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3賛七描史(日本の政治)~30年ずつ区切って、賛否両論ある人物七人を描写する歴史~

はじめに

30年ごとに区切って、歴史を概観しようと思う。コンセプトは「賛否両論ある人物七人を描写する歴史」である。

30年間の膨大な歴史事象をたった1人の人物に投影させ、短い文章で大胆に斬り落とすので、「こぼれ落ちるものが多すぎる」「無理がある」記事であることは、もとより自覚している。しかし、あえてトリミングして単純化して、30年という長い年月を概観することで、逆に見えてくるものもある。読者各位には、ぜひこぼれ落ちたものを、自分なりの考えと史観によって補完して頂ければ幸いである。

さて、まずはどのように分けるかを提示する。30年ずつだから、こうだ。

①1841年~1870年
②1871年~1900年
③1901年~1930年
④1931年~1960年
⑤1961年~1990年
⑥1991年~2020年(現代史)
⑦2021年~2050年(未来予想史)

いわゆる「近現代史」の範囲であるが、⑦は「未来予想史」となる。⑥の中の2020年は、この記事を書いている年なので、まだ「歴史」とは言えないが、ここ最近の30年を歴史的な視点で概観してみるのは、そう悪いことではないと思う。

世界全部のことを書こうとすると、いくら書いても終わらなくなるので、この記事では、「日本」「政治」の歴史を対象としたい。

「賛否両論ある人物」は、日本で活躍した政治家、1人に絞る。以下の通りである(本記事の中では、すべて敬称略)。

①1841年~1870年:徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
②1871年~1900年:伊藤博文(いとうひろぶみ)
③1901年~1930年:犬養毅(いぬかいつよし)
④1931年~1960年:岸信介(きしのぶすけ)
⑤1961年~1990年:田中角栄(たなかかくえい)
⑥1991年~2020年:小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
⑦2021年~2050年:???

例えば②は「福沢諭吉」が良いとか、⑥は「堀江貴文」が良いとか、他の人物から書く切り口も考えられるのだが、その30年を象徴する(と思われる)「政治家」をあえて独断で選んでみた。「賛否両論がある人物」という前提で選んだので、いずれもクセがとても強く、それでいて時代を体現し、歴史を主体的に動かしてきた、少なくとも動かそうとしてきた人物だ。

さて、前置きはこのくらいにして、本編に進もう。

1、ケイキ様と豚一殿:1841年~1870年

まず、この30年を、一文で集約してみたい。

1841年~1870年
『幕末と維新』:江戸幕府から明治新政府に政治の実権が移った時代

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、この30年を通して「期待され続けてきた」人物だった。1837年に生まれた。水戸藩主、徳川斉昭の子として。子どもの頃から、父親に特に目をかけられて、将軍候補として育てられたというから、よほどの才能があったのだろう。

この当時の日本は、まさに内憂外患であった。

幕府の役人であった大塩平八郎の乱(1837年)は起きるわ、アヘン戦争で中国が負けるわ(1840~1842年)、挙句の果てにはペリーが黒船によって来航してきた(1853年)。国内では「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れた。幕府の大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が、かなり強引に開国を決めて、不平等な内容の条約を結び、さらには安政の大獄なども行ったため、幕府への風当たりはますます強くなった。1860年、桜田門外の変において、この井伊直弼が殺される。今で言えば、総理大臣が暗殺されるようなものだ。まさに幕末の風雲、というか、乱世である。このような中で、英明をうたわれた徳川慶喜の登板を、世の中は期待し続けていた。

井伊直弼が殺された後で、徳川慶喜は「将軍後見職」という職に就き、ついに政治の表舞台に出ることができた(1862年)。それまでにも将軍に推そうという話もあったが、失敗に終わっていたのである。紆余曲折を経て、15代目の「最後の将軍」に就任したのは、1866年のことだ。ところがその翌年、1867年には、有名な「大政奉還」を行うことになる。政治のトップである将軍になっておきながら、政治をする権限を朝廷に返す、という離れ業をやってのけるのである。

政治をする権限を朝廷に返す。

彼としては、渾身の一策であっただろう。政治などほとんどしたことがない朝廷、文句ばかり言っている朝廷が、この乱世を乗り切れるわけがない。徳川家、つまり自分を頼ってくるしかない。そうなったら西欧流のトップとして、新しい政治の仕組みを作って、存分に歴史を動かしてやる、といったところか。ところが相手もさるものだ、「王政復古の大号令」という見事なカウンターを決めて、彼の鼻をへし折った。「辞官納地」、つまり役職を辞めて土地を朝廷に返上しろ、と逆に迫られてしまったのである。幕府軍と朝廷軍(薩摩藩と長州藩中心)との間に、「鳥羽伏見の戦い」が起こった。幕府軍は負けた。賊軍・朝敵のレッテルを貼られて。

ここで、彼は、後に最も賛否両論が分かれる選択をした。朝廷、つまり新政府軍に逆らわず、徹底恭順の意を示したのである。

旧幕府側も一枚岩ではない。彰義隊、会津藩、蝦夷共和国、有名どころでは新選組副長の土方歳三など、新政府軍に抵抗する人たちも多かった。いずれも失敗して、滅亡するか、降伏した。トップであった元将軍が恭順しているのだから、無理もないだろう。いわゆる戊辰戦争(1868~1869年)が、こんなにも早く終わるとは、新政府にとってみても想定外だった。

彼は、逆らわなかった。戦わなかった。抵抗した旧幕府の人たちから見れば、とんでもない臆病者、変節漢、不義理の塊である。将軍様、旧主君とはいえ、彼に対しては複雑な思いを抱いたに違いない。

政治の表舞台における彼の人生は、終わった。しかし、彼は生きた。

趣味の写真などを取りながら、生き続けた。死去するのは、何と1913年のことである。大正時代。享年77歳。その間に、明治政府に反抗しようとか、幕府を再興しようとか、そういう事実は(表立っては)無かった、と言われている。

1908年(明治41年)には、明治天皇から「大政奉還の功」によって、勲章をもらった。大貴族にもしてもらった。「戦わなかったこと」によって、国力を減らすことなく明治新時代を迎えられたのは彼のおかげだ、というのがその理由である。大政奉還から、約30年後のことであった。

徳川慶喜。この名前を初見で「よしのぶ」と読める人は少ないだろう。だからでもあるのか、(とても長い)余生を送った静岡では、「ケイキ様」と呼ばれて親しまれたという。一方で彼には、「豚一殿」という異名もある。豚肉が好きで、幕末当時では珍しい肉食をするものだから、このように呼ばれた。むろん、この場合では「ちょっと変わっている人」というあざけりの意味合いがある。しかし、明治時代に入ると文明開化の影響で「牛鍋屋」が繁盛し、現代の日本では「豚丼」や「とんかつ」が普通に食べられていることを考えると、彼は恐ろしいほど時代を先取りしていたようにも思える。

彼は、期待され続けた。その上で、負けた。しかしその負けたあとの徹底した恭順によって、賛否両論はありつつも、歴史を動かしたと言える。

復習:《1841~1870年の略年表》
『幕末と維新』:江戸幕府から明治新政府に政治の実権が移った時代
◆(1837年)大塩平八郎の乱
◆(1840年~)アヘン戦争
◆1853年 ペリー来航
◆1854年 日米和親条約
◆1858年 日米修好通商条約
◆1860年 桜田門外の変
◆1862年 徳川慶喜 将軍後見職に就任
◆1866年 徳川慶喜 15代将軍に就任
◆1867年 大政奉還
◆1868年~ 戊辰戦争

2:箒をはくビスマルク:1871年~1900年

次の30年を、一文であらわすと、次のようになる。

1871年~1900年
『近代と憲法』:明治新政府が欧米諸国を手本に近代化を進めた時代

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣として知られている。近代化を進めた政治家と言えば、真っ先に彼の名前が挙がっても良いだろう。ところが、彼もまた賛否両論の激しい人物である。

「否」のほうから先に言えば、やはり1910年の「韓国統合」までの流れの、象徴的な人物というイメージがある。1905年に、彼は韓国統監府という組織の初代統監に就任した。そのため日本版の帝国主義の象徴として、特に朝鮮半島に住む人たちからの評判はすこぶる悪いのである。彼自身は前年の1909年に暗殺されているが、暗殺者のほうが「国民的英雄」「義士」としてたたえられている。

とはいえ、「賛」の功績もまた否定できない。1871年から1900年までの30年間、彼は日本の政治の中心にあり、日本の近代化のために力を尽くしてきた。ここでは、この30年を、彼の政治的な人生を中心に据えて見てみたい。

1841年に長州藩(現在の山口県)に生まれた彼は、いわゆる「明治維新」のための志士として奔走した。有名な吉田松陰の「松下村塾」に入り、幕府を倒すために力を注いだ。桂小五郎(木戸孝允)や、高杉晋作といった、維新の英雄たちとともに行動した。「俊輔(伊藤)には、周旋(政治)の才がある」と、吉田松陰は評価したという。軍事や謀略などよりも、彼は人と人とをつないで、物事をまとめて進めることに力を発揮した。

