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真の盆踊りをさがして

8月が終わった。ひと段落した感のある今年に、遠くから聞こえてくる喧騒に気を取られたのは、わたしだけじゃないだろう。

事務所がある御徒町では、公園や小学校で盆踊りが開催され、大勢の人々でにぎわっていた。櫓が紅白に組み上げられ、四方から提灯が吊されて、その周りを人々が踊っている。

わたしが育った横浜の新興住宅街の公園にも、同じ風景があった。約40年前のことだ。

当時も「炭坑節」や「ドラえもん音頭」といった楽曲で、人々は輪になって踊っていた。振り付けはさっぱり覚えていないが、櫓で踊る人がお手本になって、見よう見まねで参加できる仕組みは当時のまま。

ここに告白しよう。

小さい頃のわたしは、あの盆踊りに盛大な勘違いをしていた。あれは「仮の盆踊り」で、どこかに真の盆踊りが存在しているのだと。

いつか来るその日のために

真の盆踊りは、全国にあまたある「仮の盆踊り」の上位に君臨する。この世界には、どこかに「炭坑節」や「ドラえもん音頭」で大ヒットを飛ばしたバンドがいて、真の盆踊りでは彼らの生演奏で踊ることができる。

彼らは全国の盆踊りにひくてあまただから、わたしが住んでいる地区の小さな公園に来るわけは無いし、参加者が数十人しかいないちっぽけな盆踊りに彼らを招くお金もない。

しかし、真の盆踊りを呼ぶ裏技がある。

参加者が全ての曲の踊りを完璧に覚えると、バンドのほうから「いっしょにやろうぜ」とやってきてくれるのだ。櫓の中で踊っているお手本の踊り手は去り、そこにバンドが立つ。バンドは大ヒットの一曲だけ演奏して、参加者は完璧な踊りを披露する責を果たす。

だからわたしたちは、いつかくる最高のセッションのために、いまはカセットテープで再生した曲で踊る。拡声器から流れるノイジーな音質で我慢して、公園で稽古を重ねているのだ。

1980年代初頭カルチャーからみる勘違いの原因

踊りは生産であり、生産は世界を変える。幼くしてマルクスの唯物史観を会得していたようなこの盛大な勘違いは、いったいどこから芽生えたのだろうか。

インターネットがない時代に、情報がやってくるのはもっぱらテレビだった。どこかのお盆の風景として、櫓にかまえたお囃子で嬉々として踊る人々を、テレビのニュースで見たのかもしれない。

いや、毎週土曜日の8時にテレビの前に集合して、エンヤーコラヤ、ドッコイヤーラコーラヤ(*1) と踊るドリフターズに、真の踊りにはバックバンドの伴奏があるものだと自らに刷り込んでしまったのかもしれない。真の踊り?

むしろ環境的特性なのかもしれない。当時ブームだったガンプラの、クラス一番の人気はザクだった。ザクには普通のザクとシャアザクがあり、いくら外見が同じでも量産されたザクは性能が劣る。

わたしたち新興住宅街育ちは、ザクに自らを重ねて自虐を患っていた。整理された区画に建つ家から同じ学校に通い、同じ銀行の口座を持ち、同じヨーカドーから牛乳を買う。踊りという奉仕の見返りに、赤いザクに乗って遠くへ行きたい。

ザクとシャアザク
機動戦士ガンダム公式web

「仮の盆踊り」の真の姿

ある日、少年は「クックロビン音頭」を見ながらふっと真の盆踊りの在処を母親に聞いて、そんなバンドは存在しないと知る。そして、それまで「仮の盆踊り」と呼んでいたあれが本当の姿なのだと。

皆さんは「仮の盆踊り」の本当の姿をご存知だろうか。

音源を再生して櫓を中心に踊る盆踊りは、昭和初期に企業努力によって造られた、レコードの販促イベントである。そのレコードとは、いまでも使われている「東京音頭」。櫓の踊り手からお手本を真似るという様式も、楽曲と踊りのセットで憶えてもらうための当時の施策として、そのまま現代に伝わっている。

