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雲蛛の家

「蜘蛛は益虫ですよ。殺してはなりませんよ」


古くから我が家にいるお手伝いさんの中年夫人はそういって、蜘蛛の巣を、今にもほうきの柄ではたこうとする、まだ年の若い入ったばかりのお手伝いの女性に、年季の入る声色を響かせて制止した。

着物に割烹着姿をしてバタバタと歩き回るお手伝いさん達の、生活感漂う光景。
僕はその光景を後ろからしみじみと黙って見ていた。

「掃除するところになんかいるもんじゃないよ」

「坊ちゃん」

僕とは違う”坊ちゃん”が奥座敷の向こう側から紐のれんをくぐり静かに現れ、お手伝いの女性達は一斉にそちらへ目を向けた。

「さあ部屋へ帰ろう」


僕とは違う坊ちゃんは、そう言ってその場から連れ去るように、僕を僕の部屋へと向かわせるため、肩を抱き引っ張っていってしまった。

昭和末日。

部屋の扉が閉まると僕は自分のベッドへと倒されるように寝かされる。

この体は病気に蝕まれ、日増し日増しにぐったりと弱っていく。

亡くなった母が一から全部を編み込めた、手編みのやや黄色かかった色のレースカーテンが窓枠の矩形 くけいに覆い被さる。
畳の上にへこみをつけて重々しく置かれた藤製ベッド。
ドライフラワー色のような、枯れたあでやか色の小さい花柄が無数に散りばめられた布団が、心地良い重みを もたらして、身体の上にはかけられている。
力無く自分の居場所へと還った僕。


「体を治すために」

と称して、この義理の兄弟は僕に色々していく。

いつ頃か、父親が我が家に連れてきたこの少年。自分と年近いこの少年は、父親が外で女性に産ませた子供だという。
僕と顔は似ていないし、雰囲気も全然違うが、今では自分がこの家の正式な後継ぎというようなご立派な表情を見せている。

少年はペーパーナイフのような、玉虫色の握り柄部分が光る、綺麗な細刃の小刀を持ち出し、自分の指を切り、血を果汁のようにしたたらせる。

キリのような血を吸った細い刃は捨て置かれ
枕に寝かされる僕の顔に手を持っていって
唇に血が滑るその指をスッポリと差し入れ割り込ませた。

「さあ飲んで」

血で病気が治るなんて聞いたこともないが、ここは密室だし、叫ぶ元気も嫌がる元気もなく、誰にも知られないままこの中で終わる話なので、僕は指をくわえ溢れる血の味を口の中で味わいながらゴクゴク飲み込んだ。

甘くて錆びた味がすぐ広がる。


少年は満足げに笑いながら自分の指を喉の奥にまで飲み込ませている。


指を抜くと、少年は着ているシャツを開き、下に履いている物をズリ下げると、自分の性の部分を僕の目の前に顕にする。

足を開きながらナイフを自分の下に持っていき、指で支えた長く項垂れた男性器を自ら傷つけ、刃先を引いて、音も立てず一線赤く切り裂いた。

血はたちまち幾つもの筋を引いて溢れ出す。


少年は平然とした顔で「この血も呑んで」と促す。


僕は少年の顔を怯えるように見上げながら恐れつつ、這って舌を赤い水分がしたたるそこへと持っていった。

少年から僕にされる摩訶不思議な悪戯は最初の数回だけですぐに止むかと思っていたが、日々過ぎようといつまで経っても終わろうとしない。

母を早くに亡くし、政治家の父は、ほとんど家になんか帰ることはない。

他人のお手伝いさんと、僕とは違う”坊ちゃん”と、僕だけしか、広大なこの家にはいなかった。


不思議だけど確かに少年の悪戯が終わると体が少し楽になったような感覚がする。


ある晩、原因不明の熱が出て、病気と関係あるのかないのかわからないが、うな され苦しんでいた僕の側に、少年が忍んできた。

家全体から寝息が漂う中を一人苦しんでいた所に、笠の無いシンプルなオイルランプを手に持ち足音を立てず忍び寄ってきた少年は

持ち手が耳のようについた美しい花瓶の載っている桐製のナイトテーブル、そのテーブルの隅に、ランプをゴトリと置くと

僕に体を楽にするキスと称して口づけをして来たのだが、花瓶の花影の向こうでの重なりの熱中にしばし気を取られていたら、もぞと口の中を何か蠢いている感触がする。

怪訝に口を離すと少年の口先からは粘液のぬるりと光る芋虫のような白い虫が飛び出ていて、思わずワッと驚いたのだが、カタツムリの触覚のような二つの目のついた虫は離そうとした僕の口に飛び込んでそのままシュルンと、喉の奥まで滑り込んで流れ下りてしまった。

「はぁ………はぁ………」

その光景を、お手伝いさんがひっそりと、鍵穴から見ていたらしい。それからの光景も。


翌晩。

居間あたりで大きな物音がしたので、熱が冷めた直後の覚束ない足取りで階下に降りてみると、少年が、普段は家にいない父親から、箒の柄で沢山殴られている所だった。

床に崩れる少年は何も反応せず、ただ黙って父親の鬼の形相をジロリと見据えるだけの顔をしていた。

背もたれ椅子から立ち上がった父親が腕を振り下ろす度、音が鼓膜をびしゃんと震わせ、頭上にあるシャンデリアが地震めいて揺れる。

僕は声をあげそうになったが相変わらず声は出てこない。暫くして父親の怒りの明暗が沈静に収縮し始め、暴力の手先が終わると、少年は一際酷く傷ついた右腕を左腕で抑えながら立ち上がり、焼けつくようなヒビ割れた笑い声を上げながら玄関口から家を出ていき

そのままいなくなった……。


もう一人の”坊ちゃん”が影も形もなくいなくなってから、家には急に思いもかけぬ不運がふって沢山沸いて訪れるようになり、父親の仕事は、頭を悩ませるトラブルに次から次へと見舞われ、ついには彼自身までが病に伏すようになった。

お手伝いさん達も、一人、また一人と、事情が出来て辞めていき、終いには古くからいる中年の女性ただ一人しかこの家に残っていない。

僕はといえば、次第にだが、体の調子は本来の調子を取り戻し、医者に見せてもお墨付きの奇跡の回復を遂げてしまう。


あのもう一人の坊ちゃんの正体は何だったのか……。

僕は今でも、街中で、右腕が思うように動かなそうな男の姿を見かけると、ついそちらに目をやってしまうのだが…………。

雲蛛の家 完

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