1871年、廃藩置県の年。彼は「岩倉使節団」の一員として、欧米に旅立った。近代化を進めるために、すでに近代化を済ませている欧米諸国を見て回ることは、明治の新政府にとって、必要不可欠だった。

しかし実は、彼にとってはこれが初めての海外渡航ではない。維新前の1863年に、密かにイギリスに留学していたのである。彼と4人の仲間は、合わせて「長州ファイブ」などと呼ばれていた。「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れる中、彼はすでに欧米の近代文明をその目で見ていたのである。その上で岩倉使節団の副使として、彼は再度、欧米諸国を目の当たりにした。人間だれしも、1回目は情熱的なお試しで、2回目からは冷静に客観的に見ることができる。この「留学経験の豊富さ」が、欧米を手本にして近代化を進める明治新政府にとって、出世へのパスポートであったことは容易に想像できる。

使節団の帰国後、1877年に西南戦争が起きる。一言で言えば、西郷隆盛と大久保利通の国家観の違いによる、旧薩摩藩の重鎮同士の同士討ちである。彼はこの流れの中で、大久保利通と親しくなった。西南戦争後に大久保が暗殺された後は、後を継いで内務卿に就任する。自由民権運動の高まりの中で、1881年(明治14年)に急進的な大隈重信を下野させつつ、10年後の国会開設を約束し、ますます明治政府の政治の中心人物となっていった。

1882年、彼は自身三度目のヨーロッパ留学に出発した。目的は「憲法の調査」。主な訪問先は、当時強国としてぐんぐん国力を伸ばしていた、プロイセン(ドイツ)である。ここで学んだことを活かして、彼は1885年に「内閣制度」を作った。その際に、他の政治家たちはトップの人事に注目した。さて、誰が初代内閣総理大臣に就任するのだろうか?

有力な候補は2人いた。1人はもちろん伊藤博文、もう1人は公家の三条実美(さんじょうさねとみ)である。この2人、対照的すぎる2人だ。伊藤博文は、長州藩の貧乏な家の出であった。一方、三条実美は、貴族の中の貴族で名門の出身。伊藤は政治の能力は申し分ないとしても、元の身分があまりにも低い。いくら「四民平等」と言っても、そんな人を政治のリーダーにしてよいものか。まとまるのか。ましてや、天皇を中心とした朝廷が上に立つ明治政府である。結局は、三条が上に立つのではないか…。

そんな空気を打ち破った男がいる。彼の盟友、井上馨(いのうえかおる)である。「長州ファイブ」の1人。古くからの同志だ。

「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」

これで決まった。近代化には、外国からの情報をつかんで、咀嚼して、うまく取りこむことが不可欠である。正論だった。3度もの留学経験のある伊藤博文が、初代内閣総理大臣に就任した。以後、4回も総理大臣に就任した。

結果的に、この「内閣制度」が、近代の政治の原点の1つと言っても良いと思う。江戸幕府の頃は、大老や老中はいたにしても、政治のトップは何と言っても将軍であった。明治新政府ができた頃は、大久保利通などの力のある政治家が主導して政治を行っていた。それに対して内閣制度においては、それぞれのジャンルで専門家の大臣を置き、役割分担をして政治を行う。しかも新しい総理大臣が組閣すれば、(基本的には)平和のうちに交代していく。1人、もしくは少数が政治を行う仕組みから、集団で専門的に政治を行う仕組みへの改善。もちろん天皇が上にいて、軍隊や議会も力を持っていたけれども、複雑になっていく近代の政治状況に対応していくために、この内閣制度は必要不可欠だった。

彼はその後、憲法制定に着手する。1889年には「大日本帝国憲法」が発布され、1890年には第1回帝国議会が開催された。「イチハヤク作る帝国憲法」という覚え方とともに、この比較的早い段階でアジアにおいて近代憲法を備えられたのは、彼の功績が大である。その5年後、1894年には日清戦争が起こる。彼はその時、2度目の内閣総理大臣を務めていた。1895年には、下関条約に調印。そのあとの、三国干渉・日露戦争の流れの中でも、彼は常に政治の中心にいた。1900年には政党の立憲政友会を結成して、初代総裁を務めている。議会を中心とした、新しい政治の形も、ゆっくりだが徐々に軌道に乗せていった。

このような政治上の功績から、彼は「日本のビスマルク」と呼ばれた。ビスマルク。プロイセンの宰相で「鉄血宰相」とも呼ばれた、不撓不屈の政治家。彼自身も、ビスマルクになぞらえて呼ばれることに、誇りを持っていたであろう。

ところが一方で、彼には「箒(ほうき)」という異名もあった。「掃いて捨てるほどいる」という意味である。何が? …女性である。彼は、とほうもない数の女性を愛した。現代であれば、真っ先に「文春砲」に撃たれて政治的生命が終わっていたであろう。女性スキャンダルの宝庫、叩けばホコリがばんばん出る。しかしそんな彼にもポリシー?があって、「その地方で一番の芸者には手は出さない」ことを心掛けていたそうだ。一番の美人には、その地方の政治家がバックについていることが多い。手を出せば、彼らを敵に回す。だからこそ、二番手・三番手の芸人を相手に遊んでいたそうである。

政治の達人、第一人者でありながら、人の心理を深くとらえて、二番手・三番手の人にスポットを当てて深く愛でる。政治の力は「数」である、とする民主政治の力学にも通底する。

伊藤博文は、賛否両論が激しく巻き起こる政治の世界で、うまく物事をまとめ、うまく箒できれいに掃き清め、環境を整えて「周旋」する人であったように思われる。

復習:《1871~1900年の略年表》
『近代と憲法』:明治新政府が欧米諸国を手本に近代化を進めた時代
◆1871年 廃藩置県・岩倉使節団出発
◆1877年 西南戦争
◆1881年 明治14年の政変
◆1885年 伊藤博文 初代内閣総理大臣に就任
◆1889年 大日本帝国憲法発布
◆1890年 第1回帝国議会開催
◆1894年~ 日清戦争
◆1895年 下関条約
◆1900年 立憲政友会結成
◆(1904年~) 日露戦争
◆(1909年)伊藤博文 暗殺
◆(1910年)韓国併合

3、神様は毒舌家:1901年~1930年

1901年から1930年の30年は、幕末や明治維新、近代化といったこれまでの30年に比べると、多少マイナーなのかもしれない。いわゆる「大正デモクラシー」のあたりである。

1901年~1930年
『政党と議会』:政党による政治が普及し、議会政治が進展した時代

今回取り上げる犬養毅(いぬかいつよし)も、徳川慶喜・伊藤博文に比べると、マイナーではないだろうか。最後の将軍、初代内閣総理大臣といった、きらびやかな肩書はない。しかしそれでも彼が有名なのは、1932年の「五・一五事件」によって暗殺された総理大臣だからだ。

「話せばわかる」「問答無用」。審議はともかく、議会政治の申し子のような彼が、有無を言わせぬ暴力の軍隊に殺された! 以後、議会は徐々に力を失い、軍部が台頭した…。という一点だけで片づけるには、いささか乱暴な歴史の見方ではないだろうか。そもそも、犬養毅は議会でどのように活躍してきたのだろうか? 死んだ場面だけがスポットを浴びがちで、それまでの30年はなかなか取り上げられない。

犬養毅は岡山県の出身である。1855年の生まれだから、ペリー来航の2年ほど後に生まれた。20歳の頃に福沢諭吉の慶應義塾に入学。その後、新聞記者となり、西南戦争の従軍記事で名を上げた。1882年には大隈重信のつくった立憲改進党に入党。35歳の頃、1890年の第1回衆議院議員選挙で初当選した。私学の二大巨頭である、慶應の福沢、早稲田の大隈、両方に縁があり、しかも新聞記者であった。当然ながら、当時の政治に対して、批判的な眼をたっぷり持っていた。

彼は「憲政の神様」という呼び名でも知られている。42年間で18回連続当選。同じく「憲政の神様」と言われた、尾崎行雄の記録に次ぐ大記録である。しかし、ともすればこの呼び名が独り歩きして、「ああ、議会で大活躍した人だね」という断片的な理解に終わりがちだ。ならば、と考えたい。なぜ神様とまで呼ばれた人が、死んだところだけ有名になるのか?

