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【今の私ができるまで②】気管支喘息と付き合う

ども、にこさんです。

シリーズ第2回。私のさまざまな行動の原点とも言える「疾患」のお話です。
過去のアーカイブはこちらの記事から、なぜこれをやろうと思ったのかと合わせてご覧ください。

親からの話では、気管支喘息(小児喘息ではありません)は3歳ごろに発症したと言われています。どのような経緯で患ったのか、その詳細は聞いたことはありませんでしたが、物心ついた時には、朝晩の服薬と吸入器(当時はめちゃ大きくて、口に咥えるタイプでした)を欠かせない日々になっていました。

ガラスのアンプルに入った薬を、専用の容器で開け、ガラスの破片が入らないように吸入器に入れる。通常の薬と、少しでも呼吸がヒューヒュー(喘鳴)言おうものなら、気管支拡張剤を導入して、眠りやすくしたり、生活しやすくするような工夫をしていました。
元気に外で遊ぼうものなら、あまり全力疾走が続くとすぐに喘鳴が出てきて、落ち着くまで何もできません。息を吸うのも吐くのも苦しくなって、時にはチアノーゼも出ることがあったんじゃないでしょうか。特に家から遠く離れたところでその症状が出て、今では携帯することが簡単になった吸入器がない時代は、そこから家に帰るまでが本当にしんどかったです。

ただ歩くのもままならず、10歩進んでは立ち止まって呼吸を落ち着け、また10歩・・・家路がこんなにも遠く、恋しい思いになっていたことを思い出しました。

私自身も「なんで・・・」と思ったことは幾度となくありました。たくさんの薬を飲み、時には漢方に頼りと。(今では漢方ラブになりましたw)

好きな運動がちょっとしかできない。体を強く鍛えたい。そんな思いから、小学生の間は水泳や野球、ミニバスにトライしました。そこでも牙をむく喘鳴。本当にしんどかったです。

大人になった今では、さまざまな運動や投薬の結果、ほとんど発作が出ることはなくなりましたが、通院は月に一度程度は欠かさずかかりつけ医にかかって、吸入薬を処方していただいています。本当にありがたい。
住まいのエリアでは、喘息患者に対する助成もありましたが、今では新規受付を終了するなど、たまに医療費がかかることがしんどい時もあります。(でもそれは必要なのでしょうがないですね)

「呼吸器に疾患があり、思うように運動ができない」というハードルを突破したく、喘息患者でありながら、一体どこまでチャレンジできるのかということを証明したいと思い、今ではさまざまなスポーツを行い、またそれをレクチャーするという立場にいます。(重度の違いもあるかと思いますが)

40歳になるまでに、トライアスロンのアイアンマン(佐渡A級とか宮古島とか)の完走を目標にしていた時期もありました。(まだできるかな・・・)
きっとそこまでできれば、罹患した時に悲しんだ両親も安心するかなと思い、少しずつですが、体を鍛え続けています。(むしろやりすぎで心配させてしまうかもw)

今自分に起こっている「壁」となるもの。私にとっては気管支喘息がそれだったのですが、壁があっても「突破できる」ということを、さまざまな活動で証明していきたいと強く思っています。その一つが、いろんなものに対する「複業」というものに繋がってきます。

壁があるなら突破しよう。ちょっと体育会系ですがw
でもこれまで「やりたい」と思ってきたものを、なんらかの形で、自分なりに実現してきた自信もあります。
喘息からのエピソードではありますが、このnoteをご覧いただいた方の「自己実現のきっかけ」になれれば幸いです。

もちろんここまでできたのは、育ててくれた両親、関わってくれた親族、出たってくれた全ての人たち、そして支えてくれる今の家族がいるからです。本当にありがとう。


では続きはまた明日。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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