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猫のいる殺人 第2話

第2話

 事件発生から二日後となる翌朝、誰よりも早く芽依は帳場に来ていた。
 捜査本部となる予定の会議室を職員から聞き出し、手持ち無沙汰にウロウロとする。昨日は頭が冴えてあまり休めなかった。
 会議室の扉がガチャリと音を立てて開く。
「え!?」
「あ、おはようございます!」
 驚く谷川北署員に、芽依は爽やかに挨拶した。
「すみません、もう人が来ているとは思わず」
「いえいえ、私が早く来ちゃっただけなので! よろしければ雑用でもなんでもお手伝いしますよ」
「いや、でも本庁の刑事さんですよね」
 芽依の目がきらりと光った。
「はい! 捜査一課の明城です! でも、まだ配属されたてのヒヨッコですし、こういうのはその場にいる人間がやればいいも思っているので!」
 谷川北署員は申し訳なさそうにぺこりと会釈すると、「では……」と言いながら、いくつかの雑用を芽依に頼んだ。

「お前、何やってるんだ」
 芽依の背後から太い声がかかる。
 振り返ると、芽依の予想通りの人物、大越刑事がいた。
「大越さん、おはようございます。見ての通り帳場立ち上げのお手伝いを!」
「ほおお、殊勝な心掛けだな。そんなに早く来たのか」
「会議室には一番乗りでしたね!」
「……早いな。まあ、良いことではあるから、問題ないが」
 大越は、頭を掻きながら、歩いていった。
 芽依は、小首を傾げたが、すぐに雑用に戻っていった。

 捜査会議が始まった。一番前の長机には階級の高い者たちが並んでいる。捜査一課長や谷川北署の署長がいた。
 ホワイトボードには被害者の写真が貼られている。茶色がかった長い髪に大きな瞳。美人だな、と芽依は思った。
 真ん中やや後ろくらいの辺りに、芽依と大越は並んで座った。
 それぞれ、刑事たちが報告を行っていく。
「被害者は南井亜矢音、二十六歳。都内の企業に勤める会社員。鈍器で頭を殴られたことによる脳挫傷が原因で死亡。死亡推定時刻は、一昨日、十二月七日、十八時から二十二時の間。凶器は、傷の形状の一致から、部屋にあったトロフィーと断定」
 あのトロフィーが凶器で正解だったのか、と芽依は記憶する。同時に手元のパソコンに情報を打ち込んだ。
「現場の状況は」
 質問が飛ぶ。
「部屋は荒らされておらず、金品の持ち出しもなかったと思われるため、物取りの線は薄いと思われます。しかし、被害者のスマートフォンがなく、現在捜索中です。また、通信記録なども調べています」
 スマートフォンの件は、芽依にとっても初耳だ。また手元のパソコンに記録する。
「怨恨の線か」
「凶器が部屋にあるものだったため、突発的な犯行と思われますが、怨恨の線が考えられます。一点、現場の状況として奇妙な点があり、第一発見者によると現場発見時には、鍵はかかっていなかったが、ドアのU字ロックがかかっていたとのことです」
「U字ロック?」
「その件については、通報を受けて現着した刑事も状況を確認しています」
「その第一発見者が工作をした可能性は」
「捨てきれませんが、現在それを行うに値する理由が見つかっておりません」
 質問をした刑事が腕組みをする。回答していた刑事が、その様子を見て、続けた。
「第一発見者は二名。猫カフェ店員の立石真尋まひろと、猫ボランティアの永濱郁美いくみ。二名は、その日被害者宅への訪問予定があり、インターホンを押したが反応がなく、ドアを引いてみたところ開いたため、U字ロックの範囲から部屋の中を見、遺体を発見したとのことです」
 部屋の中がざわついた。
「なんだ、その……猫カフェとか、保護猫ボランティア? とやらは」
 芽依がさっと挙手をする。大越は、突然の芽依の行動にぎょっとした。
 年配の刑事が芽依を指す。
「捜査一課の明城です」
 瞬間、指した刑事は露骨に嫌そうな顔をした。谷川北署の梅津うめづ宗治そうじ署長だ。芽依の、明城という刑事部長と同じ名字に反応したことは明白だった。芽依は、その様子を無視して立ち上がった。
「猫カフェとは、その名の通り猫のいるカフェです。客はカフェの中で猫と遊ぶことができます。第一発見者のひとり、立石さんの勤める〝香箱の宿〟は、保護猫カフェと言われる種類で、外で暮らしていたところを保護された猫たちが在籍しています。〝香箱の宿〟の仕組みでは、保護したボランティア側と条件が合えば、その猫を引き取ることができるそうです。もうひとりの第一発見者の永濱さんは、その保護ボランティアです。野良猫を保護して避妊手術をして地域に戻して見守ったり、猫を人に慣れさせて新しい飼い主に譲渡をすることを行います。
 被害者の南井さんは〝香箱の宿〟を通じて永濱さんから猫の譲渡をされており、トライアル、つまり試験期間中でした。第一発見者が訪問した理由は、飼育状況や猫の様子を確認し、正式な譲渡とするかを判断する場だったとのことです」
 芽依は、眠れなくて開いた〝香箱の宿〟のサイトに掲載されていた譲渡の仕組みを読み上げた。その情報に、昨日第一発見者たちから聞いた情報を加える。
 署長は、鬱陶しそうに言った。
「あー……承知した。では、他の状況……」
 芽依がそのまま続けた。
「あと、その前日に永濱さんだけ訪問しているようです。被害者は留守だったようですが」
「おい!」
 小声で大越が制し、芽依のジャケットの裾を引っ張る。署長の雰囲気がどんどん険悪になっていくのを察した年配の所轄の刑事が、大越に気を取られている芽依の後を慌てて引き取った。
「その件ですが、ちょうど死亡推定時刻範囲に永濱が訪問していることがわかっています。永濱に確認したところ、そのときは何の異常もなく、照明がついていたかどうかも覚えていないとのことで、事件の起きる前か後か、不明でした」
 捜査一課長が訊く。
「死亡推定時刻内にその場にいただと? 明らかに怪しいだろう」
「そうなのですが、それ以外に疑う要素がなく、任意の事情聴取に留まっています。被害者に関する他の人間関係は本日から洗い出す予定です」
「怪しいといえばもう一点」
 別の刑事が挙手をする。座りそびれていた芽依も、大越に促されすとんと腰を下ろす。
「鑑識によると部屋の玄関扉のノブの内側と外側、それからU字ロックは指紋が拭き取られた跡があったそうです!ほかに部屋の中から被害者以外の指紋は発見されていません」
 芽依も大越も、指紋の情報は初めて聞いた。
「わかった。では、それぞれ聞き込みに入ってくれ。解散!」
 梅津署長の一喝をきっかけに、ガタガタと刑事たちが立ち上がり、三々五々、散っていった。