それは当時がまだ、議会で大活躍する=政治の実権を握れる、という時代ではなかったからである。現在の政治状況とは、全く違う。そもそも、選挙権自体が、一定の税金を納めることのできる富裕層の男性だけに限られる制限選挙制度であった。普通選挙ではなかった。

いわゆる「政党政治」「議会政治」は、まだ確立されていなかった。「藩閥政治」と呼ばれる、長州藩や薩摩藩などの明治維新に功績のあった藩の出身者たちが、政治の世界で幅を利かせていた。1904年から始まった日露戦争、その当時の首相は桂太郎だ。ニコニコっと笑って肩をポンポン叩くことから、「ニコポン宰相」とも呼ばれた桂は、長州藩の山口県出身。同じく山口県出身の、陸軍を握っていた山縣有朋(やまがたありとも)と親しい。同じく山口県出身の伊藤博文は、後継者に西園寺公望(西園寺公望)という公家出身の政治家を推していた。この伊藤VS山縣のライバル関係が、桂VS西園寺の次世代にも引き継がれて、交互に政権を担当する「桂園時代」を迎える。元老と呼ばれた、明治政府を主導してきた実力者たちが政治を動かす「元老政治」とも呼ばれていた。1910年、韓国併合。1911年、関税自主権の回復(不平等条約の改正)。日露戦争後、日本が徐々に国力を高めていた頃である。

犬養は、この状況に、猛然とかみついた。

1913年、元老の指名により第3次桂太郎内閣ができた際、立憲国民党の犬養は、立憲政友会の尾崎行雄たちとともに、「第一次護憲運動」を起こしていた。「憲政擁護会」をつくり、内閣に不信任をつきつける。その際のスローガンは「閥族打破・憲政擁護」、要するに「一部の特定の人たちだけで政治を行うのはおかしい、ちゃんと憲法を守って政治を行うべし」ということである。

盟友の尾崎行雄は、議会でこのように発言したという(意訳)。

「(桂太郎たちは)常に口を開けば『私たちは忠誠に厚い、忠誠に厚いのは自分たちだけだ』と言うが、よく見れば、玉座の陰に隠れて政敵を狙撃しているだけではないか。天皇陛下の命令を弾丸の代わりにして、政敵を倒そうしているだけではないか」

「隠れるんじゃない、議会があるのだから、ちゃんと議論で戦え」と言われた桂太郎は、ぐうの音も出ない。議会での議論となれば、犬養や尾崎たちに分がある。そこで議会を解散させようとしたが、猛反対に遭う。日本各地でも暴動が起こる。大衆を味方につけた犬養たちは、ついに桂内閣を総辞職に追い込むことに成功した。世に言う「大正政変」である。

…ただしこの後、犬養や尾崎がただちに内閣総理大臣に就任する、とまでにはならなかった。まだまだ「閥族」「元老」の力は衰えていない。何人か総理大臣が変わる中で、1914年には第一次世界大戦開始、1917年にロシア革命、1918年にはシベリア出兵開始と、世界は激動に見舞われていた。国内でも米騒動が起きる。その後、「平民宰相」と呼ばれた原敬(はらたかし)が、大政党の立憲政友会を率いて1918年に総理大臣に就任した。これは「閥族」と攻撃された山縣有朋にうまく接近し、力を蓄えることができたからだと言われる。一方、犬養は閥族を敵とみなし、決して近寄らなかった。その差があらわれた、とも言える。

それに加えて彼には、致命的な欠点があった。

政敵を攻撃するあまりに、毒舌をふるいすぎるのである。「毒舌家」と呼ばれた。犬養の演説は理路整然、無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。しかし、いくら正しいことであっても、人前でボロクソに言われたら、その人は恨みを抱くだろう。事実、彼の周りは敵だらけだった。原敬のように、清濁併せのみ、仲間をたくさん集め、大政党を率いる、ということがなかなかできない。小さな政党の党首時代が長く、政治の場面では「永遠の野党」という時代がとても長かった。

1923年に起こった関東大震災の後、1924年には「第二次護憲運動」を起こし、1925年には普通選挙法治安維持法がセットで成立したのだが、彼はあくまで脇役の一人、主役ではなかった。率いていた立憲国民党も、革新倶楽部と名を変えて、最後は大政党の立憲政友会へと吸収されていった。自分自身も、政界を引退した。

…え、政界を引退? 総理大臣になったのではなかったっけ?と思われるだろう。実は彼は、その晩年の3年間で復活し、思いがけず政治のリーダーとなり、そして散っていったのである。彼の引退を岡山の後援者たちは許さず、彼を「勝手に立候補させ」衆議院議員を続けさせた。立憲政友会の有力者たちは、党内のゴタゴタを収めるために、彼を「勝手にかつぎあげて」総裁にした。憲政の神様であれば、神輿にかつぐには申し分ない。

1930年、立憲民政党の濱口雄幸総理はロンドン海軍軍縮条約を進めていたが、犬養はこれにかみつく。軍隊は、天皇が統帥するものだ。政治がこれに口出しするのは、統帥権の干犯である…。いわゆる統帥権干犯問題である。彼は実は、軍縮には賛成だった。しかし、今や大政党の総裁である。小さな党の党首ではないのだ。総理大臣の椅子は目の前。力を得て自分の政治理念を実現するためにも、今は政府を攻撃すべきだ。「軍縮には賛成するが、内容には反対する」という老獪な理屈で、政府案に反対した。

濱口総理は暴漢に襲われて重傷を負う(のちに死去)。後をついだ第二次若槻礼次郎内閣も、1931年の満州事変を抑えきれずに、すぐ総辞職した。野党時代が長く、政敵を鋭く論破する力を持っていた犬養は、その力を十二分に発揮したと言える。1931年末には、ついに内閣総理大臣に就任した。もともと中国通であり、辛亥革命の中心人物である孫文を支援していたこともある。満州事変を言葉の力、つまり外交の力で解決しようとして、1932年に成立した満州国を承認しなかった。

そのような状況の中で、彼は五・一五事件によって暗殺される。

「統帥権干犯」を言い出し、いわば軍部を擁護した彼が、なぜ殺されなければならなかったのだろうか? 本来なら、満州事変当時の総理大臣、若槻礼次郎が殺される対象となるだろう。しかしすぐ総辞職してしまったため、行き場を失った怒りは、代わりに総理大臣になった犬養に向けられたとも言われている。…野党として政府を攻撃した理屈によって、軍部が勢いづき、回り回って自分の命を失わせることになった、とも言える。

「話せばわかる」の憲政の神様は、「問答無用」の軍部に殺された。しかし、彼は最後まで言葉の力を信じていた。死の床の中で、「今の(自分を撃った)若い者をもう一度ここに呼んでこい。よく話して事情を聞かせてやる」と言ったという。

これ以降、議会は冬の時代を迎え、軍部が表舞台に立つ時代になった。犬養毅は、議会の中で、議論という牙を磨き、たくさんの政敵を攻撃してきた。その彼が最後には、言葉ではなく、物言わぬ銃口によって殺されてしまったのは、まさに歴史の皮肉だと言えよう。

復習:《1901~1930年の略年表》
『政党と議会』:政党による政治が普及し、議会政治が進展した時代
(◆1890年 第1回衆議院議員選挙 犬養毅初当選)
◆1904年~ 日露戦争
◆1910年 韓国併合
◆1913年 第一次護憲運動、大正政変
◆1914年~ 第一次世界大戦
◆1917年 ロシア革命
◆1918年 シベリア出兵開始、米騒動、原敬が総理大臣に就任
◆1923年 関東大震災
◆1924年 第二次護憲運動
◆1925年 普通選挙法・治安維持法成立
◆1930年 ロンドン軍縮条約・統帥権干犯問題
(◆1931年 満州事変、犬養毅が総理大臣に就任)
(◆1932年 五・一五事件)

4、妖怪カミソーリ:1931年~1960年

1931年から1960年に至る30年間の中で、岸信介(きしのぶすけ)ほど賛否両論にまみれた政治家はいないだろう。その功績を讃える声が多い一方で、口を極めて罵り、否定する声もまた多い。1960年の「安保闘争」の混乱に加え、長く政権を担っている安倍晋三の祖父(岸信介の孫、と言った方がいいかもしれないが)という家系的なものも相まり、どうしても実態よりもイメージが先行となりやすい人物だ。だからこそ、あえて取り上げたい。

この30年、一言であらわすと次の通り。1945年を挟んで、戦前戦中と戦後に分けられる。

 1931年~1960年
『戦争と平和』:第二次世界大戦を挟み大国の思惑に翻弄された時代

戦争の時代なのである。勝つか負けるか、生きるか死ぬか。ましてや総力戦と言われた世界大戦の中で、なりふり構ってはいられない。敵のことは悪く言う。悪魔かのようにこき下ろす。諸悪の権化だとレッテルを貼る。そんなことが日常茶飯事に行われた時代だ。

事実、日本ではアメリカ合衆国とイギリスのことを「鬼畜米英」と呼んで、敵性言語として国内では英語の使用が禁じられた。野球ではストライクのことを「よし」と言った。それが戦後には一転、「ギブミーチョコレート」と子どもたちは米兵にお菓子をねだった。…そんな例でもわかるように、平和が当たり前の現代の日本的な感覚では、なかなか想像しづらいような状況である。そんな中、戦前・戦中・戦後ともに存在感を示した岸信介という人物は異彩を放つ。様々なレッテルが貼られたのも、また当然だろう。

