見出し画像

資本主義について熱く語ってみようと思った。

資本主義の話である。
僕が持っていた資本主義のイメージとは、金が全てであり金の為ならなんでもやる悪いヤツ。
そんなイメージを持っていた。
拝金主義や利他主義とごっちゃまぜになっていたのだと思う。
資本主義は悪の手先で、そのうちに仮面ライダーみたいな正義の味方にやっつけられちゃう。
そんな印象を漠然と持っていた僕が資本主義を学び、どうやらそう単純な話ではないようだということに気がついた。
ぶどう畑で働きながらラジオで聞いて学んだのだが、新しい学びができるのは嬉しいことだ。
今回はコテンラジオの話を基に、自分なりに考えた資本主義の話を書こうと思う。

まず第一に資本主義とは何か。
敵を倒すには敵を知ることから。(資本主義を敵と呼ぶことからして間違いなのだが、まあそういうノリで)
資本主義ができる条件とはいくつかあるが、歴史的な観点から条件をあげる。
まずは私有財産が保証されていること。
王様が勝手に奪ったり、常に略奪される危機がある状態ではダメ。
そして利潤動機、儲けたいという気持ち、がんばれば自分の儲けになるという状態。
がんばっても利潤が吸い取られるとか自分に戻ってこない状態では頑張る気も失せるのが人情だ。
あとは自由市場経済。これは価格を決定する市場(しじょう)があること。
何を売ってよいか、自由な商業活動をすることにより価格が決まるという市場があること。
これは卸売市場や朝市のような実際に物を売り買いする市場(いちば)でなく、状態を示す言葉である。
産業や商品を自分で決められることで、価格が決まっていく状態だ。
これも権力者によって統制されていた時代、中世ヨーロッパには無かったものだ。
これらも歴史上では無い状態が続いたが、時代の変遷と共に自由が認められるようになった。
人権や技術というものも関係あるし、経済とは社会と密接な関係があるのが歴史を学ぶと分かる。
これらが揃うとどうなるか、生産性を上げるという概念が生まれる。
これも利潤が自分の物になるという状態があればこそ。
公務員の事を悪く言うつもりは無いが、公務員のような職場環境では生産性を上げようという気持ちは産まれづらいのは想像できる。
そして時代が進めば、株式会社という法律の基にリスクを分散して生産性を上げるシステムができる。
そして同時に必要なものも高度な金融技術。
遠くに居る者の間で、お金のやり取りができるというのも金融技術だし、手形とか銀行とか為替とかそういうのはみんな技術だ。
こういった条件が揃ってやっと資本主義というものが生まれた。
逆を返して言えば、これらのどれ一つ足りなくても資本主義は成り立た無い。
僕らは生まれて当たり前にこういった条件が揃っているが、それが無かった時代もあったのだ。
まるで空気のようにそれがある現在と、それが生まれるもしくは勝ち取るという時代では人の考え方も違ってくる。
当たり前の事を当たり前だと思わない、ということの重要さを学ぶのは今の世で一番大切なものかもしれない。

こうやって資本主義の条件は出揃ったところで、じゃあ一体資本主義とはなんぞや、ということになる。
マルクスとかアダムスミスとかケインズとか、経済学だの社会学のお偉いさんがいろいろと言うわけだ。
いろいろな人がいろいろな事を言うので漠然としすぎてわけが分からなくなるが、コテンラジオがうまくまとめてくれたのを記す。

