ロックに行こう

私が大学生になって(ヒマになって)やたらと映画を見に行くようになった時期、1978年から1982年ごろ、けっこう数多くの映画を見たのが、浅草の映画館街、通称「浅草六区」だった。

前にもちょっと書いたが、ここにあった洋画名画座では、他ではもうかからないような古い映画や風変わりな映画を数多くプログラムしてくれていたからだ。

当時はまだ多くの映画館が六区にはあった。もう私の記憶も怪しくなっているが、そのころの映画館街をざっと思い出してみたい。

私が六区に映画を見に行くときは、営団地下鉄(現・東京メトロ)銀座線の田原町駅で下車していった。駅を出て、地上に上ると、その頃はたくさんあった焼きそば屋を横目に、信号を渡り、雷門通りを歩いて、アーケードの下の通称「すしや通り」商店街をくぐりぬけると、そこが六区映画街のいちばん南端。

すぐ左側にあったのが「日本館」 1883年(明治16年)10月開館という由緒ある名門映画館だったが、私が通っていたころはピンク映画専門館になっていた。1990年に閉館されたらしい。

その反対側、右手に並んでいたのが三つの映画館。

いちばん手前が「浅草ロキシー」 真ん中が「浅草トキワ座」 向かって左側が「東京クラブ

浅草ロキシーは、1911年開館。もとは金龍館といったが、戦後にロキシーに改称した。私が最初に行ったころは、「STチェーン」という二番館の洋画劇場で、二本立てで封切り落ちや、独自公開の映画をやっていたが、やがて松竹封切り館になった。

浅草トキワ座は、もと常盤座。この三館ではいちばん古い劇場で、1887年(明治20年)5月開館。オペラ上演などもする劇場だったが、のち浅草初のストリップ劇場になり、その後映画館に転じた。私が通ったころは松竹系の邦画の名画座だったようだ。いつも寅さんを上映していたような記憶があるが、私は入ったことはない。1984年に閉館し、一時劇場として復活したが1991年に閉鎖され、解体されている。

そして東京クラブは、私がいちばん多く通った映画館。当時は洋画三本立てだったことは前に書いた。1913年開業。古くは劇場だった時代もあったらしく、舞台や緞帳の作りはそれっぽかった。

東京クラブにはずいぶんせっせと通ったものだが、だいぶ後になってから、小さな劇場ロビーの隅に、薄暗い階段を見つけたことがある。何の気なしに上ってみたところ、驚いたことに、そこにはけっこう広い二階席があったのだ。それまでそんな席の存在は知らなかったし、ほかの観客も知らなかったのか、そこには誰もいなかった。

浅草の名画座は外回りサラリーマンのサボりの聖地でもあったので、一階席は常に満席。初回上映から入り込むことが多かった私はいつも席の確保には苦労しなかったが、たまに遅れるとなかなか空席が見つからなかったこともあった。

その時には、これはいいものを見つけた、席確保の救世主になるわいと思ったが、じつは二階席はスクリーンを見下ろす形になっていて、意外と見辛かったので、そんなに利用することはなかったな。

この懐かしい東京クラブも、1991年(平成3年)11月に閉鎖廃業となり、ロキシー、トキワ座とともに解体されてしまった。

その隣にあったのが、その名も有名な「電気館」そして「千代田館」だが、この二つは当時はすでになく、なんか売店めいたものや自動販売機のならぶ空き地になっていた。1976年ごろの閉鎖らしいから、タッチの差だったのだ。惜しい。

向かい側には、「松竹演芸場」浅草松竹」「浅草日活」「フランス座」といったところが軒を並べていたはずだが、洋画専門だった私はどれにも入場していない。フランス座には入ってみればよかったかなと、いまになって思う。

と書いたが、このへんは私の記憶もあいまいだ。当時すでにボーリング場などになっていたのかもしれない。ううむ、思い出せん。

その先のならび(すし屋通りからだと左側)に並んでいたはずの「大勝館」「ロック座」「花月劇場」といった名門劇場も、よく覚えていない。当時はもうなかったのかもしれない。花月劇場は、当時は東映系の名画座だったような気がする。いつも「仁義なき戦い」をやっていたな。

反対側の右側には、「浅草宝塚」「テンプル劇場」があったはずだが、たぶん当時はもうなかった。さらに「楽天地」「新世界」があったが、東宝の封切館があったようなかすかな記憶があるだけ。

その反対側にあったのが「中映会館」で、ボーリング場やゲームセンターなども入っていたが、東京クラブとともに私が通ったもう一つの洋画名画座である「浅草中映劇場」がここにあった。洋画三本立てで、「077シリーズ」三本立てとか、よく意図のわからないプログラムが好きだった。ここにはほかに邦画の名画座も入っていた記憶があるが、私はそこで映画を見たことはないと思う。意外に頑張っていた映画館で、2012年まで存続していたそうだ。あるうちにもう一度行っておけばよかった。

その先でロック映画街は突き当りとなり、右に曲がると花やしき方面になるわけだが、その突き当りには封切館の「浅草東映」があった。2003年まであったそうだ。

そしてその左側の角に「世界館」というたいそうな名称の映画館が地下にあって、洋画ポルノ(俗にいう洋ピン)をやっていた。浅草中映と同じ建物だったらしい。私が生まれて初めて成人映画を見たのはこの映画館だったはずだが、残念ながら何をどんなふうに見たかは、いっさい記憶にございません。やはり2012年に閉館。

この浅草中映などが入っていた会館が、浅草六区に残っていた最後の映画館だった。なので、現在はこの街には映画館は一軒もないそうで、今昔の感があるな。

明治から大正、昭和の往時には、日本最大の映画館街だった浅草六区。その栄光の時代の最後の残照を味わえた私は、けっこう幸運な世代だったのかもしれない。

いまでも、たまにこうした映画館で映画を見る夢を見ることがある。あの独特な小便臭のする猥雑な映画館の数々も、もはや記憶の中にしか存在しないということだ。

  映画つれづれ 目次

【2018/3/8】 今年のNHK大河ドラマ「いだてん」を見ていて、はたと気づきました。明治パートの浅草の風景でやたらと出てくる歓楽街の風景。正面に凌雲閣(十二階)がドーンと立ち、寄席やら演芸場やら活動小屋が立ち並び、高師の金栗四三や若き日の古今亭しん生が駆け抜ける、あの風景。あれが当時の浅草六区の姿なんですね。そう思ってみると、なんか強烈な親近感を覚えます。もちろん私はあんな時代のロックは知りませんがね。


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