一番よく知られているのは『昭和の妖怪』という異名だ。

妖怪。…どんなに豪胆な人物でも、お前は人間でなくて妖怪だ、と言われて、あまり良い心持ちはしないだろう。ふつう、戦前や戦中に活躍した人物は、戦後には精彩を失う。戦後に活躍した人物は、戦前や戦中では鳴かず飛ばずだ。ところが彼は、戦前は満州国の切れ者、戦中は商工大臣、戦後は内閣総理大臣、いずれも大活躍している。どんな状況におかれても、死なない。妖怪、と言われても仕方がないほどの策謀とバイタリティを持っていた。事実、頭の回転が異様に早い。彼と敵対する人物であっても『カミソリ岸』とも言われた彼の切れ味には、一目置かざるを得なかった。

さて、まずはこの時代に、日本が置かれた状況を概観しよう。

1929年にアメリカ発で起きた世界恐慌の波は、全世界に波及した。1931年、満州事変が起こり、1932年には満州国が成立、1933年に日本は国際連盟を脱退した。簡単に言えば、この不景気を打破するために独自路線を行きますよ、自分たちで経済圏を作っていきますよ、と宣言したようなものだ。

各国はどうだろう。アメリカ合衆国はフランクリン=ルーズベルトの下でニューディール政策を実施した。第一次世界大戦で衰えたとはいえ、イギリスとフランスはまだ世界に植民地をたくさん持っているので、ブロック経済という排他的な経済政策で乗り切ろうとした。一次戦で敗北し、植民地を失っていたドイツは、ナチスのヒトラーをリーダーとして軍備を拡張。ニューディール政策など比べ物にならないほど国家支出を増やし、不景気から脱出した。そう、あの「悪魔」ヒトラーがなぜ支持を集めていたのかというと、不景気を吹き飛ばすような経済回復を果たして「ドイツの救世主」とされたからだ。イタリアのムッソリーニも同じ。一方で、社会主義のソ連では、独裁者スターリンの下で5か年計画を実施して、国力を伸ばしていた。

金と人を集められる実力者に、権力が集中していった時代である。

こういう乱世では、議論ではなく実力がモノを言うのだ。お互いを尊重し、ルールを守って、寛容の精神で話し合って…という時代では、ない。実力行使で軍部が成立させた満州国も、その1つであった。1936年、経済官僚として満州に着任した岸信介は、この新しい国の中で辣腕を振るった。満州国には、「弐キ参スケ」と呼ばれた5人の実力者がいた。東条英機・星野直樹・鮎川義介・岸信介・松岡洋右。このうち、松岡洋右は国際連盟脱退の立役者、東条英機は後に内閣総理大臣となって太平洋戦争を始める人物である。この2人は戦後まもなく死亡したが、残りの3人は、戦後の政界・財界でも続けて活躍した。

国際連盟を脱退し、フリーハンドとなった日本が採った道は、中国に軍隊を進め、ドイツ・イタリアと同盟を結ぶ道だった。

1937年、日中戦争開始。1939年の第二次世界大戦開始を受けて、1940年、日独伊三国軍事同盟締結。共産党のソ連とは敵対していたが、1939年8月の独ソ不可侵条約を受けて、1941年4月には日ソ中立条約を結んだ。ところがそのわずか2か月後に、1941年6月には独ソ戦が開始される。世界の情勢は混沌として複雑怪奇であった。

アメリカ合衆国とは和平の道を探る交渉が進められていた。しかし、8月1日には石油禁輸措置等の経済制裁が発動され、11月26日にはコーデル=ハル国務長官からの「ハル・ノート」が突きつけられた。中国およびフランス領インドシナからの全面撤退、満州国の否認、三国軍事同盟の実質的廃棄などを含む要求である。すでに後にはひけないところまで踏み込んでしまった日本には、とても飲めない内容だ。10月に内閣総理大臣となった東条英機は、12月、アメリカ・イギリスに対して戦争を始める決意を固めた。真珠湾攻撃から始まる、太平洋戦争の開戦である。岸信介はこの時、東条内閣の商工大臣に就任していた。

後付けで考えれば、勝ち目のない戦争である。

中国を敵として戦っている中で、しかも持久戦を採られて終わりが見えない中で、アメリカ・イギリス(およびその同盟国)とも戦争を始めてしまったのだ。これだけでも挟み撃ちだ。同盟国であるドイツとイタリアは、徐々に追いつめられて降伏した。大戦末期には、何とソ連が中立条約を一方的に破棄して参戦してきた。原爆も投下された。結局、四面楚歌の中で、日本は無条件降伏することになる。1945年のことである。

…そう考えると、岸信介は「戦犯」として、戦後は出る幕がなさそうである。ところが、さすがはカミソリと呼ばれた男、先を見る目があった。1944年、戦況が徐々に不利になっていた時のこと。東条英機は内閣改造を行って乗り切ろうとしたが、岸は辞職要求を拒否したのである。軍隊に脅されたが、彼は屈しない。閣内不一致となり、東条内閣は倒れた。この「東条に反抗して倒閣した」という動かせない事実が功を奏し、戦後に戦犯として東京裁判を受けた彼は、不起訴となり無罪放免となったという。

GHQの占領下にあった日本も、1951年、サンフランシスコ講和条約が結ばれて1952年には独立。岸たち公職追放を受けていた者たちが政治活動を行い始めた。折りしも、1950年には朝鮮戦争が始まっている。アメリカ合衆国とソ連との間の「冷戦」の時代である。「逆コース」とも呼ばれる「反共政策」が採られており、戦前・戦中に大国と渡り合った経験のある彼は、日に日に存在感を増していった。

時の総理大臣は、自由党の吉田茂である。

日米安全保障条約を結び、米軍に安全保障を任せ、経済を発展させようとした吉田。岸は、それに反抗した。「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」こそ大事ではないのか! この三本柱を唱える彼を、吉田は自由党から除名する。そこで岸は、吉田の政敵である鳩山一郎と手を結び、日本民主党の結成に走った。その結果、吉田内閣は打倒され、1955年には自由党と日本民主党の保守合同が行われて自由民主党が誕生、いわゆる「55年体制」が始まった。岸は、自由民主党の初代幹事長。吉田茂の一派を「吉田学校」という。岸の実の弟である佐藤栄作もその一人である。岸は違う。「俺は岸学校の校長だ」と言ったという。鳩山一郎、石橋湛山の2人の内閣の後で、ついに彼は1957年、総理大臣に就任した。

「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と、彼は就任の記者会見で語った。三悪追放。意外に思われるかもしれないが、彼は社会福祉政策に力を入れた総理だ。国民が貧しくて、安心して働けなければ国力も伸びないことを、彼は満州国や商工大臣の時に身に沁みてわかっていたのだろう。「最低賃金制」「国民年金制度」「国民健康保険法(国民皆保険)」などの社会保障制度は、主に彼の内閣で導入されていった。これらは徐々に整備されていき、後の高度経済成長の基礎となった。

ただし、彼の一般的なイメージは、福祉政策に力を入れた総理、ではないだろう。「1960年、安保闘争で半ば強引に日米安全保障条約を改定して、退陣に追い込まれた」というものが多いと思われる。確かに、強引だった。国会をデモ隊が取り囲み、一触即発、革命でも起きそうな事態だった。デモ隊からは、口を極めて罵られ、人間性を否定され、攻撃された。ひ弱な人間ならば、メンタルをやられて、すぐにあきらめて政権を投げ出しただろう。しかし、彼はひるまない。生きるか死ぬかの戦争時、軍部とも互角に駆け引きしてきた彼にとって、この程度の危機は既に経験済みであったに違いない。

だが結果として、この安保闘争の責任を取り、彼は退陣した。

次の首班に池田勇人が指名された直後、彼は暴漢に襲われ、重傷を負う。しかし、彼は死ななかった。亡くなったのは、1987年、享年90歳。死ぬ前まで元気で、政界や財界の大きな影響力を持っていた。「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」と言ったという。先を見るカミソリの知力と、相手が権力者であってもひるまない胆力、それにどんな状況でも死なない妖怪のごとき体力と強運の人生は、今も賛否両論の中で渦巻いている。

復習:《1931~1960年の略年表》
『戦争と平和』:第二次世界大戦を挟み大国の思惑に翻弄された時代
(◆1929年 世界恐慌)
◆1931年 満州事変
◆1932年 満州国成立、五・一五事件
◆1933年 国際連盟を脱退
◆1936年 二・二六事件、岸信介 満州に渡る
◆1937年~ 日中戦争
◆1939年~ 第二次世界大戦
◆1940年 日独伊三国軍事同盟
◆1941年 日ソ中立条約・岸信介 商工大臣就任・太平洋戦争開戦
◆1944年 岸信介たちが東条に反抗して倒閣
◆1945年 ポツダム宣言を受諾して敗戦、岸信介 戦犯として逮捕
◆1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約
◆1955年~ 自由民主党結成・「55年体制」始まる
◆1957年 岸信介 総理大臣に就任
◆1960年 日米安全保障条約改定・岸信介退陣

