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#12. イチローと英語


イチロー選手が引退を発表した。

野球に明るくない身としては、あまり彼の功績や今回の件について云々するのは気が引ける。それは野球をこよなく愛する人たちのするべきことだし、彼らにしかできないことである。

だから、野球の代わりに英語という言語に多くの時間を費やしてきた者として、今回は「イチロー選手と英語の関係」について、すこし書いてみようと思う。


■ イチローは英語を話すのか


イチロー選手が英語を話せるのかどうかということは、彼のプレーしているアメリカにおいて、これまで何度か話題になってきた。

なぜなら、インタビューの際に、彼は「必ず」日本語で答え、通訳を介してそのメッセージを伝えてきたからだ。

ためしに YouTube で「 イチロー 英語 」とか「 Ichiro English 」という風に検索してみると、彼が単発的に短い英語を話している映像が 2, 3 個出てくるだけで、まとまった量の英語を話しているところは出てこない。

2016 年に彼がメジャーリーグ通算 3,000 本安打という偉業を達成したときには、アメリカのスポーツレポーターである Todd Grisham が(すぐに削除したものの)以下のようなツイートをし、たいへん物議をかもしたようである:

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彼の 3,000 本安打は素晴らしいけれども、イチローがアメリカに 15 年も住んでいてまだ英語を学ぼうとしないのはさらに驚きだ。

これに対しては当然、反論が相次ぎ:

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どアホ。彼は英語をわかってる。通訳を使うのは、自分の発言に関して誤解が生まれないようにするためだろ。

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彼が英語を話すとして、どうして誤解なんか生じるんだ(=誤解なんか生まれようがないだろうが)、このバカ。

このレポーターに対する怒りはさておくとして、まずハッキリさせておかなければならないのは、その経歴から考えて「イチローはまず間違いなく英語を話す」ということだろう。

彼は 2000 年の末に渡米しているので、現在まででおよそ 18 年ほどアメリカで暮らしていることになる。その間、家を出ればほとんどの時間英語にさらされていただろうし、英語を使わなければならない場面も山ほどあったろう。チームメイトとも当然、英語で交流してきたはずだ。

このような環境にいれば、英語がすこしもできないという状態でい続ける方が難しい。「心から英語を嫌っている」とか、そういった「できないままでいる動機」がなにかあるなら別だけれども、彼の場合はそういったものもない。

事実、インタビュー映像などを観ていると、彼は英語での質問に対して通訳を待たずに答えている場面などもあるので、やはり英語を理解していないということはあり得ない。(たとえば次の動画の 5:17~ )

とすれば、彼がインタビュー中に英語を使うのを避け、かたくなに日本語で語る姿勢を貫いてきたのには、また別の理由があると考えるのが妥当である。つまり、「わからない」のではなくむしろ、「わかるけれどもそうしない」理由があるということだ。


■ どうして英語では語らないのか


イチロー選手は "English Will Remain Ichiro's Second Language" という記事の中で、インタビューの際に通訳を使い英語を話さない理由について、(やはり通訳を通し)次のように語っている:

We have to connect to our fans through the media, and when you talk about that, it's got to come from your heart. And when it comes from your heart, it has to be absolutely consistent.
ぼくたちはファンの方々とメディアを介して交流しなければなりません。そしてその際の言葉は、心から出たものでなければなりません。また心から出たものであるならば、それは絶対に一貫したものでなくてはなりません。
There's a big risk you take without an interpreter, because as professional baseball players, we are here to perform baseball, not to learn a language.
通訳なしでというのは大きなリスクを伴います。なぜなら、プロの野球選手として、ぼくたちは野球をするためにここにいるからです。言葉を学ぶためではない。
When you look at me, it's tough to express my feelings in Japanese (let alone English). I have that kind of theory, that's why it's impossible for me to speak in English like I do in Japanese. If I would study English and try to perform at my level, that's like putting the cart before the horse.
ぼくのことを見ていただければわかると思いますけれども、ぼくの気持ちを表現するのは日本語でも難しいものです(まして英語ならなおさらですけど)。ぼくはそういった考えを持っていて、だからこそ、ぼくは日本語で話すようには、英語を話すことはできないんです。もしぼくが英語を勉強して(この日本語の)レベルまで到達しようとしたなら、それは本末転倒になってしまうわけですよね。

