それをいとも簡単に、ほんの数時間で奪い去る私たち。
 悔しかった。辛かった。
 私たちはどうしてこうも沈黙の者たちに思いやりを持つことができないのだろうか。自由に動ける私達ができることは他になかったのか。そうした感性を、一体、いつどこに置き忘れてきてしまうのだろう。
 
 私にはもう、その大木の生命力を信じて、ただひたすら見上げて待つことしかできない。謝りながら、小さな小さな芽吹きを見落とさないように。


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