5、コンピュータ付き闇将軍:1961年~1990年

1961年から1990年は、これまでの各30年と比べて、比較的安定した時代だ。明治維新・憲法発布・議会政治の進展・世界大戦など、国の在り方と存亡をかけてきたような出来事があるだろうか? この30年間の中では、すぐには見いだせない人も多いだろう。もちろん、細かく見ていけば、「東京五輪」であったり、「沖縄返還」であったり、「中国との条約」であったり、「石油危機」であったり、それらしいものは、ある。しかし、戦争で負けて占領された、というほどのインパクトは、ない。それだけ「順調に進んでいった時代」だと(現在から振り返る視点であれば)言える。

この30年間を代表する人物として、田中角栄(たなかかくえい)を取り上げる。この人ほど「キャラの立った政治家」もいないだろう。彼のライバルであった福田赳夫(ふくだたけお)は、この頃の時代を指してこう言った。「昭和元禄」。江戸時代の元禄時代のように、政治と経済が発展・安定し、ぜいたくになり、文化が発展したという時代である。事実、この30年間、自民党が第一党である「55年体制」はずっと続いた。自民党のトップ=総理大臣、という時代だった。その中にあって、田中角栄の存在感は抜群だった。

1961年~1990年
『成長と安定』:55年体制の下で高度経済成長が進み、安定した時代

1960年の安保闘争の結果、岸信介は退陣、池田勇人が総理大臣になった。政治から経済へ、チェンジオブペース、低姿勢、寛容と忍耐、これからは「国を富ませる」ことに全力を注ぐという方針だった。現在の政治家であれば、経済をどうするかはトップに持ってくるべき課題だが、この当時、ここまで「経済」を第一に据えて全力で取り組んだ総理大臣はいない。「外交」こそが総理大臣の取り組むべき課題、「経済」は大蔵大臣(現財務大臣)に任せておけばいい、そういう認識が一般的だった。

池田は、違った。彼が掲げた「所得倍増計画」ほど、わかりやすい政策はないだろう。所得を倍増させる。それを聞いた大多数の人が、「そんなの無理だろう」と思ったに違いない。しかし池田は強気だった。成算もあった。もともと、大蔵省で税務畑からたたき上げてきた男だ。病気で休職していたことが、敗戦時には逆に生きて、吉田茂内閣では国会議員になって1年目で大蔵大臣を務めた。数字にはめっぽう強い。政界・財界、こぞって彼を応援し、所得倍増は予定よりも早く達成された。

もっとも彼にとっては、経済政策こそが政治であり外交であり、安全保障政策だったのだろう。冷戦の中で共産主義圏に対抗するためには、国民を豊かにして、資本主義の素晴らしさを十分味わわせることこそが大事だということを認識していたに違いない。事実、安保闘争で岸内閣を退陣に追い込み、次は政権を、と意気込んでいた社会党などの野党は、この「高度経済成長」の中で、徐々に勢いを失っていった。

田中角栄は、この池田内閣で大蔵大臣を務めた。

しかし彼は池田派では、ない。彼のライバルであった佐藤栄作の派閥である。吉田学校の龍虎と呼ばれた池田と佐藤。この2人を軸にして、1960年代は過ぎていく。1964年東京五輪、池田退陣のあとで佐藤内閣に代わり、1965年日韓基本条約…。この中で田中は、大蔵大臣や幹事長などを歴任した。大学出のエリート、官僚あがりの池田と佐藤と違って、彼は小学校卒業の学歴から苦労してお金を稼ぎ、民間企業の社長も務めてきた。彼らは人たらしの異才を持つ田中をうまく使い、政権を盤石にしていった。逆に田中は、彼らに使われる中で力をつけていった。

彼の名声をさらに高めたのは、1971年の「日米繊維交渉決着」だろう。日本は経済的に豊かになった。それゆえ、アメリカ合衆国との間に貿易摩擦が起こる。1980年代にも頻発するが、繊維を巡っての摩擦がすでにこの頃に起こっていた。「日本製の安い綿製品の輸入を制限したい」。アメリカの言い分を、日本は簡単に飲めない。交渉は難航。時の大統領ニクソンは、「ジャップの裏切りだ」とまで口走ったと言われる。まさにこんがらがった糸。これを快刀乱麻を断つがごとく解決したのが、通産大臣に就任した田中だ。

最初、彼はアメリカに対し、通産省の官僚の言い分を存分に主張した。一歩も引かなかった。交渉は決裂した。「君たちの言い分を通した結果、日米関係は悪化したぞ。さあ、どうする!」と、田中は官僚に言った。「大臣、別の案を作ります!」。官僚は必死になって、日本の繊維業界に一定の補償をする代わりに自主規制をさせる、という案を作った。これが決着の糸口となった。…いきなり否定されたのでは、誰でもやる気をなくす。まずは肯定して、言い分を代弁してやり、心を奪う。官僚の力を否定せず、使いこなし、120%引き出させる。苦労人にして経営者、田中の真骨頂であった。

この交渉は、「糸を売って縄を買う」とも言われた。繊維交渉で妥協して、その代わりに沖縄を返還してもらう、という意味である。1972年、沖縄返還。これを引き際として、長期政権だった佐藤内閣は退陣した。田中は、佐藤派で頑張ってきた自分が後を継げると思っていただろう。しかし、佐藤が推したのは、東大卒・大蔵官僚あがりの福田赳夫だった。結局、エリートはエリートを後継ぎにするのか。田中は、佐藤派を半ば強引に「田中派」(木曜クラブ)に作り変えて抵抗し、見事に総裁選に勝利した。「角福戦争」とも呼ばれる政局だった。

「コンピュータ付きブルトーザー」「今太閤」と言われて、人気の絶頂にあった田中は、総理就任早々に、1972年、日中共同声明を出して日中国交正常化を成し遂げた。その勢いを駆り「日本列島改造論」をぶち上げる。彼は新潟県出身。豪雪地帯の日本海側が、工業地帯が成長した太平洋側に比べて、貧しいことを気にかけていた。豊かになった日本だが、必ずしも日本国民全員が豊かになっているわけではない。格差を是正する。これは、現代の日本の「東京一極集中」「都会と地方の格差問題」にもつながる問題だ。もし、この田中の日本列島改造がうまくいっていたら、状況は違っていただろう。

しかし1973年、不運なことに「石油危機」(オイルショック)が起こった。

石油の値段がみるみる上がる。インフレが止まらない。高度経済成長に欠かせないのは、石油だ。イケイケドンドンの好景気は、終わった。公共事業をフル活用して、経済を回す方法は取れなくなった。列島改造などをしている場合ではなくなった。不運は重なり、頼みにしていた愛知揆一大蔵大臣が急死。彼の代わりに、大蔵大臣になるように田中が頼んだのは、ライバルである福田赳夫であった。政敵に頭を下げて味方になってもらう度量が、彼にはあった。需要を押さえ、省エネルギーに腐心する政策に変わった。

結局、彼の政権は約2年で終わる。退陣後には、ロッキード事件という汚職事件にからんで、彼は逮捕された。田中は自民党を離党して、無所属となった。並みの政治家ならば、ここで引退、政治家人生を終わるところである。

しかし、彼は違った。自民党を離党しても、田中派は揺るがなかった。その固い団結力は「鉄の結束」「一致団結箱弁当」と言われて、金と数の力で自民党を牛耳っていった。その手法は「金権政治」とも批判された。

この頃の有力政治家は「三角大福中」、三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫・中曽根康弘である。彼らは田中→三木→福田→大平→(鈴木善幸)→中曽根の順に総理大臣になったが、田中派はいずれにも大きな影響力を及ぼした。1978年に日中平和友好条約を締結し、再選確実とまで言われた福田赳夫が退陣したのは、田中派と大平派の「大角連合」にやられたのが理由であるし、中曽根総理が誕生した時も「直角内閣」「田中曽根内閣」などとも呼ばれた。中曽根は国鉄民営化などの施策を進めたが、田中派の意向は無視できない。キングメーカーとして裏で権勢をふるう田中を、人はいつしか「目白の闇将軍」と呼んだ。目白は、彼の邸宅があったところだ。

しかし、ついに彼の時代も終わる。それも、自分が権力を握った時と同じように。

1985年、田中派の第一人者であった竹下登が、勉強会として「創政会」を結成した。実質上のクーデター、竹下派の誕生である。その衝撃の影響もあってか、ストレスによる酒の飲み過ぎか、田中は脳梗塞で倒れた。「角抜き政局」の始まりである。1987年にこの会は「経政会」(のちに平成研究会)となり、同年に竹下は中曽根の後を継いで総理大臣に就任した。彼は、格差是正を名目にして、「ふるさと創生事業」「消費税導入」などを行ったが、師匠の田中と同じように、リクルート事件という汚職事件で退陣した。しかし、これまた田中と同じように、キングメーカーとして裏で権勢をふるうことになっていく。世の中は、1989年の昭和天皇崩御で「平成」に変わり、バブル景気で賑わっていた。

