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#22. 「英語ができる」とは何か


英語やそれを勉強する人たちと毎日顔を突き合わせているので、「英語ができる」というのは果たして、どういう状態のことなのか。そんなことをよく考えたりする。

一見シンプルな問いなのだけれど、答えようとして考え出すと、実はなかなか難しい。


■ 自分は英語ができるのか


英語を使っている人や、それに関わる人たちを見るに、「英語ができる」という状態への眼差しは、人によって実にさまざまである。

たとえば、海外旅行に行って、現地の人に道を聞いたり、お店で料理を注文したり、宿泊仲間と軽い会話のやりとりをした経験だけで、「自分はもう英語がペラペラです」と自負している人がいる一方で、

英語で書かれた文書を読んだり、それに英語で返信したり、ときには英語で高度な議論をこなしていても、「自分はまだまだ英語が未熟」と感じている人はたくさんいる。

これはいちばん最初に書いた記事(「ひとことめ」)でも紹介したが、英語の達人であるかのような通訳でさえ、毎日平均 5, 6 時間、英語の勉強を欠かさないという話まである。

「自分は英語ができるのか」という問いへの答えは、したがって、「 〇〇 ができる」とか「英検 〇 級を持っている」とか、そういう客観的に測定される技量とは別に、英語の上達過程における個人の心の持ちようという話に行きつく。


■ 英語を学ぶ人の心理はどのように変化していくか


では、英語を勉強し徐々に自分の英語力が上達していくにしたがい、学習者の心理はどのように変化するのだろうか。

すこし遠回りになるが、先日、『天気の子』でいま話題の新海誠の代表作『秒速 5 センチメートル』の小説版を読んでいて、解説「語り直した、その先に、あらわれるもの」のある部分に目が留まった。

そこでは、アルコール中毒や薬物依存を体験した女性について書かれた書籍『その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち』が紹介され、その中に登場する「回復の四段階」なる理論について説明がある。

これは、断薬して間もない患者から薬物を止めて長い人まで、複数の女性薬物依存症者にインタビューをした専門家が、回復の各段階に応じて、彼女らの精神状態とそれに見合ったキーフレーズを抽出したものだそうだ。

一見英語とはなんら関りのないようにも思えるのだが、これがどれもたいへん興味深く、また英語学習者の経る心境の変化ともリンクする部分があるので、以下に引用してみる。


1. 第一段階

第一段階は、精神状態=断薬したから大丈夫&キーフレーズ「もう大丈夫」。自身が抱えている問題の大きさを関知しておらず、薬を止めさえすればすぐに解決できるものだと安心してしまっている。

たとえば、英語の基礎を中高で学び、大学以降で海外旅行に出かけたり外国籍の友人ができたりすると、(実際にはまださまざまな点で未熟でも)これと似たような「自分はもう十分英語ができる」という精神状態に入る場合が多い。

英語を使って仕事をしている会社員より、それより若い大学生の方が数倍、英語に関して自信満々に見えるのも、おそらくこのためであろう。

かくいうぼくも、大学受験で培った英語を引っさげて 20 歳で北欧を旅したとき、幸か不幸か現地の人に救われて大過なく過ごせてしまったために、「もうこれで十分でしょ」という実体のない万能感に満たされていた。

自信があるということ自体は素晴らしいのだが、多くの場合はギャンブルでいう「ビギナーズ・ラック」的な幻想に惑わされていて、自分の英語の足りない部分に無自覚というケースが少なくない。


2. 第二段階

続く第二段階は、精神状態=回復できるのだろうか&キーフレーズ「どうなれば回復か」。問題の大きさにはまだまだ無自覚だが、解決までの道のりの遠さを察知し、不安を抱き始めている。

「もう大丈夫」と自信がついたのも束の間、それはたいていの場合すぐに自分の勘違いであったことに気づく。

海外旅行には、中学生レベルの語彙があれば行けてしまうとよく言われる。また旅先では、相手が言っていることを理解するよりも、自分の言いたいことを伝える方が重要なため、最低限の意思伝達ができれば(相手の言っていることは理解できていなくても)切り抜けることができてしまう。

