【小説】Lonely葉奈with学2

 あたしあれやりたい、と葉奈は虫除けスプレー、除菌スプレー、替えのマスク、日焼け止めクリーム、図書数冊、筆箱、ノート、たばこ、財布、携帯等の入ったリュックを学に持たせると腕立て伏せや腹筋をするための台、懸垂やぶらさがりのための鉄棒、踏み台昇降のための手すりと段、腰をひねるための回転椅子などの健康器具が並べられた一角の、背もたれの部分が巨大な分度器のような形状になったベンチに向かって小走りに走り行き、座り、分度器の弧の部分にもたれかかった。そうして背筋を添わせると弧に沿って猫背が海老反ってああぁぁぁのびるぅぅぅ、めぐるぅぅぅとの嬌声を上げた。完全遮光、顔の半分以上を覆う大きさの楕円の、真っ黒いサングラスをかけていた。口もとには不織布マスクを付けていた。五月の晴れた日だったから、サングラスについては大きなサングラスだなぁという印象くらいは持たれるのかも知れないがそれ以上には不自然ではなかったし、マスクについては感染予防で誰もが付けておりこれも何の不思議もなかった。全く何の違和感もなく顔を隠せている。という安心感が葉奈を大胆にさせたのでもあろう、まくれ上がったTシャツの裾から湿った生腹がのぞきよく生え揃った白銀のうぶ毛が初夏の旭日を照り返していた。学は、ああ、気持ちよさそうだなぁ、俺もやりたいなぁ、と思いながら自分の荷物と葉奈の荷物とを両手に持ってゆっくり近付いて行った。近付いて行くにつれ、一年余りに及んだ自粛生活に凝り固まった脊椎の中でくよくよと蟠っていた髄液達が葉奈の中で押し出されゆく音が学の耳にも聞こえて来ると、今日ここに来たことは正しかったとしみじみ感じた。それから側に立てられた札にこの器具の使い方の図解とともに名称が記されているのが目に入り、
「それ、何ていう名前か知ってる?」
「しらなぁぃ」
「背伸ばしベンチ・・・・・・二号だって」
「・・・・・・二号? じゃぁ一号もあるのかな?」
「うん、あっちにもあるね」
「気持ちいいよ。ふぬぬ!」
 と葉奈はもっと伸びようとしてしばらくの間、昨今の運動不足もあって少し質量の増えた胴をもちもちと動かしていたがやがて名も知れぬ渓流を産卵に上る両生類の仕方で身をよじらせて更に上の方上の方へと身体を預けに行こうとし始める。背中だけを弧にもたせかけるのではなく、頭から背、腰、尾骨のあたりまでを全体的に弧に預けてしまうつもりでもどかしそうにせり上がって行く、にじり上り行く。と、更にシャツがめくれ上がってジーンズが下着もろともにずり下がりそこに、必ずしもうぶ毛とは言い切れぬものがそよいだ。学自身は今さら腹の毛であろうともっと下の毛であろうとどうこう思うものではなかったが、早朝とはいえ既に星丘台地公園にはジョギング、犬の散歩、体操、テニスの壁打ち、各種楽器類の練習などをしにそれなりに大勢の区民が集っていた。区民らに対して申し訳ないというよりは自分以外の人間に葉奈のこのような態様を見せたくない、見られたくないという思いが強いのだったが天真爛漫なようでいて案外プライドの高い所があったり傷つきやすかったりする葉奈であるから例えば「おい、みっともないぞ」「だらしないぞ」などという注意の仕方をしてしまうとたちまち不機嫌になってしまうだろうことは簡単に予想ができた。葉奈は、基本的に明るくて恬淡としてかわいいが――正確にはそのようにあろうと努めているが――、もっと正確にはそのような人間として扱われることを望んでいるが――いったん恥をかかされたと思い込むと信仰をけなされた狂信者のごとく苛烈に怒り狂って理屈も何もない真っ暗な海の底から「あたしは侮辱され・ないがしろにされた、されるべきではなかった、なのにされた、されるべきでは――なかったのに!」というだけのことを繰り返し叫んで後は対話を拒絶して抗議の沈黙を貫くというような一面も持っている。できることなら、その一面を引き出してしまうことは避けたかった。もし葉奈が意図的に肌をさらしているのであれば話は別だが葉奈自身は腹がさらけてしまっていることにもましてや恥毛が顕わになってしまっていることにも気づいていないだけなのだから仮に過失ではあるとしても取り立てて批難し咎められるべき性質の間違いでもないであろう、できることなら何かの冗談に紛らせてこのような事態は収めてしまいたい・収めてしまうべきだと学は考えていた。だから二人分の荷物をそっと足下に置くと腕まくりをしてぱん、と一つその腹を打った。みぞおちに入らぬようには留意して、平手に打ったのである。
