正しいことをする。「Do THE RiGHT Thing」
Do THE RiGHT Thing
正しいことをする。
気づけばもう8月に突入しているじゃないか。
映画が好きだ好きだと申しておりますが、傑作名作を案外取りこぼしている。
長らく友人に勧められていたままにしていた「ドゥ・ザ・ライト・シング」鑑賞。
時代も離れ、環境も大きく異なる日本でこの映画を鑑賞したというのに、
初っ端から彼らにシンパシーを感じる。
彼らも「暑い、暑い」と、うだるような弱熱に身を晒していたからだ。
1989年制作。アメリカ・NY ブルックリンの夏。
様々なバックグラウンドを持つ黒人、イタリア系、韓国人、当時のアメリカの縮図となる小さな一角。
この街を舞台に、イタリア系アメリカ人の営むピザ屋が襲撃されるに至るまでを描く。
ピザ屋で働く黒人のムーキーは、決して勤勉とは言えない。
雇い主であるイタリア系のサムは、厳しい態度を崩さないながらもムーキーをクビにはしない。
家族の絆を重んじるサムは息子たちと仕事をするが、長男は口数多い黒人を嫌悪し拠点を移そうと父を説得するも、
サムにとってこの地で営んできた店は彼の誇りとなっていた。
きっかけはほんの些細なこと。
イタリア系の営む店で、黒人の常連客が黒人の偉人の写真を壁に飾るべきだと声を上げる。
店主はイタリア著名人の写真を飾っていたのだ。
彼は言う。ここは俺の店だ、誰の写真を飾るかは俺が決めると。
その場で事態は収集したかに見えたが、燻った火種は消しきれていなかった。
ピザ屋が襲撃された後、次は我々かと怯える韓国人。
転がり出した石は止められないのか。
こうも暑いとどんな些細なことでも、根底に根付く不安や怒りの噴火に繋がる導火線になり得る。
そんな絶妙なバランスの上に彼らの生活があり、それは今も続いている。
今、この作品見たことは正しかった!今、この作品を見てほしい。
1989年制作であることに驚きを隠せない。この物語を動かす彼らは今の私たちと何も変わらない。
異国民、貧困、マイノリティへの差別意識、コミュニティとその関わり方、静寂を保つことの難しさ。
空間を共有することのノイズにどのように対応していく必要があるのか、考えさせる一本となった。
言葉を多用せずに分かり合える安堵がいかに贅沢なことかと思う。
そして、この作品で描かれる物語はもう、遠い海の向こうの物語ではないのだ。
人ごとの物語と距離を置いて鑑賞できた余裕は我らにもう、残されていない。
この映画で起こる日常は今の日本に暮らす我々のほんの少し未来の物語になる。
この映画の優れた脚本は、決して重たい人間ドラマにあらず、その軽快さを失わない。
日常的に彼らは差別的表現を多様する。
口数が、本当に多い。鋭い風刺とユーモアがうまく混在していて飽きない。
脚本技術の高さももちろんのこと、実際彼らの武器は言葉なのだろう。
狭い空間のなかで我のスペースを確保し、主張することがこのコミュニティでは必須事項なのだろう。
そして、カメラワークのなんと勇敢なことか!
そもそも対象物の存在感の強さはもちろんのこと、思い切りの良い構図とサイズ。
どこを切り取っても面白い!
レンズを覗いてこんなに柔軟な切り取り方ができる?
こういう感覚こそ黒人コミュニティ独自のものを感じる。
ファッション、音楽、カルチャー、目に飛び込んでくる色鮮やかさ。
映画史に残る傑作でありながら、オシャレ映画としても古びない。
監督本人が出演して、役者陣との距離が近いのも、作品の一体感をより高めている。
青年期に学校や、様々な人と鑑賞するにふさわしい。これぞ映画。
様々な立場や性格を持つ人々らで思考する一撃を喰らわせる。
スパイク・リー当時31歳頃だろうか、彼の信念、力強いメッセージが込められていて、ストレートに胸を打つ。
人種差別や貧困の問題を取り扱うという意味においてこの作品が風化しないことが悲しく、
それどころかこの島国の黙示録になり得る危険性を持つことが恐ろしい。
この作品が1989年だって?何度だって驚こう。
技術の進歩と人間の進化のスピードか必ずしも比例しないと嘆く。
サミュエルLジャクソン演じるラジオパーソナリティが、監視カメラのように彼らの日常を目撃し続ける。
最後に、本編でリー監督は、日常的にいつ爆発してもおかしくない緊張感を誤魔化しながら生きている生活の中にも、
このような希望を挿入している。
それは決して裕福でない老人が高価な花を買うシーン。
人間的生活において愛が尽きることはないと示す我らへの贈り物だ。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」
Do The Right Thing
1989年/119min/アメリカ
監督・脚本/スパイク・リー