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シーズン終了

旅の終わりはいつも虚しくて誰かと一緒に、気の合う仲間とオーイエ。
『また会えるさ』というタイトルのJCが作った歌だ。
この歌ができたのも30年ぐらい昔になるか。
冬から冬へ、南半球と北半球を渡り鳥のように行ったり来たりしていたあの頃、春は別れの季節だった。
スキー業界という特殊な世界で生きていた仲間とは、春になれば別れて次の冬にまた出会う。
そんな事の繰り返しだった。
ニュージーランドに定住するようになり、ハイキングやスキーの仕事をするようになっても季節というのは常に身の回りにあった。
忙しい夏が終わり秋が来ればハイキングの仕事がなくなり冬にそなえ、冬のスキーシーズンが来て忙しい時を過ごし春が来ればヒマになり、やがてくる夏に備える。
気がついてみればそんな生活を20年もやってきた。
僕は基本的に季節労働者なんだろう。
季節の移り変わりに、ロマンを感じ、哀愁を覚え、喜びを見出し、物のあわれを知る。
ニュージーランドは日本と同じように四季があり、季節ごとの美しさや優しさ厳しさを感じ取れるのもここに住んでいる理由の一つだ。

ツーリズムという職種と全く違う農業という世界から、今回は季節の移り変わりを見てきた。
去年の冬の剪定から始まり、ブドウが芽吹き成長し味をつけ熟すまで、一通りの仕事をした。
その時期ごとの仕事もあるし、季節を通しての仕事もあるが全て楽しい経験だった。
大変な作業もあったが、それが終わった後の充実感はやったものだけが分かる山登りの感覚に似ている。
収穫で畑の仕事は終わるかと思っていたが、実際はネットを巻いてそれを納屋にしまってシーズン終了である。
もちろん、ワイヤーを直したり、散水のシステムを直したり、その他もろもろ畑の仕事はエンドレスだ。
だがそういった仕事は後回しでもよい仕事で、冬になり剪定が始まるまでにそういう仕事をする。
とりあえず収穫が終わりネットを片すところでシーズンは終了なのだ。
忙しい時はとことん忙しいがヒマな時はヒマというのはツーリズムと同じで好きだ。

収穫が終わってそのままにしてあったネットを外し機械でロールに巻いていく作業は数人の作業である。
あーだこーだ言いながらやっていくと、葡萄畑のネットが外れ風景が変わっていく。
白いネットに覆われた姿を見慣れてしまうと葡萄畑本来の姿が新鮮に見える。
丸まったネットをヒモで縛って、納屋にしまう。
そういう作業をしながら、収穫もれのブドウをバクバクと食う。
収穫時には若かった実がちょうどよく熟していて食い頃になっているのだ。
我ながらよく食うなあと思うが、目の前に旨そうな実があれば食うのが葡萄への感謝であり礼儀であり敬意である。
ほとんどの実は鳥に食われてしまっているし、早い木は葉っぱを落とし冬に備えているのもある。
周りの木々も葉を落とし、空を見上げてみれば完全に秋の色だ。

秋が来ると妙に感傷的になるのは今始まったことではない。
気がつけば毎年毎年秋になると同じようなことを書いている。
なんなんだろうなぁ、この感覚。
紅葉がきれいでそれが一斉になくなった祭りの後、という感じではない。
それよりも、誰も意識しない場所で木の葉っぱが落ちていき、いつのまにか木が丸裸になり夕焼けにシルエットを映す。
やっぱり自分の心の秋のイメージは、わびさびなんだろう。
こういったのも四季があればこそで、常夏の国ではこの感情も生まれないし、極限の地では夏が終わると同時に冬になるのでこの感情が生まれる隙がない。
そうやって考えると地球上で緯度、南緯も北緯も35度から45度ぐらいという地域に限られて四季の移り変わりが楽しめることになる。
そしてまた大陸という場所も何か違うような気がする。
大陸とは大きな陸地であり、島国のような繊細さが無い、もしくは少ないような印象を持っている。
これは島国にしか住んだことのない僕の私見で、ひょっとすると大陸にもわびさびを感じ取れるような場所があり、そういう文化があるのかもしれない。
それならそれでそういう場所に行ってみたいものだ。

シーズン終了の話だった。
日本はGWだがこちらでは5月というのは何もない。
暦上で祝日も無ければ、学生や子供の休みも無い。
ある意味落ち着いた、普段の生活をする時期だ。
葡萄畑も何もなく、ほぼ1ヶ月の休みとなった。
この休みの間に、所用でオークランドへ行く予定である。
ついでに北島を観光がてらドライブして南下して、普段会えない人に会ってこようかなどと目論んでいる。
でもその前にまず庭の仕事からだな。
夏の間に忙しくて、庭のことがほとんどできなかったのでやることはいくらでもある。
まずは蒟蒻芋の収穫から。
蒟蒻芋、山芋、キクイモ、里芋、秋は収穫の秋、食欲の秋でもある。

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