 芽依は捜査本部のパイプ椅子に座っている。大越は立って説教をしていた。
「お前なぁ、まだ半人前なんだから、発言なんてしなくていいんだよ」
「でも、猫カフェとか、オジサンたちは知らないでしょう?」
「……知らんが、それを含めて調べるんだよ」
「その手間を省いただけですよ」
 口の減らない芽依を前に、大越は額に手を当てて、大きく息を吐く。
「お前、知らないかもしれないが、谷川北署の梅津署長と明城さんは仲悪いんだよ。昔、事件の方針で揉めたとかで」
 大越の言う〝明城さん〟は、芽依の伯父の明城刑事部長のことだ。
「知ってますよ」
 むくれヅラで芽依は言う。
「……私だってついこの間まで所轄にいたんですから、そういう噂は他の署のことでも入ってきます。でも、そんなの捜査に関係ないじゃないですか」
 大越は驚いたが、呆れたように呟いた。
「若いというか、青いというか。思った以上に感情で動くんだよ、世の中は」
 芽依は大越を不満げに見上げ、カタリと音を立てて立ち上がった。
「こんな話をしている暇、ありません! 聞き込み、行きましょう。まずは、どこにしますか」
「……はあ。こんな話になったのは誰のせいだよ。そうだな、まずは被害者の勤め先に行くか」
 芽依と大越は、コートを羽織り、捜査本部を後にした。

 *

 芽依と大越は、被害者の南井亜矢音が勤めていた製菓会社に、芽依の運転する車で向かっていた。芽依でも名を知っているような大手企業だ。
 赤信号で停止する。
「そういえば、永濱さんが一昨日にひとりで訪問した時間、やっぱり死亡推定時刻内だったんですね」
「そこを確認できていなかったのに発言しようとしたお前のことが、俺は怖いよ」
「嫌味はいいので! そうなるとやはり永濱さんが怪しくなるのですが、南井さんに恨みでもあったのでしょうか」
「さあ、わからんな。しかし、これだけの状況では任意の聴取がせいぜいだろう。永濱に直接当たる前に、外堀から埋めていかんとな」
「はい!」
 信号が青に変わり、芽依は元気よく返事をすると、車を発信させた。