1993年、田中角栄は死去した。刑事被告人として。バブル景気も崩壊した。これから数十年、日本は不景気の波に覆われることになる。

田中が活躍したこの時代は、経済が成長し、政治が安定し、「古き良き昭和の時代」として、現在の人が振り返ることが多い時代である。しかし一方で、一億総中流・学歴社会・同調圧力・護送船団、赤信号みんなで渡れば怖くないという波が日本全国を覆っていき、目に見えない閉塞感が形成されていった時代でもある。そんな時代の中で、キャラを立てて、個性を十二分に発揮した田中角栄は、賛否両論いずれも多く、記憶に残るような人物であったように思われる。「いま田中角栄が生きていたら!」「田中角栄の名言!」などの本が今でも売れているのも、その証拠であろう。

復習:《1961~1990年の略年表》
『成長と安定』:55年体制の下で高度経済成長が進み、安定した時代
(◆1960年 安保闘争・池田内閣発足)
◆1964年 東京五輪
◆1965年 日韓基本条約
◆1971年 日米繊維交渉決着
◆1972年 沖縄返還、田中角栄 総理大臣に就任、日中共同声明
◆1973年 (第一次)石油危機
◆1976年 ロッキード事件により田中角栄逮捕
◆1978年 日中平和友好条約
◆1985年 竹下登 創政会発足、田中角栄倒れる(角抜き政局へ)
◆1986年~1991年 バブル景気
◆1987年 国鉄分割民営化、経政会発足、竹下内閣誕生
◆1988年 ふるさと創生事業・消費税導入
◆1989年 昭和天皇崩御、リクルート事件、竹下総理退陣
(◆1993年 田中角栄死去)

6、変人の劇場:1991年~2020年

ついに現代史に入る。1991年から2020年の30年。この記事を書いているのが2020年だから「いまここ」の時代である。まだ存命中の人物もたくさん出てくる。改めて、敬称略で書くことをお断りしておく。

現代史というのは書きやすく、同時に書きにくいものである。

書きやすいというのは、資料(史料)が豊富なことが理由だ、何しろ今ここのことだから、ネットでググればたくさん出てくる。いくらでも書ける。一方で書きにくいというのは、時間があまり経っていないものだから、評価や物事の裏がわかりにくい一面もある。そもそも、事の真相が全部、表に出ているわけがないのだ。特に政治においては。

1991年~2020年
『情報と平成』:冷戦後の混沌とした世界で情報に溢れた平成の時代

あえて30年を一文で表せば、こうなるだろうか。

「情報」が1つのキーワードであることに異論はないだろう。1995年の「Windows95」発売は、情報化社会を加速させた。私たちが触れて発信することができる情報は膨大なものになった。一個人が記事をネットで全世界に公開できるようになるなど、30年前には想像すらできなかった。冷戦が終わり、軍事技術の1つだったコンピュータ上のネットワークが民間に開放されたことが大きい。1991年のソ連崩壊も、ゴルバチョフが推進した「グラスノスチ」(情報公開政策)が発端だったというし、2010年から2012年にかけて起こった、ジャスミン革命などの「アラブの春」と呼ばれる一連の民主化革命にも、ネットワークメディアが大きく影響したと言われる。

「平成」もキーワードである。1989年に平成元年2019年に令和元年となり、この30年はほぼ平成時代と重なる。昭和から平成、平成から令和、この元号の移り変わりを目の当たりにした読者も多いだろう。「平成おじさん」となった小渕恵三は総理大臣となった。菅義偉官房長官は「令和おじさん」である。昭和天皇の崩御による「自粛ムード」や、2019年の「生前退位」という歴史的な出来事は、まだ記憶に新しい。スマホを片手に、いったい新元号は何なのか、と待ち構えていた人も多いだろう。

他にもキーワードを探せば、いくらでも出てくる。1991年のバブル崩壊からの「不況」「失われた〇〇年」。あるいは2回の「震災」、新自由主義による「格差」「自己責任」…。この混沌とした30年間を振り返る中で、キーパーソンを1人だけ挙げるのも難しいが、あえて選ぶとすればこの人だ。

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)

2001年から2006年にかけて総理大臣を務めた人物である。ふつう、総理大臣というのは政権末期には支持率が落ちるものだが、彼は違った。高い支持率のまま、退任した。彼が良くも悪くも、いかに時代に合っていたかがよく分かる。当然ながら、賛否両論のどちらも溢れる政治家である。

彼は、1942年の生まれ。ほぼ戦後世代。初当選は30歳の頃の1972年。日中解散の後の衆議院議員選挙だ。当時は田中角栄が総理だったが、彼はあえて田中のライバルの福田赳夫の派閥に入った。しかし数が力の政界で、彼は一匹狼を貫く。群れない。媚びない。言いたいことを言う。いつしか「変人」と呼ばれていた。初入閣は46歳の頃の1988年。竹下登内閣の厚生大臣としてである。当時の政界は、竹下派の天下だ。リクルート事件によって竹下が退陣、後任の宇野宗佑もすぐ退陣した。後を継いだ海部俊樹は、弱小派閥の出身ではあったが、数の力を持つ竹下派(経世会)の支援によって組閣した。

言いたいことを言う小泉は、これにかみついた。YKKと呼ばれた盟友たち(山崎拓・加藤紘一)とともに「海部総理の続投を阻止する」「経世会支配を打倒する」という声を挙げ、海部内閣を死に体に追い込んだのである。その影響もあって、後任の宮澤喜一内閣で、彼は郵政大臣に就任した。ここで彼は、かねてからの主張である「郵政民営化」を大々的に打ち出した。しかし、郵政族と呼ばれる族議員たちに、つぶされた。郵政族は、竹下派の議員が多かった。

ところがここで政界に激震が走る。郵政民営化どころではなくなった。

宮澤内閣が倒されて、自民党が下野したのだ。55年体制の崩壊。1993年、細川護熙連立内閣の成立。立役者は剛腕と呼ばれた経世会出身の自民党元幹事長、小沢一郎であった。ところが1994年には、何と自民党は敵であったはずの社会党と手を組んで、自社さ連立政権を発足させた。社会党の村山富市を総理にかつぐ、という奇策である。主導したのは、キングメーカーとして隠然たる勢力を誇る竹下登であった。折悪しく、1995年には阪神淡路大震災オウム真理教事件という大事件が起こり、政界も社会も混乱に陥った。

この90年代の混乱には、経世会の分裂、同士討ちに責任の一端があると言ってもいいだろう。小沢VS竹下。権力闘争。田中角栄の秘蔵っ子と言われた小沢。田中角栄をクーデターで倒して権力を握った竹下。どちらも譲らない。小沢は自民党を出て連立政権を作り上げ、細川や羽田孜を総理に仕立て上げた。一方の竹下は、派閥の後輩である橋本龍太郎や小渕恵三を総理に担ぎ上げた。この暗闘を、福田赳夫の秘蔵っ子と言われた小泉は、どんな思いで眺めていたのであろうか。

自説を曲げない小泉は、橋本内閣においても「郵政民営化をやれ」と言い続けた。総裁選にも出た。1回目の相手は1995年の橋本龍太郎。2回目の相手は1998年の小渕恵三・梶山静六。いずれも惨敗であった。2回目の総裁選の時には、「凡人の小渕、軍人の梶山、変人の小泉」と言われたりもした。このように候補者のキャラを見事に表現したのは、田中角栄の娘、田中真紀子であった。総裁選を通じて、彼は政界だけでなく、世間にも徐々に認知度を深めていった。「郵政民営化」「変人」と言えば、小泉。そういうイメージが浸透していったのである。

潮目が変わったのは2000年。5月に小渕総理が急死した。6月には、後見人の竹下登が死去した。竹下派の支配が、終わりを告げようとしていた。

小渕の後任として総理大臣になったのは、福田赳夫の下でともに働いた派閥の先輩、森喜朗であった。ところがこの森総理、失言が多くて国民の評判がすこぶる悪い。「加藤の乱」が起こった。YKKの加藤紘一・山崎拓が不信任案をちらつかせて森内閣の倒閣を図ったのである。さて、YKKの一員であった小泉は、どう動いたのか?

「政策の小泉から、政局の小泉になる」と宣言して、森内閣の不信任案に反対の立場を表明したのである。YKKを斬り捨てた。「YKKは友情と打算の二重構造」と発言し、これを聞いた加藤と山崎は苦い顔になったという。橋本派(元の竹下派)の実力者、野中広務が加藤たちを切り崩し、加藤の乱は鎮圧された。翌年、2001年の春に総裁選が行われて、3回目の挑戦で彼はついに自民党総裁となり、総理大臣へと就任した。

こうして彼の総理大臣になるまでの道のりを見てみると、1つの戦略が浮かんでくる。「私はこういう人物ですよ」という、キャラを作り、それを浸透させていく戦略。敵が強大であっても、果敢に挑むイメージづくり。非常に巧みだ。変人。郵政民営化。一匹狼で群れない。自分の信念と違う場合は、仲間であっても斬り捨てる。それを政界だけでなく、国民にも分からせていった。分からせた上で、総理大臣にまで上り詰めた。この姿勢は、いわゆる情報化社会の中では「セルフブランディング」として大事なことであろう。

しかし、政界ではそれは果たして適切なのだろうか? それまでの政界は、田中角栄的・経世会的な手法、数と金と派閥がものをいう世界である。総裁選では、推薦人が集まらないとそもそも立候補もできない。しかも今や彼は、自民党総裁で総理となった身で、いわば「まとめ役」である。その中で、自分のキャラとポリシーを貫き通すことができるのか?