いわゆる土用の丑の日やバレンタインデー、ジューンブライドのような、謂れははっきりしないけど、はじまりはどうやら企業案件で、触れ込みがいつのまにか人々の習慣になってしまった類のひとつなのだ、ヨイヨイヨイ。

農村のたしなみから都市フェスへ

ここで、江戸末期から昭和中期あたりまでの、盆踊りの100年を振り返ってみる。

江戸時代の盆踊りは、農村のたしなみだった。年に一度開催されるお楽しみの日で、男女は出会いそして一夜の契りを営んだ。盆踊りの数ヶ月後には、あちこちで子供ができたとの噂でもちきりだったらしい。

しかし明治時代にはいり、盆踊りの開催は国策によって禁止になる。西欧化を目指す政府により、性行為のきっかけである盆踊りは卑俗なものとされてしまう。

それから40〜50年が経ち、明治時代終わりから大正時代はじめに、日本文化の見直しがゆっくりと計られる。盆踊りもその一つとして再び日の目を浴びるが、失われたものも多かった。

そして昭和のはじめに、東京に盆踊りが登場する。それまで農村文化だった盆踊りは、資本の投入によって、プロフェッショナルが創りあげる集客イベントに進化する。フェス化による都市の盆踊りの出現である。

踊って「さあ一枚いかがですか」

時は1932年(昭和7)、東京千代田区の日比谷公園で「丸の内盆踊り」が開催される。主催は丸の内界隈の飲食店組合。この時の目玉として、歌手の藤本二三吉が歌う音源「丸の内音頭」が披露される。浴衣を白木屋(現東急百貨店)がデザインして販売し、日本舞踊家の花柳寿美が振付を考案。浴衣を着た参加者は、櫓にいる踊り手を真似て、レコード音源で踊った。

いまも全国に伝わる盆踊り様式が、ここで初めて登場する。これが大変な人出だったらしい。

それに眼をつけたのが、レコード会社のビクターだった。彼らは、丸の内飲食店組合から依頼を受けて「丸の内音頭」を制作したのだが、盆踊りイベントの盛況をみて「丸の内音頭」の歌詞を変えた「東京音頭」を制作、翌年1933年(昭和8)に発売する。

「丸の内音頭」の人気を感じたビクターは、それを全国的に流行させるため、昭和8年7月「東京音頭」と改題して発売する。
依頼盤の「丸の内音頭」は販売数が少なく、詞の内容も「丸の内」界隈に限られていた。それに対して企画盤の「東京音頭」は、全国のレコード店で販売され、詞の内容は東京の繁華街を描写したものとなった。

東京音頭の創出と影響(1990)刑部芳則
商学研究 第31号日本大学商学部商学研究所

前年に、近隣を併合して500万人の大都市になった大東京市へのあこがれもあったのだろう。歌謡曲ではなく踊りのための音楽という触れ込みで、「東京音頭」は楽曲と踊りをセットにしたマーケティングを全国に展開し、社会現象になっていく。各地のレコード店もかなりの力の入れようだったらしい。

「東京音頭」は東京に限らず全国的に大ヒットとなるが、その背景にはビクターの宣伝運動も少なくなかった。ビクター営業部員柳沢俊夫によれば、各地の盆踊りに電気蓄音機を持って出張し、櫓の上で踊り方を指導したという。また全国のレコード店でも踊っては「さあ、一枚いかがですか」と手売りを行ったという経験を語っている。

東京音頭の創出と影響(1990)刑部芳則
商学研究 第31号日本大学商学部商学研究所

そして盆踊りイベントとしても、「東京音頭」の櫓は全国へ広がっていく。

同年(1933年)夏は別府でも踊られ、房州勝浦方面では古い盆踊がこれに圧倒されて没落状態になつた。今まで盆踊の存在しかなかつた土地も、忽ち東京音頭で踊の我が立つた。レコードがあるから便利なのだ。
この流行は昭和9年、10年となるに従いますます盛んになり、昭和10年には横浜の公園で毎夜の盆踊に小学生500人が参加していることが発見され、市では彼らの参加を禁じた。東京市内では10月を過ぎてもどこかの広場にはレコードを載せた櫓がすえられ、夜遅くまで踊り続けられた。