「先程も違う刑事さんがいらっしゃいましたけども」
 うんざりという表現が滲み出るかのように、男性社員が言った。
 芽依たちが会社に着くと、小さな会議室に通された。須崎すざきと名乗った三十代後半くらいの社員が対応をする。南井の直属の上司だそうだ。
「すみません、入れ代わり立ち代わりで。部署が違うもので、もう一度お願いできませんか」
 大越が丁寧に頼むにも関わらず、須崎は憮然とした態度を崩さない。
「警察組織の情報の共有、どうなってるんですか。こんなの民間企業がクライアントにやったら、一発で契約切られますよ」
「申し訳ありません」
 大越が深々と礼をするのに倣い、芽依も頭を下げる。
「……言っても無駄なんで、話しますけどね。南井亜矢音さんは、うちの社員ですよ。営業部営業一課の若手のエースです。まあ、あの歳で本社勤務の時点で優秀ですよ。勤怠も人間関係も問題ない、優良社員です。まだ新人だった頃、うちの部で賞をもらっていたのではなかったかな」
 芽依は凶器と断定されたトロフィーを思い出す。その栄光あるトロフィーが、持ち主の命を奪うこととなろうとは、なんともやりきれない。
 大越は芽依に目配りしてから話し始めた。芽依はメモの準備をする。
「十二月八日、つまり昨日は出勤してこなかったと思いますが」
「ええ、無断欠勤なんて初めてでした。でも、スマートフォンの電源が切られていて連絡がつきませんし、一人暮らしでご実家も遠方でしたので、丸一日連絡が取れなかったら、今日、つまり九日に、営業部の人間が家まで様子を見に行く手筈でした。その前に今朝ニュースを見て事件を知り、会社にも警察から連絡がありました」
「そうでしたか。少し重複しますが、南井さんは誰かに恨まれるような方ではなかったんですね」
「明るくて人懐っこい、営業向きの性格でした。もちろん組織ですから、何かで逆恨みされていた可能性は完全にはないと言い切れませんが、少なくとも私や、私が訊いてまわった範囲では知りません」
「何かトラブルを抱えていたとかは。男性関係とか」
 須崎は顎に指を当てて虚空を見る。
「聞いていませんね。クライアントとの仲も良好だったと聞いています。異性関係は知りません。今どきそんなことを訊いたらセクハラですよ。ああ、南井の同期が、最近猫を飼い始めたと嬉しそうに話していたと言っていました。トラブルではありませんが」
 芽依は、ケージの隅で小さく丸まるクロスケの姿が脳裏をよぎる。毛艶がよく、大切にされているように見えた。
「なるほど、ありがとうございます」
「これでいいですか。弊社もこの件の対応で忙しいので」
「助かりました」
 そのとき、大越のスマートフォンが鳴った。
「ちょっと失礼します。はい、はい……ああ、ちょっと後ほど折り返します」
 電話を切り、大越は須崎に向き合うと再び頭を下げた。
「ご協力、誠にありがとうございました。失礼します」
「し、失礼します」
 大越が大股で会議室を出ていこうとするので、芽依は慌ててメモを仕舞い、後を追った。

 芽依と大越は、製菓会社のビルを後にして、車に戻った。
「誰からの着信だったんですか」
「猫カフェ店員の立石だ。何か頼み事があるそうだ」
 助手席の背に身を預けた大越は、その場で立石にコールバックする。スピーカーモードをオンにして、芽依にも聞こえるようにする。
「大越です。先程は失礼しました。どうしましたか」
「あ、大越さん、お忙しいところすみません。こんなお願いしてもいいのかわからないのですが……」
「何でしょう」
「昨日は寒さと、気が動転していて頭が回らなかったんですが、今、南井さんの部屋にはクロスケが残されていますよね。数日世話ができていない状態なので、永濱さんやうちの店長とも話し合った結果、一度うちの店に戻したいということになりまして」
「あ!」
 芽依は思わず声を上げる。大越がじろりと芽依を睨む。
「あ、失礼しました。明城です。そうですよね、クロスケくん、可哀想なことをしました」
「そうなんです。丸一日以上、何も食べていない可能性もあるので。トイレも心配ですし、猫って食べないと内臓の数値が悪化することもありますから、早めに引き取りたいのですが、可能でしょうか。お二人がいないと、入れませんよね……?」
 大越は芽依に目で合図し、頷く。
「そうですね。我々が一緒にいく必要がありますが、問題ありません。今、店舗にいらっしゃいますか。迎えにいきますので、一緒に行きましょう。そのときに他のお話も伺えればと思います」
 スピーカー越しに、安堵のため息が聞こえた。
「ありがとうございます。店にいますので、お願いできますでしょうか。こちらも用意しておきます」
「では、後ほど。失礼します」
 電話が切れた。芽依が小さく頭を下げる。
「すみません、つい」
「いや、いい。次の行き先が決まったな。なんだっけ、例の猫カフェとやら」
「〝香箱の宿〟ですね。カーナビで設定します」
「やたら渋い名前だよな……」
 芽依と大越を乗せた車は、パーキングから滑り出した。

