少しずつ自由になる

私にとって社会に出るということは自由になるということだった。

でも狭いご近所での子供社会も学校でのクラスメートや先生との付き合いも親兄弟との狭い家の中での世界も全部卒業して一人で暮らし始めても実際にはそこまで自由だ!とは思えなかった。

疑問にすらならないくらい理解できない家族や学校と言うシステムから抜け出して少し楽にはなったんだけど。

しかし通勤電車で何故か毎日のようにあう痴漢や合いそうで合わない仕事と職場。またあのよく分からない不自由な感じ。不快感を感じていた時にずっとどこかにあると思っていた音楽を扱うお店に出会った。初めて行った日だったか2回目だったかは忘れたがレジの後ろの壁に貼られた水曜日バイト募集の文字に反応していた自分がいた。あの透明になる感じ。風が気持ちよく駆け巡る。その風に乗って何処までもいける感じ。心が解放される。何も怖くない。きっとそれが自由を手に入れた瞬間だった。早く人間になりたい!と叫んでいた妖怪ベム達の気持ちが分かった気がする。

お金は全然無かったけれど単純な私は楽しければ満たされているので気にした事もなかったし何故だかどうにかなるもので好きなだけ好きな音楽を聴き世界に100枚も存在しないようなレコードやお手製のカセットテープを買い毎週何処かでやっているライブやアートショウに行き、他にも少数存在した専門店に行っては色々聴かせてもらい世界中に散らばっている全然違うけれど同じような風景を見ている沢山のアーティスト達が作り出す音の世界で遊びまくっていた。

しかしどんな世界も住人が増えてある形式や様式を愛でる人たちが増えてくると不自由さの喜びや一体感、こだわりの追求が進んだりする事がある。それはそれで美しいしカッコいいしわかるんだけど、なんでもありの新しい事がたくさん起こる世界では無くなっていって何だかつまらなくなってきて、私の中からワクワクする感じも笑顔もだんだん消えていってしまった。

そして遠距離で付き合っていた彼と結婚をして渡米。新しい広い(単純にアメリカは広い)世界で知らないことに沢山出逢いたかった。彼が住んでいたのがミシガン州のデトロイト近郊の街だったので彼の家に荷物を送って新しい生活が始まった。

とは言え特にアメリカに興味など無かった私。以前アメリカとカナダのライブツアーについて回った時も楽しかったけれどヨーロッパツアーの方が何倍も楽しかったし、最初の数年は彼の仕事について回って沢山のレコーディングやライブ、ツアーにバンドのメンバーとして参加したりして今までいた音楽の世界とは全然違う真新しさはそれなりに楽しかったけれど何だか違う感じが抜けなかった。そんな生活に区切りをつけて車で10分ほどの同じ街の中にあるhealthfood store(オーガニックのものを中心に扱うスーパー)で働き始めた。日本にいた時から菜食の自然なご飯を作るのが好きでアメリカに引っ越してからもライブハウスでkombuchaを瓶詰めにして売ったり発酵食品やローフードオンリーのブースを野外ライブで出したりしていて、ああなんか健康的な食べ物を作るのが好きな人なんだなぁ。という認識があったのも手伝ってか経験ゼロの移民の私を快く受け入れてもらい、お店の中にあったジュースバーで働き始めたのが第2の自由の風が吹き始めた瞬間だった。

デトロイトには黒人が沢山住んでいるけど郊外の街はほぼホワイトオンリー。車関係で来ている日本人もそれなりにいるけど彼らは別の街に固まって暮らしているのであんまり見かける事はない。白人中心の町で大した稼ぎにもならない地元のオーガニックのスーパーで働きたい移民も珍しいけど日本人が彼らの輪に入ってくることは珍しく、彼らに比べて体の小さな日本人はめちゃくちゃ若く見えるので当時の私は16-18歳くらいの学生だと思われていて、まだ微妙な英語の私が物珍しく、とにかく楽しかったから良く働くので同僚からもお客さんからも気に入られた。

ロックンロールなデトロイトのアーティスト達との微妙な空気感から抜け出した私はその後、新たに始まったローフードのgrab’n goの部署を任されて、1年後に開店した別の町のローフードカフェのシェフに雇われ、ちょうどその頃平行して離婚と引っ越しをしてデトロイトでの一人暮らしが始まった。

正式に離婚したのは4年後くらいだったと思うけど彼とは未だにたまに話すし引っ越し後もべったりではないけれど仲良くしている。お互いに住む世界が微妙に違うことと自分の好きなことに相手を巻き込むのが面倒だった。離婚を決めた時は二人とも抱き合ってわんわん泣いたけど、その時は自由でいられる道がそれしか思いつかなかった。

長くなってしまったので続きは明日書こう。






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