郷土舞踊と盆踊(1941)小寺融吉
国立国会図書館デジタルコレクション

時を同じくして、日本は軍国主義を強くしていく。満州事変(1931年)そして日中戦争(1937年)へと国威発揚が求められるなか、盆踊りで使われる音源にも、皇国精神が織り交ぜられた音頭が数多く作られて、大衆へのプロパガンダとして盆踊りは機能していく。

世界は第二次世界対戦に入り、戦火が国内に広がるにつれて盆踊りの多くが中断。そして1945年(昭和20)に日本は終戦をむかえる。音玉放送があった8月15日の夜には、盆踊りがひらかれた地域もあったらしい。

岐阜の郡上おどりの場合、公式な記録上では音曲放送が流れた1945年8月15日は踊りが休止されたと記載されている。ただし、岐阜新聞の記事「終戦の夜、郡上おどり決行 心つなぐ輪市民に勇気」によると、終戦の夜も住民たちは自然と集まり、深夜まで踊り明かしたという。

盆踊りの戦後史ー「ふるさと」の喪失と創造(2020)大岩始
筑摩選書

数多ある民族文化のなかで、これほど紆余曲折の憂き目をかいくぐってきた民俗文化はないと思う。渇望されて卑下されて都合よく利用されても、盆踊りはしぶとい。盆踊りは愛されている。

戦後から現代までの盆踊りの潮流は、盆踊りの戦後史―「ふるさと」の喪失と創造(2020)大石始 に詳しい。特に1990年代以降から東日本大震災そしてコロナ直前までの、最近の盆踊りの潮流が調べられているのが素晴らしい。わたしも筆者と同じ団塊ジュニア世代であり、うなずくことひとしきりだった。

儀式なのか、発散なのか

盆踊りはややこしい。それは、8月のこの時期に日本各地の時節の習わしを、どれもこれも「盆踊り」という名称でひとくくりにしてしまっているところにある。

言葉は、時間も空間も平気で超えてくる。いくら庶民のお祭りとはいえ、数日間に120万人が訪れるという徳島阿波おどりも、わが事務所のある山手線御徒町駅前広場の下町上野ふるさと盆踊りも、どちらも盆踊りと呼ばれているが、開催規模から考えると、同列に語るのは厳しいように思える。

阿波おどり 南内町演舞場(2023)
徳島市阿波おどり【公式】Instagram
第5回下町上野ふるさと盆踊り大会(2020)
株式会社大丸松坂屋百貨店 PR TIMES

さらにやっかいなのは、盆踊りの二面性だ。

ご先祖さまを迎えて送り出すといった精神的な敬虔さと、音楽にあわせて身体を動かして発汗する肉体的な享楽の、相反する体験はなぜ共存しているのか。儀式なのか、それとも発散なのか。両者から得られる体感は別物だ。

とはいえ、精神にも肉体にも作用しようとする盆踊りの二面性は、もっともなのかもしれない。

われわれ人類は、ホンネとタテマエの両翼を重んじることで、社会を守り世界を前に進めてきた。江戸時代の盆踊りは男女の出会いの機会だったが、発散の最たる「まぐわい」のケガれを覆うために「ご先祖さま」というタテマエが必要だったとは、雑な勘ぐりだろうか。

また、ご先祖さま側から妄想してみると、お盆にこの世に戻りたくなる気持ちもわかる気がする。わたしのご先祖さまは、ひと夏のお盆の出逢いから家庭を築いたのかもしれないし、だからいまここにわたしが生きているのかもしれない。孫たちの顔を見にお盆に現世へ帰ってくる、郷愁あふれるご先祖さまがいてもおかしくない、いや可笑しい。