 二人が店舗に着くと、猫たちがいる部屋の前で待たされた。窓から部屋の中を見ることができる。
「わあ、大越さん、猫ちゃんがいっぱいですよ! 子猫もいますね! かーわいい……」
 芽依がうっとりと見つめる。
「猫、好きなのか」
「犬も猫も鳥も好きですよ! 生き物、好きなんです」
 そこに、立石がキャリーケースを持って現れた。隣に、四十代くらいの男性も立っている。
「こちら、〝香箱の宿〟の店長の森口もりぐちさんです」
「森口です。今回はお世話になります」
 愛想の良さそうな店長がお辞儀をした。
「警視庁捜査一課の大越です」
「明城です」
 二人も自己紹介を終えると、出発前に簡単に話を聞かせてもらうことになった。芽依が訊いた。
「南井さんはこちらの常連さんだったとか」
 森口店長が穏やかに答える。
「はい。猫好きな方で、うちの猫たちの嫌がることも一切なさらない、良いお客さんでした。ずっと猫を飼いたいと、やや部屋のグレードを落としてもペット可のアパートにお住まいだったのですが、なかなか譲渡の条件が合わず……」
 芽依は、あの質素な部屋はペット可を優先した結果だったのかと納得した。一つ二つ頷いてから、気になった単語について訊く。
「条件?」
「他のお店はわかりませんが、うちはあくまで仲介で、譲渡は保護ボランティアの方と引き取りの方との間で行われます。一人暮らしで、ご実家が遠方の方は、保護ボランティアの方が嫌がることが多いのです。引き取ったもののきちんと育てられなかったり、酷いときは虐待目的などの里親詐欺が行われることもありますので……」
 芽依は眉根を寄せる。
「でも、南井さんはクロスケくんを引き取ったのですよね」
「はい。クロスケは数ヶ月前に永濱さんが保護した元野良猫です。永濱さんのもとで人慣れの修行をすると、人見知りしない子に育ったので、うちで預かることになりました。二ヶ月ほど前、クロスケがフロアに出ると、南井さんはたちまちクロスケに惚れ込みまして、引き取りを申し出られました。
 例によって永濱さんも、南井さんが一人暮らしということで警戒していたようですが、うちの常連さんですし、信頼ができる方だと、私がプッシュしました」
「それで譲渡のトライアル、となったのですね」
 芽依は訊きながらメモをしていく。猫周りの話については、大越も芽依に任せることにしていた。
 芽依は追加で質問をする。
「南井さんが誰かに恨まれていたとか、聞いていませんか」
「さぁ……。よくいらっしゃっていましたけど、店員からも他の常連さんからも好かれる方でしたね。ああ、ただ、最近彼氏ができた、というようなことをおっしゃっていました」
「彼氏?」
 大越が反応した。これまで捜査線上になかった存在だ。
「詳しくは知らないのです。できた、と言っていたという以上のことは存じません」
「そうですか……。ありがとうございます」
 芽依は彼氏のことをしっかりとメモした。
 そのとき、猫のいる部屋の扉が空いて、するりと大型でふわふわとした毛の白猫が出てきた。
「わ! きれいな子! え!? どうやってでてきたの!?」
 芽依は驚く。立石がその猫を捕まえた。
「こら、モコ。この子、器用で扉を開けちゃうんですよ」
「ああ、私、そういう動画を見たことがあります」
「油断ならなくて」
 立石が苦笑し、猫を部屋の中に戻して扉を閉めた。
「さ、立石さん、お待たせしました。クロスケくんを迎えにいきましょう」
 芽依が言うと、立石は礼儀正しく言った。
「よろしくお願いします!」

 現場のアパート近くに車を停める。
 後部座席に座っていた立石は「ありがとうございます」と言いながら車を降りた。
 芽依と大越も車を降りる。
「さ、行きましょう」
 エレベーターで三階まで上がる。規制線近くで張っていた警察官に、刑事二人が警察手帳を提示して中に入った。
 部屋の中は冷え冷えとしている。
「こんな寒い中で猫を放置していたなんて……気が付かなくて申し訳ありません」
 芽依が立石のほうを振り向いて謝罪する。
「いえ、仕方ないと思います」
「クロスケくーん……」
 芽依と立石はケージに駆け寄った。
 クロスケは、相変わらず三段ケージの一番下で小さく丸まっていた。ケージの中には小さなトイレも備えられていた。
 立石が部屋の反対側を見て言った。
「あ、自動フィーダーがある……。ということは、昨日の夜に永濱さんがケージに入れるまでは、ごはんを食べられていたことになります。良かった。トイレもしていますね」
「じゃあ、ご飯を食べられなかったのは半日くらいなんですね。立石さんが早くに気づいてくださったおかげです。ありがとうございます」
 芽依が礼を言った。
「でも、ここに置いておくわけにはいきませんので、出しますね」
 立石はそう言うと、洗濯ネットを取り出した。
「洗濯ネット?」
 大越と芽依の声が重なった。
「これに入れると、猫は暴れにくくなるんですよ。噛まれたりしたら大変ですからね。動物咬傷で感染症にかかると、最悪、命に関わりますので」
「大変なお仕事ですね」
「好きじゃないとやっていられませんね」
 立石は苦笑しながら、手早くネットをクロスケに掛けた。クロスケは抵抗せず大人しくしている。
「よしよし、いい子だな」
 立石がネットに入ったクロスケをケージからそっと出す。
 怯えを含んだ金色の瞳が、芽依を見ていた。
「きれいな目ですね。毛もツヤツヤ」
「南井さんもこの目に惚れ込んだようです。毛艶は、南井さんの飼い方が良かったのでしょうね。……何もなければ、正式譲渡になったでしょうに……残念です」
 立石は悲しげにクロスケを抱きしめた。
「また、〝香箱の宿〟で新しい飼い主さん、探そうな」
 そう言って、キャリーケースに入れ、ケースの扉を閉めた。
「そういえば、ただの疑問なんですけど」
 芽依が尋ねる。
「〝香箱の宿〟って、かなり渋い名前ですよね。どんな意味なんですか」
 立石は微笑んだ。
「香箱というのは、猫がリラックスしているときにする座り方のことです。前足を胸の下に仕舞い込んで、その様子が香箱、つまりお香を入れておく箱のように見えるので、香箱座りと言います。宿というのは、あくまでうちは仮宿で、本当の飼い主さんのところにいくまでの間、お預かりしているという意味です。一時的にお預かりするだけですが、リラックスして過ごしてほしいという意味でつけたそうですよ」
「へえ……勉強になりました」
 芽依は三度ほど頷いた。それまで黙っていた大越が言った。
「では、戻りましょうか」
「すみません、お手数おかけします」
 立石は、終始丁寧な態度を崩さなかった。