その1、市場経済を前提として成り立つ。
これは条件のところで述べたが、さらに市場経済では全ての物が商品として成り立つ。
土地や水、山や森そして空気までもが商品となるし、人間の労働や時間というものも商品となる。
言い換えれば自分が持っている時間を売っているとも言える。
僕のガイドとしての労働は価値があるものなので高い値段が付くが、ラベンダー畑の草むしりは誰でもできる仕事なので最低賃金だ、というのも市場経済上では当たり前の話なのである。
また私有財産が前提なので全ての物が人や会社などの所有物でなければならない。
僕個人の考えはアメリカンインディアンと同じで、土地という物は地球の物すなわちみんなの物であり、それに値段がつくこと自体がおかしい。
この考えでは資本主義が成り立たない。
実際にアメリカの開拓時代にインディアンは土地の所有の概念を持っていなかったので、白人が何か珍しい物をくれるらしいということでお金なり宝石なりを受け取った。
その結果インディアンは住んでいた土地から追い出された、という歴史がある。
これに近い話はニュージーランド先住民のマオリ族にもあり、ワイタンギ条約が結ばれた時にマオリは条約という概念を持っていなかったということで、条約が結ばれたワイタンギデーには今でもマオリの抗議活動がある。
誤解を招くと困るので書いておくが、白人が悪いと言っているのではなく、概念が違う人種の間ではそういうことが起こりうるという事を言っているのだ。

その2、市場経済上では市場にとって良しとされる行動でしか報酬を得ることができない。
たとえ社会とか環境に良くても、市場が良いと考えなければそれは評価されない。株式市場で自分が良いなと思う会社に投資しても儲かるとは限らない。
市場から評価されていて、ここは儲かると市場が思っている株式に投資をすることが儲かる。
自由市場経済下では、自分にとって良いと思う行動より市場からの評価を優先してしまう傾向にある。
市場にとって良いという考えとは、多数の意見を反映することだろう。
多数の意見とは、民主主義に繋がる。
後にも述べるが、資本主義と民主主義は常に結ばれていて、分離できないものだ。

その3、持続的成長が資本主義には必要であり、それは生産人口に比例している。
労働できる人間の人口が増えれば経済は成長するし、減れば経済は縮小する。
資本主義では持続的成長をしなければならないと皆が思っているので、そのためには人口が増え続けなければならない。
人口が増えれば当然ながら環境問題にもつながる。
産めよ増やせよ、というスローガンが昔あったが、人口というのは直接的に国力に比例する。
多産が良しと社会が認めたわけだが、これも時代や社会によって変わる。
逆に一人っ子政策なんてものをやった国もあったわけだが、どちらにせよ問題はある。
そもそも子供の数は家庭で決めるべきことであって、他者が関与することではない。家庭ごとの経済事情や社会との繋がりその他もろもろがあるので、本人が決めるべきだというのが僕の考えだ。
その考えさえも基本的人権が確立された現在に生きているからであり、そうではない時代が長く続いてきたのだ。
今は人口は減少しつつあり、これからも増えるということはないだろう。
そうなると右肩上がりが基盤となっている現在の経済は困ってしまう。
さてどうなるものかねぇ。

その4、期待値を定量化することができる。
企業の時価総額は今ある価値なのだが期待値が載っている、それが定量化され株価として反映される。
しかしその期待値というのは、どれぐらいその会社が儲けるかという事しか定量化されない。その会社がどれぐらい社会に貢献するかとか、どれぐらい支持されているかというのは定量化されない。
超簡単に言えば、儲かるか儲からないか、なのだ。
これはその2の、市場にとって良いとされる行動が重視される、ということと重なる。
つまり儲かるものにしか価値を見出せず、そこにしか投資されない仕組みになっている。
期待値が定量化されるという事は悪いことではなく、近い未来が予測されるという事だ。ローンを組んで欲しい物を買うのも、クレジットカードで買い物ができるのも、事業拡大の為に金を借りるのも、これがあればこそだ。
その不安定な予測を人間が全てコントロールできると思ってしまっている事が問題だ。
これは時間の概念にも繋がる話だが、西洋の時間の概念は過去から現在そして未来へと一方通行だ。
だがインドでは時間の概念は循環なのだと言う。
最近流行の『持続可能』という言葉も一方通行の時間の中での事で、循環の中では意味を持たない。
時間のことでついでに書けば、時間と空間が分離されているというのも昔は違った。戦争では色々な部隊が同時に同じ位置に集まる必要があるので、同じ時間を共有しなければならない。
腕時計が発明されたのも第一次世界大戦のあたりだと聞く。
そうやって時間というものが空間から外され、一人歩きしている。
若い時にいろいろな国を旅して、場所ごとに流れている時間の違いを感じたものだった。今でもその感覚は漠然と持ち続けているが、この感覚は時計の前では見事にかき消されてしまう。
この矛盾が問題点なのかどうかは分からないが、今はそういう時代だということだ。