 痛ぃんですけどぉぉぉぉおと目論み通り葉奈は笑いそのからからと甲高く抜けていくような笑声(しょうせい。ラ・♯)につられたのと今度は機嫌を損ねずに済みそうだぞという気持ちが相まって学も一緒になって笑った。笑った。二人して。笑ったのは良いが笑っているだけで葉奈は起き上がろうとするでもなく分度器の上で――背伸ばしベンチ二号の上で未だ白い肉の弧であることをやめようとしない。相も変わらず五月の日と気流に二種の毛はさらされそよぎ踊っている。今、ぱん、と叩いた時のあのぱん、あれは確かに服の上から叩いたようなくぐもったぱん、ではなかった筈、双方汗ばんで濡れあった皮膚と皮膚とが直にぶつかりあった際のぱんであった筈、ぱん、をぱふん、とぴゃん、に細分するなら明らかにさっきのぱん、はぴゃんと水気を帯びたものだった筈、というより仮に音がどうあれ叩かれたのは葉奈自身の肉なのだからそもそもの皮膚感覚として衣服の上から叩かれたのでないことは葉奈にも識覚できた筈、であるにもかかわらず葉奈は「どうしてたたくのよぉぉぉ!」とのたくるばかりで起き上がらない。裾を直しもしない。それでますます衆目に耐えない様相を呈していくのを目の当たりにしていよいよ学は焦って来、もう一度今度は先ほどよりも強めに叩いた。それでも葉奈は「痛ぁい、痛ぃよぉ」といっそう高らかに叫喚して埒があかない。もうこうなってしまったからには明確に言語で事態を伝えるかあるいは学自身の手でシャツとジーンズとを直してやるかするという方法も脳裏をよぎったがそのいずれの方法を取ったとしても葉奈はその後圧倒的な不機嫌の水底に沈むだろうことが想像された。飽くまで冗談で叩かれていると思って叩かせていたのに実は冗談ではなく真面目な注意喚起として叩かれていたんだ真剣に恥ずかしい指摘をされていたのにあたしはバカみたいに笑っていたんだ・・・・・・でもそれならばもっとちゃんと分かりやすく言ってくれるべきではなかった乎そうでなければもっと早いうちにそっと裾を直してくれるべきではなかった乎ただでさえこんな公衆の目もある中で恥ずかしい格好になっている者を更にぱんぱん叩いて面白がるという法があるだろう乎云々という被害思考の海の底から「侮辱された!」と葉奈は絶叫するだろう。だから直接の言語で伝えることも無言で裾を直してやるということも学には選択できず、かと言って他にどのようなやり方も思いつかぬままただなんとか自分で気づいて欲しいという一心で打ち叩き続けた。 ぱん、ぱん、ぱん、
「ちょっと! アハハ! なんなのよぅ!」
 ぱん、ぱん、
「やめてぇぇぇえ!」
 ぱん、ぱん、ぱん、
「ねえ起こして。ぁはは。起こして」
 ぱん、ぴゃん、ぱん、
 こうなれば本人も起こして欲しいと言い出したのだから起こしてやれば済む話であるようにも見えたが懸念されるのは葉奈が起こして起こしてと言うだけで決して自分で起き上がろうとはしないことの趣意で、それはつまり起こしてと口では言いながら本当に起き上がりたいわけではなく今しばらくはこの束の間の戯れを続けたいということなのだと学は推察した。そしてここまで来るともう学の方でも純粋に楽しくなって来ていたというのも事実で今どき別に少しくらい腹やら何やらが見えたからと言って何であろうせっかく決意しての一年ぶりの二人での外出であるのに俺は何を下らないことに拘泥して縮んでいるのだ誰も見ていやしないさ葉奈が飽きて自分で起きてくるまでは叩き続ければいい叩き続けなければならない、と心を決めた矢先、
「ホんトに起こしテって言っテるんダっテばああぁぁぁっッっ!」
 と発狂したような金切り声が一帯にひびわれて土鳩とカラスらが何羽か飛び立った。人工の溜め池で魚が跳ねた。そこかしこで多種の飼い犬が吠えた。人びと は二人の方を見ていた。学も突然のことに驚いて葉奈の顔が見える方へ移動して、見ると、ほとんどの部分はサングラスとマスクとで覆われたその僅かながらの隙間に見て取れたのは、赤黒くパンパンにうっ血した球であり重力に引かれた髪の毛が垂れ下がり、これもサングラスに隠れて見えないがおそらくは目からなのであろう、涙が溢れ出て逆さまになっているから額の方に伝い落ちて行くその様は大きく実り過ぎた病気のくだものが鳥か獣を呼ぶために腐りかけた最後の果汁を垂れ流すようだった。学も、これはもう九分九厘ロマンスではなく本気で起こして欲しがっているのであろうとは思ったものの、念のための確認で、おそるおそる葉奈のサングラスを下に――というのはこの場合、額の方に――ずらしてみるとそこにはやはり逆さまだから直感的には読み取りづらいがどうやら憤激のようなものを悲哀のようなもので研ぎ澄ましたのであろうような透徹した瞳がふたつながらに泣き濡れて、見据え、「起こして」と今度は低く言った。

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