 立石を店舗に送る車内でも、質問は続いていた。
 大越が訊く。
「七日の夜は、急用ができて立石さんは南井さんのお宅を訪問できなかったんですよね」
「はい。昨日も少しお話しましたが、モコ……あ、さっき店舗でドアを開けて出てきてしまった猫が、急に体調を崩しまして。膀胱炎だろうなと思ったのですが、念のために病院に」
「他の方が連れて行くことはできなかったのですか」
「はい。モコはあのとおり大きい子ですので、病院に連れて行くにも力がいります。あの日は、僕と店長以外に男性がおらず、店長は店を離れられないので、僕が」
 芽依も運転しながら尋ねた。
「というか、そういう譲渡とかの大切なことって、店長さんが行うのではないですか?」
「店長は、シフトの休日以外、基本的に店を離れられません。店舗を回さないといけないのと、うちは複数の猫ボランティアさんと契約しているので、何かあったときに連絡を取れるようにしておかないと困るのです。店長もカフェの終業後はご自宅に帰られますが、電話がかかってくるのはしょっちゅうのようですよ。あの店の正社員は僕しかいませんので、譲渡の確認などは僕が行っています」
「はあー、大変ですね」
「刑事さんたちも大変なお仕事でしょう」
 芽依と立石は笑った。
 大越は話題を変える。
「永濱さんという女性はどんな方なのですか」
 立石は、困ったような声音になる。
「昨日は失礼しました。寒さが限界だったんだと思います。良い人なんですよ。猫のことを第一に考えていて。保護猫団体、〝キャッツシールド〟のリーダー的存在で、たくさんの野良猫を救っていらっしゃいます」
「その、ご家庭などは」
「私から聞いたと言わないでくださいね。一度ご結婚されたのですが、義実家と折り合いが悪かったようで、離婚されました。お子さんはいらっしゃらないようです。大手の服飾店の契約社員として働きながら、夜は保護猫活動をされています」
「そうでしたか、ありがとうございます。立石さんから聞いたとは申し上げません。あと、不躾ついでにもう一つ……。南井さんと永濱さんの間にトラブルがあったなどの話はありませんか」
 立石が緊張したのが、芽依と大越に伝わってくる。
「……先程店長の森口が話したように、最初は永濱さんが南井さんを疑っていたとは聞いていました。でも、トライアル中の報告もマメで、クロスケとの関係も良好と聞いていましたので、永濱さん、『安心できる人に貰われてよかった』って言っていました。なので、直接的なトラブルなどは聞いたことがありません」
 大越が重々しく言う。
「そうですか。聞きづらいことを聞いて申し訳ありません。南井さんの彼氏とやらについても、何か聞いていませんか」
「いえ、それは全く。彼氏がいるというくらいは小耳に挟んだことがあるかもしれませんが、若くてきれいな方ですし、何とも思いませんでした」
 車が左折する。ちょうど〝香箱の宿〟の看板が見えた。
 立石とクロスケを〝香箱の宿〟に送り届けると、芽依と大越は、捜査本部に一度戻ってきた。
 並ぶホワイトボードにも、めぼしい更新情報はない。芽依は〝彼氏〟に関する情報をボードに書き加える。
「なんだか、やけに情報が少ない事件ですね」
「ああ、全員が揃って、『恨まれるようなことはない』と言う。まさか怨恨ではないのか?」
「しかし、物取りでもなく怨恨でもないとすると、何が考えられますか? 密室の謎も解けていませんし……。やはりここは、この〝彼氏〟の存在が鍵ですね」
 芽依はホワイトボードを、蓋のついたペンでコンコンと叩く。大越は腕を組みながら頷いた。
「ああ。会社でも〝彼氏〟の話はなかった。大っぴらに話す性格でもなかったのかもしれないが、大っぴらに話せない関係だった可能性もある」
「たとえば、一夜の関係とか、不倫とか?」
「そういうものだな」
 そのとき、捜査本部の会議室の扉が開いた。
 梅津署長と、波多野刑事が一緒になって入ってきた。芽依の姿を認めると、梅津署長は隠す素振りもなく、顔をしかめる。
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
