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【実話怪談】名前をつけたくなる家

北関東某県の、かつてはドライブコースとしてそこそこ人気があったという峠道沿いにその廃墟は建っているそうだ。
六棟で営業していたコテージ型のラブホテル跡で、どういう訳か一棟だけ取り壊されずに残っているのだという。ベッドが置かれた八畳ほどのワンルームに風呂とトイレがついているだけの、コテージというより小屋と呼んだ方が良いような小さな建物だ。

その廃墟の壁に、「妙にリアリティのある女性の絵」があるという。

壁に太いマジックのようなもので描かれた顔だけの落書きなのだが、これが理想化された美人でもなければ、不細工にカリカチュアされているわけでもない、絶妙に「居そうな」顔なのだそうだ。絶対に特定のモデルがいるだろ、と思うような。
そしてこれが妙な話なのだが、落書きの横には「かなみ」「ゆり」「はるか」「りょうこ」「みさと」……女性の名前らしきものがいくつも走り書きされていて、すべて筆跡が違うのだという。
廃墟に入って落書きの前に立つと、なぜか無性に「その女に名前をつけたくなる」――そんな、怪談とも言えないような話が地元に伝わっていた。

Kさんも、落書きの女に「名前をつけた」ひとりだ。
彼はフリーランスのカメラマンで、趣味で全国の廃墟を巡って撮った写真を公開するホームページを運営している。数年前、ネット掲示板でその廃墟の噂を知り、撮影に訪れたのだという。
破られた窓から中に入り、バブル期に浮かれてつくった建物らしいロココ調もどきの下品な装飾が施された部屋を見渡し――
その絵が目に入った途端、Kさんの頭の中に「しおり」という名前が浮かんだ。耳許でその名を囁かれたように錯覚したとKさんは言う。
絵の横に書かれた十数個の名前の中に、「しおり」はなかった
Kさんは無性に怒りを覚えたという。
どうして誰も、彼女に正しい名前をつけてやってないんだ。
この子の名前は「しおり」だ。なんでそんな簡単なことが分からないんだ。
Kさんは苛立ちをぶつけるように、壁に「しおり」と書きつけた。絵の真下の床に、鉛筆が転がっていたという。
手の中で鉛筆の芯がぱき、と折れた。書き終えた途端、頭に満ちていた怒りがスッ……、と消え、Kさんは急に怖くなった。自分が女の名前を「しおり」だと脈絡なく確信していた異常さに、初めて気づいたという。

Kさんが仕事帰りに死亡事故に巻き込まれたのは、写真も撮らずに廃墟から逃げ帰った二日後のことだ。
交差点で、Kさんの車に信号無視のバイクが突っ込んできて大破し、乗っていた専門学校生の女性が即死した。
幸いにも、ドライブレコーダーの記録や目撃証言から、Kさんには一切の過失がないことが裁判でも認定されたが、彼が気になったのは亡くなった女性の名前だという。

下の名前がしおりさん、だったんですよ。その人。

顔は、別に廃墟のあの女には似ていなかったらしいが。Kさんは何か割り切れないものを感じたという。
そう言えば、とKさんは最後にこう付け加えた。
あの鉛筆。妙に真新しかったし、削ったばかりみたいに尖ってたんですよね――。

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