【短編小説】れもニキ1/5

 あれはいったい何周期前の氷河期のことであったか、
 左右六本ずつ、鉤爪のある指を持つ、
 哺乳類に近い姿の動物が、絶滅しようとしていた。
 始祖鳥の群れに追い詰められた最後の雌雄は、
 互いに手を取り合って、
「何度生まれ変わっても、またつがいになりましょう」 
「必ずそうしよう」
 誓い合うと、雌の左手と、雄の右手とを二度とはほどけぬしかたで絡み合わせ、互いに力を込めた。
 すると雌の左手と雄の右手とは指の本数など問題にならぬような至って単純な一つのつながりとなった。
――何度でも、何億年でも、世界線を何度またいででも、あなたのいるところが私の涅槃よ
――君のいるところが僕の涅槃だ
――お元気で
――君も
 雌雄微笑み合うと、どちらからともなく態勢を傾けて行き、マントルの中へ落ちて行った。やがてジュッという音がして、・・・・・・。
 
「つまりこの二頭の生命体のうちの一頭が俺であったというわけだ」
 と、男はひとり、呟いてみた。五月の夜の、公園のベンチで。
 男の名は、大八木抄造。
 今日は、大八木抄造の話をしよう。
 
 公園の中心に、池がある。鮒(ふな)が泳いでいる。マガモと亀もいる。たまに火の粉をまき散らしながら鳳凰が飛んで来て、池の中心の小島に生えた、最も背の高い木の天辺にとまる。人々は、朝から晩まで、釣り糸を垂れている。鮒を釣るのである。それで池の片隅には、鮒を供養するための石の墓を据えている。人と、鮒と、マガモと亀とを、やわらかな炎をまとい鳳凰は眺め下ろすのである。
 池から小川が流れている。あるいは池に小川が流れ込んでいるのかも知れない。・・・・・・いずれにしても実際はドブに近い淀んだ流れなのだが、一応公園の案内板には《小川》と記載されているその汚い流れの傍らにも点々とベンチが設置されていて、抄造が今座っているのはその中でも最も奥まった場所のベンチである。
 あの時絡み合わせた手の感触が、今も残っている。五本の指では到達し得ない感触だ。しかし、
「今世では。今世でも。か」
 と抄造は呟いた。
 また、巡り会えないのかも知れない。抄造は目をさまよわせる。どこにも目当ての人の姿はない。かわりに左右の目玉の中には百匹を超える虫がいる。数え方によっては五百とも千とも知れぬ。ひどい飛蚊症なのである。目を動かすと視野全体に虫たちがいっせいに流れて、景色をじりじりじりじり、とゆがめ、煌めかせる。抄造はこれを楽しんでいる。
「別のところで元気で幸せにいてくれるなら、それでいいのだよ」電灯のところを虫たちが通る時に、もともと乱視で十重二十重に分裂している光が更に歪まって、万華鏡。左上から右下へ、そこから右上へ、そして左下を経て、もうむちゃくちゃに眼球をぶん回してみる。眼球を動かす筋肉は子どもの頃から酷使し続けてきたから既に鍛え抜かれている。外眼筋を乱暴に収縮させて目玉をきゅんきゅん転がす。
 不愉快ではない。
 楽しい。
 子どもの頃から暇つぶしでこうして虫の目で遊んできた。世界をほとんど力を使わずに汚している感触がして愉快なのだ。いくら愉快でも目当ての人は現れない。もう目当ての人でなくてもいいから出会いたい、つがいたいと、実は三十を超えた辺り、いや、二十五を超えた辺り、本当のことを言えばもう十代の頃から思っていたのだが、一向に出会わない。出会った、と、抄造の方で思っても、向こうでは出会っていないのである。抄造は目を回す。回し続ける。じりじりじり。りりり。電灯が震える。自販機がただれて、伸びて、太って、・・・・・・、「死にたい」本当は死にたくないのである。まだ諦め切れぬのである。
 左の太ももに震えを感じて、マッチングしたのだろうか、・・・・・・
 とスマホを取り出すと母からのメールで、
【だいぶ暖かくなってきたね。元気にしてますか。これから急に夏並の気温になるらしいよ。体調に気をつけて、勉強頑張ってね。今月の仕送り、郵便局に振り込んでおきました】
 いったん、・・・・・・収める。
 スマホを左のポケットに収める手はぷるぷると震えるのである。無職である。資格の勉強をしている。年収は0。古希を超えた母から仕送りを受けて、毎日図書館で勉強しています。一人暮らしが長いので、料理は結構できる方だと思います。掃除もできます。子どもは好きです。他人の子どもでもあんなにかわいいのだから、自分の子どもならめちゃくちゃかわいがる自信あります! 周囲からはよく「いいお父さんになりそう」と言われます。よろしくお願いします。
 抄造は純愛を求めている。嘘は言わない。あるがままの自分を愛してくれる人を探している。向こうでも、必死にこちらを探している筈だ。探しているというからには、そういう人がどこかには存在すると未だに信じているのである。信じていたのである。信じていたかったのである。しかしさすがに「もう無理か、今世では六本指のあのかたわれには出会えぬよ、多分あのかたわれは、今回人間には生まれていないのだ、今世はいったんゲームオーバー、タイムアップ、もう、」
 鳳凰が飛んで来て、池の小島の木の天辺にとまった。水面が炎に震える。抄造は立ち上がり、そちらへ歩いて行った。池の端ぎりぎりのところまで近寄っていき、鳳凰を仰ぎ、
「もしかしてあなたは」
 と言って、先が続けられなかった。もうこんなことも、むなしくなったのだ。
 

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