 大越と芽依が、梅津署長と波多野刑事に軽くお辞儀をする。さすがの芽依も警戒心を持っていることが、大越にも感じられた。
「ご苦労。どうだったかね」
 大越が答えた。
「あまり収穫はなく。ガイシャは、恨まれるようなことがない、人当たりの良い人物だったようです。トラブルの類は全く聞かれませんでした。猫カフェ勤務の立石によると、永濱とも特にトラブルはなかったそうです。しかし、ガイシャには、最近できた〝彼氏〟がいたようで、この男が鍵になる可能性が高いと見ています。スマートフォンの解析が急がれます」
 梅津署長は大仰に頷いて見せる。そして、芽依を一瞥した。
「そちらの、刑事部長に引き上げてもらったお嬢さんはいかがかな」
 芽依の肩がびくりと跳ねる。拳がぎゅっと握られる。
「……今、大越さんがお話ししたとおりです」
 梅津署長の目がカッと見開かれる。
「何のために現場に出ているんだ。刑事なら報告事項のひとつ、食らいついてでも持って帰れ!」
 梅津署長のどなり声を、芽依は険しい面持ちで受け止める。
「……申し訳ありません」
 腰から折って深く頭を下げた。
「梅津署長、私と明城はペアで動いています。つまり情報は共有されています。私の報告のあとに、さらなる情報を求めるなど、無茶を言わないでください」
 助け舟を出したのは大越だった。芽依は、まだ顔を上げられずにいたが、じわりと目に涙が溜まるのを感じた。
「ああ、大越刑事。君も確か明城刑事部長のシンパだな。ろくな情報も持ってこられないとは、捜査一課も落ちたものだ」
 梅津は鼻を鳴らして、波多野刑事を置き去りに、捜査本部を出ていった。
 波多野刑事は狼狽えて言う。
「明城さん、顔を上げてください。上司を悪く言いたくないですが、今のは梅津署長の言いがかりです」
 芽依は顔を上げた。目は潤んでいたが、毅然と波多野刑事を見返す。
「いえ、今日の聞き込みで収穫が少なかったのも事実です。それに、梅津署長のおっしゃるとおり、私は伯父に捜査一課に引き上げてもらいました。そのことに対する風当たりが強いのは、覚悟の上です」
「そうですか……。でも、自分から謝ります。上司が失礼しました」
 波多野刑事は実直に謝罪した。
 その様子を見ていた大越は、ポケットに手を突っ込んで、ため息をついた。
 波多野刑事が、現場の手違いで通信記録の取り寄せが遅くなっていることを知らせた。
 波多野刑事は、そのことを伝えると、別件の用事のために外出していった。
 芽依は長机の席に付き、ホワイトボードを見る。大越は長机に片手をついて立っていた。
「このタイミングで、通信記録が遅れているのは痛いですね。スマートフォンが持ち去られていたことに加え、その〝彼氏〟の情報が入っていることは確かなはずなのに」
「そうだな」
「あの、大越さん」
 急に口調の変わった芽依に、大越は目を遣る。
「さっきは、ありがとうございました。かばってくださって」
「いや、事実を言ったまでだ」
 そこで会話が途切れた。刑事たちが出払った、薄暗い会議室の中、沈黙が降りる。
「なぁ」
「はい」
「お前はなんでそこまでして、捜査一課に入りたかったんだ」
 芽依は、ごくりと唾を呑み込む。それを気取られぬように、おどけて言った。
「やだなぁ! 昨日車内で話したじゃないですか! 名探偵のような活躍がしたいからですよ! 明城芽依の〝メイ〟は名探偵の〝メイ〟だって!」
 大越は首に手をやって、傾げながら言う。
「まあ、お前がそれでいいんだったらいいんだがな。気になっただけだ。話したくないなら、無理に聞き出すことでもない」
 また二人の間に刹那の沈黙が落ちた。
 芽依が長机の上の両手を握った。ぐぐ、と、長机と摩擦する音がした。
「……『飛鳥馬あすま女子高生殺人事件』って覚えていますか?」
 芽依から突然出た事件名に、大越は右眉を上げる。
「覚えている。俺は事件には関われなかったが、当時から捜査一課だったからな」
「さすが、ベテランですね。その事件で殺されたのは、私の親友、かがみ美玖みくなんです」