つまり、「ファンに言葉を伝える以上それは本音でなくてはならないが、自分の考えを伝えるのは日本語ですら難しいので英語ではできない。それができるくらい勉強しろと言われればそれまでだが、それでは野球の練習に支障が出てしまい、プロの野球選手として本末転倒となる」ということだろう。

相変わらず、芯の通った考えであり、こういったことを海外であるアメリカのメディアに対して堂々と言うことのできるイチロー選手は素晴らしい。

明確な考えのもとにそうしている分、彼が英語で行われるインタビューに臨むときの姿勢も非常に凜としていて、むしろ「英語で話さない」という事実が、彼をよりいっそう神々しく見せているような風情すらある。


■ 外国語で本心を伝える難しさ


そして、言葉を愛する者として、ぼくはとりわけ彼の 3 つ目の言葉に共感を覚えた。「自分の気持ちを表現するのは日本語ですら難しいので英語ならなお難しい」という部分である。

インタビューなどを観ていればすぐにわかることだが、彼の話すスピードはいつも明らかに遅い。真意が伝わるように、誤解のないように、次に紡ぐ言葉をじっくりと頭の中で吟味しつつ絞り出しているように見える。

これはあまり脚光を浴びない事実だが、こういう「自分の思っていることを、できるかぎり『自分の思っているように』相手に伝えたい」という意識の強い人には、「英語をよどみなくペラペラ話す」というのはなかなかハードルの高いことだ。

外国語を学んだ経験のある人なら誰しも経験のあることだと思うが、外国語で話すときというのは(母語でそうするときと比べて)表現力は格段に落ちる

とくに最初のうちは、基本的な単語と単純な文構造しか使えないために、いまこの瞬間に感じた喜びや悲しみ、怒りや感動も、自分の思った強度・深度・精度では決して伝わらず、ゆえに誤解も招きやすい。言葉に対して繊細な感覚を持つ人ほど、この歯がゆさに何度も苦しまなければならない。

かくいうぼくも、スピードが重視される場面では、(妥協の末に)簡単な単語とフレーズを使って「よどみなく話しているように見せる」ことはあるけれども、それが終わった後には必ず、「あの形容詞を使っていればより的確に気持ちを伝えられたのに......」とか「ああいう風な文構造にしていれば、より力強い表現になったのに......」という悔しさに苛まれている。

母語である日本語ですら、自分の考えや思いの丈を正確に伝えるのは難しいのだ。それを語感の劣る外国語でやってみせることの難しさは計り知れない。(「誤解なんか生まれようがない」と言っていたあのレポーターは、きっと外国語を真剣に勉強したことがないのだろう)

だから、すでに日本語の時点で自分の考えを表現することを「難しい」と考えているイチロー選手が、自分の心根を正確かつ誤解なきよう伝えるために、あえて日本語で語る姿勢を貫くのは、不勉強とか体たらくとかそういったものとはほど遠く、むしろ賢明で誠実な判断なのではないだろうか。


■ おわりに


イチロー選手が、英語が理解できるにもかかわらず英語を話そうとしないのには、確固たる理由があることがわかった。

この彼の英語に対する姿勢を見て、「自分も将来英語を使う場面では、イチローの言うような理由を並べて、通訳に頼ればいいのではないか」と思う人がいるかもしれない。ぼくもすこしだけ(すこしだけ)同じことを考えた。

しかし残念ながら、ぼくのような一般人に、イチロー選手のような強気な姿勢をとることは許されないだろう。彼がかたくなに日本語で話していても許されてきたのは、彼が圧倒的な実力と実績を持っていたからだ。

「なにか他のものですでに認められた人が英語で話す」のと「英語で話しながら相手に認めてもらおうとする人」とでは、求められる英語のレベルは全く異なる。

誰もが驚く偉業や肩書を引っさげて外国人と交流するのでない限り、名も無きぼくたちはやはり、明日からまた、できるかぎり上等な英語を目指して、イチロー選手のように一つ一つ積み重ねながら頑張っていくほかないようだ。


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