習った英語を使い始めた第一段階では、「できなかったこと」より「できたこと」への達成感の方が大きく、そちらの方が記憶としてもより鮮明に残るので、「自分はもうできるんだ」とついつい思ってしまいがちだが、そうだと信じてもう少し深く英語に足を突っ込むと、たちまち「できないこと」の多さに気づき、そこで愕然としてしまう。

北欧から意気揚々と帰ってきたぼくは、有り余る自信に任せてそのまま、外国人留学生が受ける授業に、日本人として混ぜてもらった。「もうディスカッションだって余裕でしょ」そんな調子で浮かれていた。が、そこで彼らが話す英語のあまりの早さと複雑さに、ほとんどついていけずになかば、挫折した。

英語にはレベルがある。海外旅行で必要とされる英語と、議論するのに必要な英語はまったく異なっていた。それに、こちらの英語のレベルが上がれば相手もレベルを上げてくる。なんのことはない、今までは、自分の未熟な英語に合わせて、周りが手加減してくれていただけだったのだ。

登っても登ってもなお頂きは見えず、破っても破ってもなお壁は目の前に立ちはだかる。あんなレベルで英語を使いこなせるように、自分は本当になれるのだろうか。

そして再びこう問い直す———どうなれば英語ができると言えるのか。


3. 第三段階

第三段階は、精神状態=回復できるかもしれない&キーフレーズ「変わってきてるかもしれない」。問題の大きさに向き合い、解決には特別な努力と方針が必要だと気付く。自分が少しずつ、変わってきていることを自覚する。

「できること」ばかり印象に残る第一段階、それとは逆に「できないこと」にのみ目が行きがちな第二段階を経て、第三段階では徐々に、「できるようになったこと」に目を向けられるようになる。

不安に苛まれてばかりではいけない。目標とするレベルまで到達するには、なにか手を打たなければならない。そうしてやるべきことを見つけて、コツコツそれを続けていくと、以前はできていなかったようなことが、いつの間にかふと、できるようになっていることに気がつく。

ぼくの経験で言えば、大学 3 年生のときに取っていた英語のクラスで、ポーランド人の先生がぼくに「君のような学生を教えられてよかった。自分は何十年も色んな国で教えてきたが、君はその中でも間違いなく 1, 2 を争う優秀な学生だった」と、学期の終わりにメールで伝えてくれたことがある。

授業中に学生を大声で叱りつけたり、言うことを聞かなければ "You stand up, and go home." と言ったりもする厳しい先生だっただけに、この言葉はとても嬉しく、「自分のやってきたことは間違っていなかったんだ」という自信につながった。

同じ教室には、アメリカに長くいたとかで、ぼくよりはるかに流暢だった学生もいた。しかし、彼らからすると、流暢であることにあぐらをかいて手を抜いているのはすぐわかるそうだ。英語力を構成するのはなにも、話すスピードだけではない。使用する語彙や文構造、論旨が一貫しているかなど、さまざまな点から自分の英語力は評価される。

たしかに、このころから、自分よりスラスラと英語を話す外国人でも、しばらく話しているうちに「自分はあなたより英語ができないから」と謙遜するようなケースが出てくるようになった。これ以前のぼくには到底考えられなかったことだ。

「できないこと」はまだ多い。しかし自分はたしかに「できるようになってきている」。このような過程を今後も繰り返していけば、いつかは目標とするあのレベル、すなわち山の頂きまで到達できるかもしれない。そんなそこはかとない楽観。これが英語上達における第三段階と言える。


4. 第四段階

そして第四段階は、精神状態=回復はゴールではない&キーフレーズ「回復とは回復しつづけること」。「第四段階になると、回復というのは何かゴールが決まっているのだろうと思っていたけれども、そうじゃないということがわかってくる」と、自らも依存症者であり長期離脱者である著者は記す。傷は消えない、ゴールはない。だとしたら、何度も何度も、回復し続ければいい。