また、畏まったなにかを趣で包み込む洒落っ気は、宗教感の希薄な日本人らしい指向にも思える。

平安時代に、小難しい念仏を歌と踊りに仕立てて浄土の教えをひろめた、天台宗の空也上人。鎌倉時代に作られた彼の像は、口から仏像を出している。あの理由は不明とのことだが、念仏のややこしさを楽しさに変換した空也上人のお茶目さを偲んだ、仏師の心意気ですよね。

空也上人像(13世紀)康勝
東京国立博物館ウェブサイト

今年夏に発売された丸亀製麺の「シェイクうどん」のCMでは、盆踊り風のセットで米米CLUBの石井竜也扮するDJが曲をかけている。企業の営利活動に盆踊りを使うとは何事だ、なんてたぶん誰も言わないだろう。


サマーシェイクうどん(2023)
株式会社丸亀製麺 PR TIMESS

今夏には、日比谷公園で4年ぶりとなる「丸の内音頭盆踊り大会」が開催された。見どころ、というか踊りどころの「スターウォーズ盆踊り」では、ダース・ベイダーのテーマに盆踊りの振付があったらしい。個人的には、ライトセーバーで闘いながらペアを変えていく、誰かとウォーズする振付が似合うと思います。

あれもこれも「盆踊り」と言われても、まあそんなものだよねと思う。盆踊りという民俗文化は、世を気楽に過ごすための安息を担いながら、これからも形を変えて続けられていくのだろう。

盆踊りに「日本らしさ」は宿っているのか

わたしはアートプロジェクトの立案や文化政策に関わることがある。その席で、結構な頻度で出てくるキーワードが「盆踊り」だ。

誰もが楽しめるイベントだから、日本の古き良き文化である盆踊りをテーマにしましょう、みんな盆踊りが好きでしょう。そんな文脈を、ある程度の肩書を持つ年配の方々が、庶民代表たる顔をして得々と説く。

日本の古き良きって、なんなのですかと聞くと、和を持って貴しとする(*2)、仲よきことは美しき哉、らしい。誰もが参加できる平等性や誰もが知っている大衆性、そしてひとつの輪になって同じ動きをする様式に「日本らしさ」があるのだと、赤子を諭すように言われたこともある。

古き良きというのであれば、侘び寂び幽玄といった日本に古来からある美的感覚から語ってみろと思うのは野暮だろうか。戦後の復興から高度成長期に育った世代の「わたしの人生」の哀愁の象徴に「仮の盆踊り」があるのだろう、それが彼らのアートなのだと、冷やかな耳で聞いていた。

ところがいつからか、盆踊りに日本人の本質が宿っているように、世代を超えて聞こえてくるようになった。

震災や災害の不安を、歌って踊って鬱憤を晴らす。それは、生きる悦びを他人へ表することで、社会との結託を再確認するための根源的な営為だ。40年いやそれ以前から、音源で踊る「仮の盆踊り」はあの様式で繰り返されているのだから、日本人の本質が帰納的に宿っているのかもしれない。

ただ、はじめから本質があるがごとく、様式を「日本らしい文化」といった聞こえのいいゴロニャン言葉で括ろうとする人の言うことは、わたしは真面目に聞かないようにしている。

だいたいの事物と同じく、文化も誰かによって整えられて、いまに流れてきているものだ。いつも下流にいるわたしたちは、上流になにがあるか知らないし、知らなくても生きている。忘れてはならないのは、水が流れて河になったという因果である。河だから水が流れているのではない。

(*1) 本当の歌詞は「エンヤーコーラヤ、ドッコイジャンジャンコーラヤ」らしいが、エンヤーコラヤ、ドッコイヤラコーラヤと記憶してしまったら、それがわたしの正解である。

(*2) 聖徳太子が策定した「和を持って貴しとする」は、まずは話し合いましょう、である。仲良くしようとは、微妙にニュアンスが違うが、このような席上で出てくる使用意図をここでは尊重している。

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