 芽依の告白に、大越は息を止めた。芽依は大越の様子を見て、続けた。
「高校二年生のときでした。あの子が拐われたのは、学校の帰り道でした。あのとき、私が美玖に会った最後の人間だったので、警察にもたくさん事情を聞かれました。全く、役に立てませんでしたが。
 そのときに捜査本部が立ったのが、飛鳥馬署です。当時、梅津署長は飛鳥馬署の刑事部第一課課長で、私の伯父、明城刑事部長は警視庁捜査一課長でした。このふたりを中心に、あの事件の捜査は行われました。
 これから話すことは、事件が終わってから、一人の関係者として聞いた話です。
 当時、伯父と梅津さんは、捜査方針で不一致だったそうです。絞殺された美玖が裸で発見され、着衣がそばに捨てられていたことから、梅津さんは性的暴行目的の末、抵抗されて殺してしまったと考えていました。でも、伯父は違いました。絞殺した凶器が不明だったことをずっと気にしていて、徹底的に美玖の所持品を調べさせました。
 結果、美玖の制服の襟の裏から、特殊な繊維が見つかったそうです。顕微鏡レベルでしか発見できない代物でした。もちろん、美玖の持ち物に、その繊維を使ったものはありません。
 伯父がその繊維を調べたところ、美玖の父親が社長をしている素材メーカーで作られたものでした。伯父は、さらにその詳細を調べていきました。そして、その繊維が、かつて美玖の父の会社の子会社が発明した画期的な新繊維で、美玖の父が強引に子会社から権利ごと奪い取ったものだと発覚しました。
 そこから先は早かったそうです。その子会社は、社運を賭けて発明したその新繊維を美玖の父親に奪われたせいで倒産していました。
 子会社の元社長の男が容疑者としてあげられ、本人も自白しました。『自分は会社や社員という、家族に等しいものを鏡社長に奪われた。だから、鏡社長の娘を殺すことで復讐しようと思った』とのことです」
 大越が口を挟む。
「その女の子は、代理で殺されてしまったのか」
「そういうことに、なりますね。伯父も梅津さんもキャリア組ですが、このときの功績で差がつき、伯父は今や警視庁刑事部長。梅津さんも出世しましたが、所轄の署長止まりです。この谷川北署は管轄も広く職員も多い大型の署ではありますけどね。あの二人の確執は、この事件のときに始まっていたんです」
 大越は、ゆっくりと横に首を振る。
「お前も関係者だったんだな」
「そうですね。梅津さんとはあの事件のときも何度も会っています。出世に決定的な差をつけられてしまった忌むべき事件として、梅津さんにとって、私は視界にも入れたくない程に憎いのだと思います」
「道理で、さっきの……」
 大越は、梅津署長の大人気のなさに呆れた。
「……私は、伯父を心から尊敬しています。私の親友を殺したヤツを捕まえてくれました。それ以降、私はミステリーにもハマり、伯父のように論理的に謎を追っていける刑事に憧れました。確かに、私は伯父のコネで捜査一課に引き上げてもらった卑怯者です。……それでも」
 芽依は一息置いて、言い直す。
「それでも、事件が起きれば被害者が出ます。特に殺人事件では、その人が理不尽にも殺されてしまうことによって、周囲は計り知れないショックを受けます。私は、自分も似た経験をもつ人間として、伯父のように犯人をあげ、少しでも被害者や遺族の心を鎮めたいと思って、ここにいます。だから、あんな八つ当たり、何とも思いません! 私にとって大切なのは、事件解決だけです」
 芽依の目は、真っ直ぐ前を見ていた。その目線の先には、ホワイトボードに貼られた、被害者、南井亜矢音の写真があった。
 南井亜矢音にも、離れて暮らす家族がいるだろう。信頼しあえる同僚がいるだろう。共に笑う友人がいるだろう。
 芽依の目には、南井亜矢音だけではなく、それらの人たちの姿が見えているのだ。
 大越は、芽依に敬意をあらわした。右手を差し出す。
「お前の想いはよくわかった。からかって、申し訳なかった。絶対に犯人をあげるぞ」
「……はい!」
 芽依は、大越の労苦が刻まれた、分厚い掌を握り返した。