そうして長く英語の勉強を続けていると、最終的にゴールというのがどこにあるのか、よくわからなくなることがある。

むかし思い描いていたいくつかのこと(たとえば「洋書がスラスラ読める」とか、「洋画が英語のままわかる」とか、「外国から来た友人とメールや日常会話ができる」など)というのは、そのときは漠然と「できるかできないか」のように、白黒はっきりしているものかと思っていたが、実情はこれよりはるかに複雑だ。

英語がある程度できる人なら必ず感じているとは思うが、「この本はスラスラ読めるけれども、あの本はなかなか読めない」とか「この映画なら字幕なしでもいけるけど、あの映画だと字幕がないと厳しい」というのはみなそれぞれにあるだろう。

外国人と日常会話をするといっても、日常会話というのは「きのう食べたカレーの話」から「最近世界で話題のニュース」までピンキリであり、スラスラ話せる話題もあればそうでない話題もある。

なら、読めない本や理解できない映画をゼロにし、どんな話題でもベラベラと話せるようになること(世間が思う「ネイティヴのようになること」)が英語学習のゴールだろうか。

しかしそのようなこと、はじめから不可能なのではないか。

考えてみれば、ぼくらは日本語のネイティヴスピーカーだが、難しくて理解できない和書はたくさんあるし、方言がきつく字幕なしでは観られない邦画もある。日本人ならみんな、「ボリス・ジョンソンがイギリスの首相になったこと」についてベラベラ話せるというのは、まずありえないことだろう。

となると、究極のゴールかに見えていた「ネイティヴのようになること」というのも、実体があるようでないものなのだと気づかされる。

そうして最終的にたどり着く結論。それが、「『英語ができる』というのは、できるようになるため努力し続けている状態のこと」なのではないかということだ。

日本語ででもできないことはあるのだから、まして外国語としての英語の勉強に、終わりなどない。やってもやっても知らない単語はなくならないし、文脈なしには理解できない会話はある。いつまで経っても、「できること」より「できないこと」の方が多く感じてしまう。

しかし、それでもいいのではないか。だってそれが当たり前なのだから。

英語をやり続けている以上、毎日自分が上達しているというのは疑いようのない事実だし、その山を登り続けている間は、ゴールなど見えずとも、節目節目でいまの自分が以前の自分よりも高い位置にいる———すなわち「英語ができるようになっている」———のは、誰にも否定できない真実である。

だから、英語の上達に向けて鍛錬を続けている限り、ぼくらはいつでも「英語ができる」と言って差し支えないのかもしれない。もちろん、「できること」と「できないこと」に対する認識はしっかりとした上でだが。


■ 終わりに


「英語ができる」とはどのような状態のことなのか、という問いについて、薬物依存症者における「回復の四段階」に照らして考えてみた。

英語を勉強していく中で、「英語ができる」に対するぼくらの心境は:

1. 自分はもう十分英語ができる

2. どうなれば『英語ができる』と言えるのか

3. できるようになってきている

と段階的に変化していき、最終的に:

4. 『英語ができる』というのは、できるよう
になるため努力し続けている状態のこと

という考えに落ち着くのではないかというのが、ぼく個人の経験と観察に照らした結論である。

ただし、第四段階に至った人が、その後もずっと安定的にそういった心理状態で勉強を続けられるかというと、そういうことは決してなく、おそらく一度第四段階に入った人でも、なにかの拍子に、また第一段階のような極端に浮かれた心境になることはあるだろうし、

またその結果として、同じように第二段階・第三段階を経るということもザラにあるだろう。すくなくともぼくは、この四段階をいままで何度も行ったり来たりしている。

この四工程は、一方通行ではなくむしろ螺旋階段のように上に続いているのかもしれない。「自分は十分英語ができる」という過信こそ前と同じだが、そうして初期の精神状態に戻ってきたときの自分は以前よりずっと高いところに立っているのだ。

こうしてゆっくり上昇を繰り返し、自信と不安の間で何度も揺れ動きながら、ぼくらは英語が少しずつ少しずつ、できるようになっていくのである。


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