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青の剣の継承者#3

1

前回



 ――蛇岩の森の〈鬼火狼〉が、とうとうムルの谷に来たらしい。
 少年・リューリがその知らせを聞いたのはほんの昨晩のことで、つまり何もかも遅すぎた。

 その日、リューリは両親や兄たちのいるタタゴ村ではなく、西の隣村にいた。
 先週の大嵐で屋根が壊れた伯父の家を直すために、数日前からリューリはこちらに泊まり込み、他の親戚や村人たちと修繕作業を手伝っていた。

 太陽が山の後ろに隠れ、空が淡い紫に染まる時刻。
 昼間の力仕事で汗みずくになった体を川で洗い流し、リューリはさっぱりとした心地で道を下っていた。
 伯父の家はもうあらかた修繕が済み、いつ次の雨が降っても安心できるようになっていた。
 ここ数日、自分の力が頼りにされたこと、一人前の男手として扱われたことにリューリは満足していた。

 頭は悪いし気も短い、痩せっぽちのリューリは、兄たちや村の悪ガキ連中から始終からかわれる的だった。
 彼らを見返してやるために、三年前から村外れに住んでいる余所者に頼み込んで剣の稽古などつけてもらっているが、そこでも才能がないだの、心構えがなってないだのと言われ通しだ。
 あげく、あいつは嫁が貰えるのだろうか、もう十四にもなるというのに、剣など振り回して兵隊にでもなるつもりかと父母に案じられる始末。

 しかし今回の出来事では、手の空いていない兄たちの代わりにリューリが名乗り出て、立派に努めを果たした格好だ。
(何が、役立たずだ。お前が行ってもかえって邪魔にならないかねえ、だ。伯父さんはオレをちゃんと数に入れてくれた。役に立つためにオレも全力を出したし、だから修理も早く済んだんだ)
 彼は自分の名誉が多少なりとも回復されたように感じ、達成感に浸っていた。

 伯父の家は畑を挟んで川からも隣家からも少し距離がある。
 ひっそりとした小道を一人で歩くうち、夜の匂いがする冷たい風が吹き始めた。リューリは濡れた首を縮め、足を早めようとした。
 と、その時風に乗って何人かのヒソヒソ話す声が、どこかの薮の向こうから聞こえてきた。

「……それで俺は訊いたんだよ。そしたら、昼過ぎにはこっちに着くはずだった隊商がまだ来ない。奴にやられたに違いないって言うんだ」
「奴?」
「分かってるだろ。〈鬼火狼〉だよ……」

(あの声は、マカナさんか。今朝がた町に下りていったはずだけど、帰ってきたのか)
 話の中心にいる青年は、村長の次男坊だ。他にも数人の声が聞こえる。どうやら街道沿いの町で聞きつけた重大な話をこっそり仲間に教えているらしい。
 リューリは足を止め、耳を澄ませた。
 彼らはこちらの存在に気付かず、喋り続ける。恐怖と興奮を圧し殺した低い声は、かえってはっきりと聞き取ることができた。

「盗賊のせいじゃないのか。今の時期は多いだろう」
「ああ、俺だってそう思ったさ。けどな、もっとよく聞いてみると、どうも馬車が一台だけ町の近くで見つかったらしい。馬は擦り傷みたいな軽傷だけで、積み荷もそのままだった。それで、御者の死体が……」
「例の黒焦げか? それとも八つ裂きか」
「両方だ」

(死体? 八つ裂き?)
 現実味のない単語に、リューリは乾いた唾を飲み下した。
 〈鬼火狼〉の噂ならもちろん知っている。それが最初に現れたのは、先週、ちょうどあの大嵐の直後のことだ。
 場所はこの谷から北東、蛇岩の森の縁。ほんの十数軒の家が身を寄せ合っているだけの名もない集落。
 その住人が一夜にして全滅した。
 死体の殆どは焼け焦げ、あるいは鋭い爪か牙で引き裂かれたようだったという。
 近隣の村の何人かは、その夜、遠く野を走り去る一筋の青い光を目撃していた。周囲には、狼のものにやや似た歪な足跡が残されていた。

 〈マナの獣〉だ、と誰かが言った。
 魔法使いの数自体が少ない王国北部の田舎では、それは〈叫びの日〉以降の三年間でほんの数えるほど、ごく弱い個体が発生した例があるだけだった。
 皆が事態をよく飲み込めずにいるうちに、惨劇は二度、三度と更に続いた。
 恐るべき速度で村から村へと駆け、あるいは数日音沙汰が無くなったかと思うと、また思いがけない場所に死体と足跡を残す。
 まるで何かを探すようにジグザグに移動しながら、その災厄の化身は、このムルの谷へと確実に近づいていたのだ。

「街道は通行止めになった。止めなくたって誰も入りゃしないだろうがな」
「〈狩人〉は? とっくに来てるはずだろ」
「こないだやっとハリの町でそれらしい奴らを見たってのは聞いた。だが、どうも下っ端の〈猟犬〉らしい」
「その、近付いてるってのは東からだよな。こっちより、タタゴ村の連中のほうがまずいんじゃねえか」
「そうだな。あの村にはヒノオさんがいるが……」

(……!)
 自分の村の名と、馴染み深いその人名とが青年らの口から出た途端、リューリの心臓は突然早鐘のように鳴り始めた。
 ヒノオは、リューリの剣の師匠だ。
 他の村人はあまり近寄りたがらないが、リューリにとっては日頃嫌というほど顔を合わせている存在。
 恐ろしい危機が、話に聞くだけの遠い場所ではなく、己の日常を今にも引き裂かんとする位置まで迫っていることを、リューリはその時になってようやく理解したのだ。

「あの余所者か? 元傭兵だか知らねえが、魔法使いでもない奴がたった一人、しかも腕一本で何の役に立つんだ」
「冷静だし、知恵者なのは確かだ。意見を求めるべきじゃないか」
「どうだかな。ああ、分かってると思うが、くれぐれもお前らの口からは誰にも言うんじゃないぞ。この話はまだ親父にしか……」

 会話はまだ続いていたが、それ以上は耳に入ってこなかった。
 リューリはふらふらと歩き出し、やがてすぐに走り出した。
 タタゴ村に、家に帰らなくては。この危機を今すぐ伝えなくては。
 その一念が急速に膨らみ、今や頭の中のすべてを占めていた。

 伝えたところでどう危機を逃れるのか、そんな事は分からない。
 既に日は沈んでいる。山中や崖際の細道を暗い夜に駆ける危険さえ、頭に浮かばなかった。
 ただ、今すぐに走らなければ何もかもが手遅れになる。
 そんな根拠のない確信めいたものが喉を詰まらせ、犬のようにあえぎながらリューリは走り続けた。

 暗い藍色に覆われていく天の頂に、赤く輝く凶星が一つ、鈍く明滅していた。

(続く)

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