 日が傾く時間になっていた。最も日照時間が短い季節。昼は、短い。
「そろそろ、永濱のボランティアの活動拠点に言ってみるか。全く外堀は埋められなかったが、話は聞かないといけない」
 大越が言うと、芽依は車のキーとスマートフォンを手に取った。
「そうですね。確か、団体名は〝キャッツシールド〟。あ、ヒットしました。この近くに拠点があるようです」
「よし、行くぞ」
 芽依と大越は、背中に赤い夕陽を浴びながら、捜査本部を出た。

「はいはい、今日は千客万来みたいね」
 永濱が呆れ返って言った。
「みたい、とは?」
 芽依の質問に、永濱は鼻を鳴らす。
「私がここに来たのはついさっきだもの。昼間は働いているからいません。他のメンバーは昼間から何度も刑事の訪問を受けて大変だったみたいだけど、私にとってはあなたたちがお初」
 そう言いながら、猫のドライフードを計量していく。ザラザラと、ステンレスの器に固いフードが当たる音が反響する。
 芽依は、キョロキョロと周りを見回した。今は、永濱以外のボランティアはいない。部屋には、所狭しと猫のケージが並んでいる。中には縦に積んであるケージもある。よく見ると、まだ生まれて数ヶ月も経っていないであろう子猫たちが身を寄せ合っていた。
「うわぁ……小さい」
 芽依が思わず呟くと、永濱が反応する。
「やっぱり、子猫が好きよね、皆。そういう意味では、南井さんは成猫のクロスケ希望だったから、信用できるかな、って思ったんだけど」
 そう言いながら、計量したフードを手早くケージの中に入れていく。すぐに動き出してカリカリと音を立てながら食べる猫もいれば、じっと芽依や大越たちを睨んで動かない猫もいた。
「その、南井さんのことなんですけど」
 大越が切り出した。
「それ以外に話すことないわよね、私に。なんか他の刑事さんに聞いたけど、七日に私がひとりで訪問した時間が、死亡推定時刻に重なってたんだって? そりゃ疑われるよねー」
 永濱は変に上機嫌な様子で、大越の質問事項を先に刈り取っていってしまう。
「でもそんなこと言われても、私はその日そこにいく約束していたんだし、何も気づかなかったのは事実だもの。普通、インターホン押しても反応なかったら、ドアノブに手をかけたりせずにそのまま帰るでしょうが。だから鍵が開いていたのかもわからないし、八日に再訪問したときに気づいた照明がついていたかも確かめていない。照明には八日は気づいたけど、七日は気づかなかったんだもの。気づかないことが何かの罪になるの?」
 フードを配りながら怒涛の勢いで喋る永濱に、芽依は圧倒される。メモが追いつかない。大越も気圧されているようで、「いえ、そんなことはありませんが……」と弱気になっている。
 永濱の勢いは止まらない。
「だいたいさ、死亡推定時刻に行く約束していた人間が殺すなんてことあり得ると思う? 疑ってください、って言ってるようなものじゃないの。それならせめて入念に準備とかするもんなんじゃないの? ほら、刑事ドラマの犯人みたいにさ、トリックとか使って。あ、トリックといえば、ドアがU字ロックで閉じられていたわよね。あれ、何かわかったの?」
「いえ、まだ……」
「ふぅん、ドラマとかだと天才刑事が颯爽と解決したりするけど、現実はそうはいかないわよねぇ」
 大越の答えを遮るように永濱は話し続けた。
「だいたい、死亡推定時刻に訪問していたって言ったって、十八時から二十二時の間なんでしょう? 確かに昨日と同じ十九時半に約束だったから重なっているけれどね、私、七日の二十時半頃にはここにいたわよ。扉のICカードに記録残ってるわ。その記録は、昼間に他の刑事がセキュリティ会社に取りに行ったみたいだけど。そういう意味ではアリバイがあるとも言えるわよね?
 それに、そのときに猫の紹介をしていた人がいるの。ウエムラさんていう男の人。会社員だから見に来るのが遅くなったって。奥さんと二人暮らしで子供がいないらしくてね、保護猫に興味あるから見せてほしいってさ。結局考えさせてほしいって、帰っちゃったけど」
「証人がいるんですか」
「だから、いるって言ってるじゃないの。ただ、この団体のホームページを見ただけでまだ本当に検討段階だからって、連絡先とか聞いてなかったのよね。名前は聞いているけど。ウエムラマサヨシって言ってたわ」
「ウエムラマサヨシ……。漢字はどう書くかわかりますか」
「わからないわね、申し訳ないけど」
 フードを配り終えた永濱は、小さなデスクとセットになっている古びたオフィスチェアに、どかっと腰掛けた。
 訊きたいことは、ほとんど永濱が勝手に話してくれた。生来、喋り好きなのかもしれない。
 芽依は考える。確かに、死亡推定時刻と訪問日時が重複しているなんて、出来過ぎだ。何の工夫もない殺人事件なら、それで終わりかもしれないが、この事件にはドアのU字ロックという工作があった。そう簡単に永濱を怪しいと決めつけるのは早計かもしれない。
 大越も似たようなことを考えていたようで、芽依に目配りをした。
「いろいろお話を聞かせてくださりありがとうございます。最後に一点だけ確認なんですけれど」
「なに?」
「失礼ですが、南井さんと何らかのトラブルがあったということはありませんか」
 永濱は、質問した大越をじとりと睨む。
「本当に失礼ね。ありませんでしたよ。そりゃあ、若い一人暮らしの女の子だから、最初は不安だったけどね。〝香箱の宿〟の森口さんの太鼓判もあったし、指名が子猫じゃなくて成猫のクロスケだったからね。フルタイムで働く人の家でも大丈夫かな、って思って。トライアル中も、マメに連絡をしてくれてクロスケの様子を教えてくれていたし、一度クロスケの元気がないって言って、きちんと病院にも連れて行ってくれた。その体調不良は、〝香箱の宿〟から南井さんの家に場所を移動した環境変化のストレスによる一時的なもので、何事もなかったけどね。だから、私はほとんど正式譲渡するつもりで、七日も八日も訪問したのよ」
 イチを聞くと十倍になって帰ってくる。情報を整理しながら、芽依は必死でメモを取った。
 大越は引き上げることにした。
「ありがとうございます。参考になりました」
「……クロスケは可哀想ね。せっかく可愛がってくれる飼い主に出会えたのに、あんなことになっちゃって。クロスケのためにも、刑事さんたち、お願いね」
「はい、遅くにお邪魔しました」
 芽依と大越は、その場を辞した。

 すっかり空には星が輝いている。
「今日はこれ以上の聞き込みは難しいな。署に荷物を取りに戻って帰るか」
「そうですね。しかし、永濱さん、すごい勢いでしたね」
「ああいうタイプは苦手だ」
「でも、悪い人じゃなさそうです。それに、ご自分でも話されていましたけど、死亡推定時刻と予定されていた訪問時間が重なっているなんて、あまりに出来すぎていて」
「それは一理あるんだよな」
 大越はぐーっと伸びをした。
「また明日も朝から捜査会議だ。今日はしっかり休め」
「はい!」
 芽依は元気に返事をして、車の運転席に乗り込んだ。静かな冬の夜を、一台の車が走り抜けていった。

続き

第3話

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第2話

第3話

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