彼は、貫き通した。むしろ、やり過ぎるほどにやった。やり尽くした。

「自民党をぶっ壊すッ!」「聖域なき構造改革ッ!」「郵政民営化に反対する者は抵抗勢力ッ!」。ワンフレーズポリティックスと呼ばれる彼の言動はとてもわかりやすく、マスコミやメディアに毎日取り上げられた。情報化社会に生きる国民の多くが、熱狂した。人気者だった田中真紀子を外務大臣に据える。2001年に同時多発テロが起きると、アメリカ合衆国のブッシュ大統領にすぐさま協力する。2002年には日朝首脳会談、北朝鮮に行って金正日に直接会い、拉致被害者を取り返してくる。まさに小泉劇場である。

もし妥協して変人ではなく「常識人」になってしまったら、政治家としての自分は終わりだ、と思っていたのだろう。現に2005年、彼は「郵政解散」と呼ばれる「非常識な」解散をやってのけた。参議院で郵政民営化関連法案が否決されるとすぐ、衆議院を解散したのである。解散はただの牽制、口だけだと思っていた反対派は、仰天した。そればかりか反対派に「抵抗勢力」のレッテルを貼り「刺客候補」を送り込んだ。抵抗勢力のリーダーと言われた亀井静香には、ホリエモンこと堀江貴文が送り込まれた。さすがに初出馬の堀江は当選しなかったが、小泉に擁立された候補者には当選する者も多く「小泉チルドレン」と呼ばれた。小泉は、貫き通して、勝った。

もちろん、こういった彼の手法と、その政策の結果には批判も多い。

有名なものが「格差を広げた」というものだろう。竹中平蔵を大臣に登用し、新自由主義的な経済政策を連発。雇用の流動性が高まり、非正規労働者が増えた。持てる経営者は助かり、持たざる労働者は苦しくなった。「派遣切り」も起こり、総理退陣後にリーマン・ショックが起こった2008年には「派遣村」もできていった。自己責任論が広がり、将来に不安を持つ若者たちは、結婚や出産をためらった。少子化は進む。その一方で、後に「上級国民」と呼ばれる富裕層も生まれていった。「ITバブル」「IT長者」が生まれたのもこの頃である。時流に乗った者は強くなり、乗れない者は弱くなる。それを象徴したのが、2004年に年金の問題を聞かれて答弁した、次の言葉であろう。「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろです」。一億総中流社会は、自己責任の名の下で、崩れていった。

彼の退陣後、後継者と目された安倍晋三が総理となったが、1年程度で辞任。1年代わりで総理大臣が変わる時期が続き、2009年には再び小沢一郎の画策で政権交代、民主党政権ができたが、2012年には自公政権に戻り、再び安倍晋三が政権を握った。以降、この記事を書いている2020年の時点でも、安倍政権が続いている。

しかし、小泉純一郎が総理大臣だった時ほどの高い支持を得ているとは、とても言えない状況だ。就任当初に喝采を浴びたアベノミクスという経済政策は、コロナウイルス対策のマスク配布政策を揶揄した、アベノマスクという名前に使われてしまった。小泉純一郎の次男、小泉進次郎も、次の総理に目されるほどの人気だったが、2019年に環境大臣に就任した後は、その人気に陰りが出ている。キャラを維持しつつ政治をすることがいかに難しいか、逆に言えば、政界の中で自分を貫き通すことがいかに難しいことか。

なお、総理を退任し、地盤を息子に渡した小泉純一郎は、在野に生きる政治家として、1つの問題に取り組み始めた。それが、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故を経て、日本でクローズアップされてきた原子力発電所の問題である。「原発ゼロ」を新たな問題として掲げ、2014年には元総理の細川護熙候補の都知事選挙を応援した。2016年に都知事となった小池百合子とも会談した。2017年の希望の党の設立の際に、小池は「原発ゼロ」を政策の1つに掲げていた。

2020年現在、今後の政治はどのような方向に進むのか、流動的で読みにくい。しかし、小泉純一郎が使った「キャラづくり」「政治の劇場化」という手法と、議論がずっと続いている「原発」の問題は、これから誰がリーダーになるにしても、避けては通れないように思われる。

復習:《1991~2020年の略年表》
『情報と平成』:冷戦後の混沌とした世界で情報に溢れた平成の時代
(◆1989年 平成元年)
◆1991年 ソ連崩壊(冷戦体制の崩壊)、バブル崩壊
◆1993年 細川連立政権発足、自民党下野(55年体制の崩壊)
◆1994年 自社さ連立政権発足
◆1995年 阪神淡路大震災、オウム真理教事件、Window95発売
◆2000年 小渕・竹下死去、加藤の乱
◆2001年 小泉純一郎 総理大臣に就任、アメリカ同時多発テロ
◆2002年 日朝首脳会談、日朝平壌宣言
◆2005年 郵政解散
◆2006年 小泉純一郎 総理を退任
◆2008年 リーマン・ショック、派遣切りと派遣村
◆2009年 民主党政権発足
◆2011年 東日本大震災、福島第一原発事故
◆2012年 自公政権発足、安倍晋三 総理に就任、アベノミクス
◆2016年 小池百合子 都知事に就任
◆2019年 生前退位・令和元年、小泉進次郎 環境大臣に就任
◆2020年 新型コロナウイルスの感染拡大、五輪延期、アベノマスク

7、未来を形作る者たち:2021年~2050年

この記事を書いている2020年から見れば、2021年は来年である。来年のことを言えば鬼が笑う、ともいう。まだ来ていない未来。過去(現在)を書くべき歴史の記事の中で、未来のことを書くのは、いささか奇矯に過ぎると思われるかもしれない。

しかし「実用地歴」の考えからいくと、何ら矛盾はなく、むしろこのためにこそ歴史を「実用」すべきだとも思う。人間は、新しいことを生み出す進化していく生き物であるのと同時に、古いことに無意識にとらわれる生き物だからである。ならば、ここまでに見てきた断片的な歴史の数々に似た状況が、今後起きる可能性が十分にある。同じ人間が形作るものだから。

とはいえ、ただダラダラと「こうなるだろう」という予想を書くのも、読者にとっては退屈の極み。そこで、ここまでに書いてきた各30年を振り返りつつ、関連付けながら、未来予想史を綴ってみたい。

まずは、各30年の復習から。

【取り上げた人物】
①1841年~1870年:徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
②1871年~1900年:伊藤博文(いとうひろぶみ)
③1901年~1930年:犬養毅(いぬかいつよし)
④1931年~1960年:岸信介(きしのぶすけ)
⑤1961年~1990年:田中角栄(たなかかくえい)
⑥1991年~2020年:小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
【各30年を一文であらわすと】
①『幕末と維新』:江戸幕府から明治新政府に政治の実権が移った時代
②『近代と憲法』:明治新政府が欧米諸国を手本に近代化を進めた時代
③『政党と議会』:政党による政治が普及し、議会政治が進展した時代
④『戦争と平和』:第二次世界大戦を挟み大国の思惑に翻弄された時代
⑤『成長と安定』:55年体制の下で高度経済成長が進み、安定した時代
⑥『情報と平成』:冷戦後の混沌とした世界で情報に溢れた平成の時代

早速、①からいこう。

徳川慶喜は、幕末~明治維新の中で、ずっとその手腕が期待されてきた人物だった。さて今の時代、徳川慶喜レベルで、その手腕が期待される人物はいるだろうか。

読者の中には、新型コロナウイルスの拡大防止の中で、その防止に奮闘するリーダーたちの顔が思い浮かんだ人もいるかもしれない。誰も思い浮かばないかもしれない。危機に際して、人は誰かに助けてもらいたいと願うものである。自分自身の努力だけではどうにもならない、さまざまな利害が交錯する中で、実際に人を動かし、行動できる人に惹かれるものである。

徳川慶喜は、大政奉還という凄まじい政治決断を下した。しかしその決断のために、リーダーの座を降りざるを得なかった。見方を変えれば、無責任の極みとも言えなくもないだろう。血にまみれて政治を行う覚悟が足りなかった、とも言える。しかしその一方で、大規模な内戦を回避したからこそ、外国の本格的な介入を防ぎ、スムーズに明治新政府への引継ぎができた、とも言える。表舞台から退いた彼は、生き続けた。大好きな豚肉を食べ、趣味に生き、政敵たちの死を見届けながら、大正時代まで生き続けた。