その5、資本が資本を産む性質がある。
お金を持っているとそのお金を増やす事ができる。
資産運用と言えば分かりやすいし利子というものも同じだ。
その結果、金持ちはどんどん金持ちになっていく。
マイナスの因子で言えば、借金が膨れ上がっていく話はどこにでもある。
貧富の差というのも産まれやすい。

その6、資本主義とは単なるシステムではなく、我々のOSとして機能している。
文化、イデオロギー、習慣、制度、そういった諸々と関係があり、民主主義とも未分化である。しかもこのOSは固定化されたものではなく動的なものであるため、常に姿を変え続けている。
生まれてからずーっと姿を変え続けているのだが、同じ資本主義として駆動している。つまり資本主義の特徴が変わっている所もあれば変わっていない所もある。
ここが僕が一番感銘を受けたところで、漠然と感じていた事をうまく言語化してくれた。資本主義とは単なる世の中の仕組みだと思っていたがそうではなく、全てを組み込んだOSだという考え。
こういう発見、考え方の変換、もしくは思考のアップデート、なんでもいいがこの考えは多いに共感できた。

こういった事を全てひっくるめて資本主義と呼ぶ。
ところどころで難しい言葉が出てくるのはコテンラジオ特有の言い回しだからである。
コテンラジオではこの後で歴代の経済学者や社会学者の資本論を紹介して、ポスト資本主義への話へ移っていく。
とまあこんな具合に資本主義という物がなんとなく分かってきた。
話を冒頭に戻して僕が資本主義に持っていた悪いイメージはそのほんの一部の物だったと理解できた。
第一資本主義があるから、今の便利な世の中があるわけである。
文明の進化に必要だったと言えるわけだ。
でも各事項ごとに問題を抱えているのも事実だ。
そして第6項であげた通り、資本主義はOSだというような考えは資本主義に限らず他の社会にも当てはめて考えることができる。
例えば学校教育の問題を考えてみようとしよう。
それは教育の現場での出来事はもちろんだが、それを取り巻く地域社会、各家庭での親のあり方、経済も関わるし、政治も無関係ではない。
医療の問題では医学はもちろんだが、やはり政治そして経済、働く人の労働環境ひいては個人の思考から私生活まで、何から何まで繋がっている。
現代社会では全ての社会現象が互いに関わっていて、一点だけを見ても問題は解決しない。
それだけ社会が複雑化しているということだ。
今回資本主義を学んでいろいろと考えた。
経済を専門的に勉強している人から「たかだか数時間ラジオを聞いたぐらいで分かった気になるなよ」と言われるかもしれない。
そう、気をつけなければならないのは、分かった気にならないことだろう。
これはどこかの哲学者が言っていた「知れば知るほどに、自分が何も分からないことが分かった」
それを踏まえて学んで考えるのは大切なのだろう。
物事を細分化して専門家がその事を研究するのはもちろん大切だが、経済も社会学も哲学も歴史もというように広い範囲で考えること、すなわち人文学が今の世の中で大切なのではないかと思う。
専門家が専門分野で研究した知識は人類皆で共有し、総合的に考え判断し行動することが明るい未来につながっていくと信じる。
ちなみに僕は庭で採れた野菜も卵も人にあげてしまい、お金は一切受け取らない。
「売ればいいのに」とよく言われるが、大地からの物は売らないのが信条である。
資本主義的観念から言えば、バグそのものなのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?