【短編小説】犬嬢と花の荷車の女3/3

 桜並木の道を荷車とともに北上する容子の目に、同じく桜並木を単身南下してくる白装束の風変わりな女の姿が入ったとき、容子の胸に湧いたのはライバル意識だった。 
 同じ街に、二人は要らない。
 と、思ったのである。
 容子は板橋区、犬女は練馬区であるから住み分けができていないことはない。縄張り争いということで言えば、星丘台地公園は練馬区、つまり越境しているのは容子の方であって犬女に非はないのだが、星丘台地公園南口を一歩出ればそこはもう板橋区だ。そもそもこの公園は容子が初めて荷車の女としての自己を認識した思い入れの深い場所ということもあって、譲りたくなかった。それに板橋だの練馬だのは外野が勝手にそう言っているだけで、容子自身も、そして犬女自身も、別にそこが何区であるかなど意識はしていない。また、地理的な縄張りとは別に、SNS上での注目度として、ここ最近両者は拮抗しており、見た目の面白さという点で荷車の女は犬女に押されつつある、と荷車の女=容子自身は感じていたという事情もある。
 そうして今まさに、実物の犬女が前方をてくてく歩いてくる姿を目にした時、こいつ、やっていやがる、と容子は内心思ったのである。何をやっていやがるのかというと、「歯牙にもかけない」感じをやっていやがる、と思ったのである。当然向こうは向こうで容子の存在は認識している筈なのに、絶対意識している筈なのに、てくてく、全く気になりません、気にしていません、気にしていないということすら気にしていませんという顔。そのくせ、このまま二人がまっすぐ歩き続ければ確実にぶつかることになりそうなのに犬女は自分からは左にも右にも避けるつもりはなさそうで、元気に腕を振り、速度を落とすこともなく、上げることもなく、飽くまで自分の道を自分の速さで歩いています、てくてく、歯牙、歯牙、という顔で来る。
 容子は容子で大きな荷車を引いて歩いているので小回りが利きにくい。てぶらで身軽な方が進路を譲るべきだ、という思いもある。だからまっすぐ行く。ペースも落とさない。そっちが、避けなさいよ。と奥歯を噛みしめ、荷車の取っ手を握る手にも、ぎゅっと力を入れる。
 きこきこ、てくてく、きこきこ、てくてく、やがて、本当に正面衝突する、というすんでの所で、二人は歩みを止めた。
 ソーシャルディスタンスということも最近はだいぶ緩んできたようだが、それにしたってこんな至近距離で他人同士が相対するものだろうか? と、一方当事者でありながら容子は思った。奇しくも身長が完全に同じだった。しゃっくりしたり、ちょっとえずいたりすれば鼻先がくっつきそうな距離だ。けれども容子は引かない。ここでは目を逸らした方の負け。もともと落ちくぼんだ目を更に六ミリくぼませ、ちょっと下顎を突き出した。ごう、と全身に黒いオーラを纏った。が、犬女はあくまで歯牙、きょとんとした顔をしている。あるいは、こんな間近に敵意をむき出しにされながら、しょぼんとしたような、とろんとしたような、顔をしている。口はおちょぼ口で、二つの瞳は濡れて、澄んでいた。奥の先まで見通せば別の世界に通じるような、不思議な森の、妖精の泉、その水底のような瞳、それでもその焦点は容子の眉間に無遠慮に据えられ、逸らす気はなさそうである。何のオーラも纏わない。貴様如き、素面で、歯牙なのだと、言っている。・・・・・・ように、思われた。
 既に互いの呼気は互いの吸気となっている。
 仮に、
【匂いですべて、察知できる】
 という犬女にまつわる噂が本当であるとするならこの時点で既に犬女には分かっていたということになる。つまり、如何にガラクタを集めようと、如何に目をくぼませようと、黒いオーラを纏おうと、この人は、芯の部分でやさしい――と。そして一見汚れた服をまとっているようだが、この人、毎日石鹸で身体を洗っている――と。
 だから犬女の側では特に対抗の意図はない。すっと、目を逸らすと、左へ(容子から見ると右へ)一歩横移動した。
 勝った。
 と容子は思った。
 ――筈だ。
 確信が持てなかったのである。
 が、少なくとも形として押し通した、道を譲らせた、ということには違いなかった。——勝った! が、そんなことに拘っているということが、負けのような気もした。そもそも向こうには、戦う気がなかったのに、勝手に戦いを挑んで勝手に勝ったと思っている女、これほどの負け様もないような気もして来た。
 悔しい。
 と、歯噛みして、容子は無意識に後方を振り返ったのである。既に数十メートル先へ通り過ぎて行っているとばかり思った犬女の姿が間近にあった。犬女は、荷車のへりに左手を乗せて、右手でがさごそと荷台をあさっている。
 虚を突かれ、容子がちょっと何もできないでいると、そんなことにはお構いなしに犬女は荷台をあさり続け、やがて一つのカボチャを持ち上げたのである。それを、鼻先に近づけ、揺らし、目を閉じた。
 カボチャに、大したいわれはない。落ちていたので拾った、ただそれだけのもので、特に思い入れも、ない。が、
 やられている、
 と容子は感じた。なめられている、とも感じた。勝手に人の持ち物に手を触れ、持ち上げ、匂いを嗅ぐなんて、明らかに下に見られている。私が荷車の女だからとか、この女が犬女だからとか関係なく、これは、人と人の関係において、軽視されている。やられている。
 この時例えば、「勝手に触らないでよ」あるいは少し抽象的に行くなら「何のつもりよ」などの台詞が容子の脳裏をよぎった筈である。けれどもどれも弱い、荷車の女としてのブランディングの観点から言って、それでは弱い。ここは一つ、こっちからもかましてやるのが妥当、無二の対応、あれで行こう、と容子は思い至り、予てより小中学生相手を想定して千度は練習して来た台詞をここで試してみることにした。つまり、
「あんたもぶち込まれたいのかい?」
 が、容子がこれを言い切るのを待たずに、犬女は、
ぶち込まっていいの!?
 と目をいっぱいに見開いて、ほとんど叫ぶように返したのである。容子がこれに応える間もなく、更に犬女は、
やったぁ!
 と謎の快哉を叫び、驚くほど軽い身のこなしで跳躍、荷台のゴミとガラクタの上に飛び乗った。 
 自動詞――、
 他動詞――、反語表現とは――、自動詞――、という概念の欠片が容子の脳裏をすさまじい速度で旋回して遠心力のためにいつまでもまとまらない。それから、勝手に乗らないでよ、友達じゃないんだから、降りなさいよ、ぶち込まれたいのかって聞いたんだ、ぶち込まれたくはないだろうという意味で、などのきれぎれの言葉だけが浮かんでは消えていった。結局、何の言葉も発することはなかった。ちょこんと荷台にぶち込まりあぐらをかいた白装束の女の顔をただ、見つめた。その顔は子どものような笑顔で、何のてらいもなく、
いいよ? 行こう? ね? 行こう!
 裏も表もなく嬉しそうな顔だったから、なんだ、悪い癖、また考えすぎだった、いい子なのね、きっと。
「落ちないようにね。あと、その辺にムヒもタイガーバームもあるから」
 よく見ると犬女の顔、特にまぶた、首、それから手や、足首、いったいどこでどんな虫に刺されたらこんなになるのだろうというような、大層な腫れ方をしているのだった。しかし、犬女はこれに応えず、
ジプシーみたい!

 二〇二三年春のこととされている。このようにして犬女は荷台に乗り、以降、ペアでの目撃情報が急増するのは周知の通り。
 了

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