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【実話怪談】ハクバススムという人は。

具体的に何年前と明言するのは避けるが、今はフリーで仕事しているMさんが、まだS社の編集者だった頃の話だ。
ある日本史上の事件を題材に取った書下ろしのミステリを担当していた時、著者さんから「専門家の監修を受けたい」という希望があり、他部署の同僚から紹介を受けた大学の先生に校正で入ってもらうことになった。
物腰柔らかな中年女性で、仕事の早い人だとは聞いていたが、タイトなスケジュールを快諾してくれ、設定した〆切通りに史料のコピーまでつけてゲラを返送してくれた。鉛筆出しも丁寧で、これなら著者さんも安心だろうと心強く思ったそうだ。
早く送ってあげようとバイク便を出した日の晩、著者さんから電話があった。
『一か所だけ、変な鉛筆が入ってたんだけど……』
詳細を聞くと、なるほど妙な話だった。
事件の犯人である――都合上、仮の名前とする――「白馬進」という人物が初めて登場する場面で、その名前を丸で囲んでこう書いてあったそうだ。
〈ハクバススムという名前の人は、人を殺しません。〉
校正でキャラクターのネーミングが問題にされることはほとんどない。例えば、著名な同姓同名の人物がいるとか、明らかにモデルが丸わかりのキャラがあまりに酷い扱いをされていたら倫理として「大丈夫ですか?」とお伺いを立てるくらいだ。実際のその犯人の名前は、実在するやや珍しい名字がつけられていたが、特定の誰かを想起させるものではなかった。
当該部分をFAXで送ってもらい、意図を確認するために校正者さんに連絡した。
電話口の彼女は当惑した様子だった。そんな鉛筆を入れた覚えはないという。
そう言われると、他の校正箇所となんとなく筆跡が違うような気もする。ただ、校正者さんは独身の一人暮らしで、作業は自宅でおこなっていたので、他の誰かが書き加えたというのも考えにくいらしい。
「失礼しました。それなら、こちらの社内で誰かがやったのかもしれませんね」
校正者さんが不気味がっているのが電話越しに伝わってきたので、そんな風に言ってごまかしたという。実際には編集部に届いたその日のうちにMさんが目を通し、著者さんの元に送っているのだからそんなはずはないのだが。
著者さんに事の次第を伝えると、『なんか気持ち悪いから、犯人の名前変えるわ』とのことだった。その後は目立ったトラブルもなく、本は無事に刊行され、そこそこに評判になった。

それから何年も経ったある晩のことだ。
帰宅したMさんがテレビを点けると、どの局のニュースでもその日の昼間に起こった痛ましい無差別殺傷事件を取り上げていた。
Mさんは「あっ」と思った。
顔写真とともに、画面に大きく表示された犯人の名前が「白馬進」だった。
思わずあの本の著者さんにメールしたが、彼は「白馬進」のことも、犯人の名前を変えるに至った経緯もすっかり忘れてしまっていたそうだ。

予言としては不完全、というか破綻している。〈人を殺しません。〉と言っているのだから。
別に、Mさんや著者さん、校正者さんの身内や近しい人がその事件や犯人に関わっていたということもなかったらしい。因縁も落ちもない、どうにも据わりの悪い話だ。

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