アフターコロナ、ウィズコロナ、色々呼び名はあるが、これからの30年間は「人の動きと病気・健康」に、より神経を使う必要があることは明白だ。その中で、いかに人を動かして、いかに健康で生きられる世の中をつくるべきか。混乱の極みにあった1941年~1970年、また徳川慶喜の生き様から得られる教訓は多いと思われる。

②はどうだろう。

伊藤博文は、近代化に力を尽くした。1人の偉い人にすべてを任せるのではなく、複数の専門家によって合議しながら政治を行う体制を作った。もし、公家出身の三条実美が家柄重視の名目で初代内閣総理大臣となっていたら、総理はただのお飾り、誰が政治のリーダーかわからない無責任体制が続いていた、かもしれない。

今後30年間は、「リーダーや組織の在り方」が、さらに試行錯誤されていくだろう。名門や血筋の金看板だけでは、組織は動かせない。その一方で、名門や血筋という、その人個人にとってはどうしようもない歴史の積み重ねに、何らかの権威を感じて従う人もまた多い。歴代の内閣総理大臣の中には、ただのお飾りで就任した人物も、いないわけではない。それは、政治だけでなく、民間の会社組織などでも同様。創業者の一族というだけで、苦労なくトップの座につく人、座につかせる組織は無数にあるではないか。

そのような状況の中で、最大限メンバーの力を引き出す鍵になるのは、「ルール」だと思う。伊藤博文は、近代憲法をつくることに全力を尽くした。たとえ後世から見れば不完全なものであったとしても、軸となるルールをつくり、それに基づいて細かいルールを定め、実際に運用していけば、判例や基準が積み重なっていく。その際の教訓が、この30年に詰まっている。

③は、そのルールによって、議会政治が進展した時代である。

犬養毅は、言葉の力を信じ、言葉に殉じた政治家だ。「憲政の神様」にして「毒舌家」。言葉の有用性も暴力性も、わかっている。私たちは、言葉によってこの世界を認識し、言葉によって行動することが多い。「考えるな、感じろ」という一面ももちろんあるが、感じ方は千差万別で、人によって違う以上、「言語化」「見える化」によって、たとえ部分的であっても、他人にその生き様や行動を説明する必要がある。その姿勢は、情報化社会が進展するこの世の中で、より重要になっていく。

今後の30年は、「言語化と発信力」が、これまで以上に問われる時代となるのだ。特に、SNSが進化して、ありとあらゆる事象が「記事」としてまとめられるこれからの時代、テキスト形式の書き言葉の価値が、今まで以上に増してくると思われる。そう言えば犬養毅も、西南戦争の従軍記事で名を上げた新聞記者出身だった。インターネットにつなげば、地球の裏側ともやりとりができる。宇宙空間へのアクセスも、より容易になるだろう。その際には、言葉によるコミュニケーションが必要不可欠なのである。

犬養は、議会政治という枠組みの中で、数の力に頼らず、言葉の力を磨きに磨いてきた。その結果、最後は総理大臣としてかつぎあげられ、そして死んだ。言葉による表現は、もちろん精神的に人を死に至らしめることはあるが、物理的に人を死に至らしめることはない。彼は、物言わぬ銃口によって殺された。この殺されたという事実によって、逆説的ではあるが、言語化と発信力の威力を、世の中に見せつけたように思われる。

④については、今回取り上げた30年の中で、もっとも知識と人によって、見方が変わる時代だろう。

戦争と平和。多数の人が死に、多数の人が「生きるとは何か」を考え続けた時代だ。いわゆる右だの左だの、革新だの保守だの、国際情勢の分析だの冷戦下のイデオロギーだの、極論すれば、それらは生きるための道具であり、方便であるに過ぎない。その道具を唯一無二のものだと信じて殉じた人もいれば、道具として最大限に使いこなして生きた人もいる。

岸信介は、妖怪と言われながら、行動し続けて、生きた。権力とは何か、生きるとは何なのか、彼の生き様ほど、それを考えさせるものはない。

「他人からの評判と自分の行動」。今後30年は、これらがより鮮明に問われる時代となる。どれだけ「いいね!」や「スキ」がつくのか。どれだけ「フォロワー」がつくのか。評判は気になるところだ。しかし、その評判もまた、道具であり方便であるに過ぎない。心の底から「いいね!」と言われているのか。フォロワーはどんな気持ちでついているのか。「スキ」ではなく「キライ」と言われても行動できるかどうか。政治は、千差万別の不特定多数の人間を相手にする以上、どんなに人格者であっても、100%の賛成を得て行動できる人はいない。どんな行動であっても、野党やアンチはつきまとう。岸も、軍隊に脅され、戦犯として逮捕され、暴漢に刺された。それでも行動し続けてきた歴史は、教訓と示唆に満ちている。

⑤は、古き良き時代として記述した。

昭和元禄。高度経済成長。頑張れば報われた時代。しかしそれが現代から振り返った後付けの話であることは、すでに読者はお見通しであろう。その時代に生きた人にとっては、石油危機でトイレットペーパーはなくなるわ、物価は上がり続けるわ、元総理が逮捕されるわ、「とんでもない時代に生を受けてしまった」と感じて生きたことに違いない。

田中角栄は、その時代を生き抜くために「お金の作り方と使い道」を熟知していった。もちろん汚職事件の疑いで逮捕までされたので、完全に御しえたとは言えないが、彼ほどお金に詳しかった人も、またいないだろう。

今後30年は、個人レベルでも組織レベルでも、このお金の作り方と使い道に習熟する必要がある。クラウドファンディング的な資金調達の方法は、さらに深く広く進化していくだろう。GAFAM(グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップル・マイクロソフト)などの巨大IT企業、SDGs(持続可能な開発目標)などの世界標準の目標を無視して、生きることはできない。もし田中角栄が転生して、今後30年を生きることになったら、その「コンピュータ付きブルトーザー」と呼ばれた考察力と実行力を駆使して、多数からお金を集め、多数にお金を使うことだろう。

最後の⑥は、まだ歴史とも言えない現代史である。

しかしだからこそ、私たちが一番熟知するべき、過去の事例の宝庫ではないだろうか。「今ここ」に直結しているのが、この30年だからである。

この時代に強烈な存在感を残してきた小泉純一郎は、「セルフブランディング」の権化のような人だ。彼の名前を聞くだけで、大相撲の表彰式での「感動した!」という一言であったり、ライオンにたとえられた風貌であったり、ブッシュ大統領の横で歌い出す度胸であったり、魔術師のように小泉劇場を回し続けたりした、あの「小泉旋風」を思い出す。その政治の功罪は今後の歴史の判断に委ねるにしても、彼の行動の分析から得られるものは、とても多い。

自分をブランド化すること。5G時代が始まり、情報が今以上に溢れ出る今後30年において、自分とは何者なのか、それを明確にアピールできてこそ、仮想空間のみならず現実社会においても存在できる。もちろん「そんなの関係ない」と、いっさいブランド化せず、自分からは情報を出さずに生きることもできなくはない。これまでの歴史では、むしろそれがスタンダードだった。多くの無名の人が、そうやって生を終えてきた。

しかし、これからは違う。無名を望むただの一個人であっても、マイナンバーによる管理、SNSによる情報収集などによって、特定され個人情報がさらされ炎上する危険性は、常につきまとうのだ。となれば、攻撃は最大の防御。自分の意思で自分のキャラとイメージを作り上げ、他人の評価に積極的に働きかけたほうが、より自分自身を守りやすい、という考えもある。すでに私たちは、世界的な情報網の網にとらわれている。Amazonからは自宅に荷物が届き、次の商品をオススメされている。ならば、いかに情報を使いこなすかは、衣食住と同じくらい大事なことではないだろうか。そういう観点においては、彼の生き様から学べることは、とても多いのである。

なお、⑦2021年~2050年に活躍するであろう人物の名前は、あえて挙げなかった。

その人物に、この記事を読んでいただいた読者、つまりあなたの名前が取り上げられることを、私はひそかに期待している。

復習:《2021~2050年のキーワード》
①徳川慶喜:「人の動きと病気・健康」
②伊藤博文:「リーダーや組織の在り方」
③犬養毅:「言語化と発信力」
④岸信介:「他人からの評判と自分の行動」
⑤田中角栄:「お金の作り方と使い道」
⑥小泉純一郎:「セルフブランディング」

おわりに

いかがでしたでしょうか。「3賛七描史」と銘打って、30年ずつの歴史について、私なりに考察してみました。最後の七人目は描写してないじゃないか!と叱られるような気もしますが、それは読者の皆様自身が、自分自身の歴史と行動を題材にして、描写していただきたいと思います。

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歴史そのものについての考察記事も書きました。「歴史論争」を題材(食材)にして書いた、こちらの記事もおすすめしておきます↓。

この記事では「日本」の「政治」を中心に書いてみましたが、またの機会に「世界」や「経済・文化」などを中心に据えて書いてみたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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