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いわせちゅうしん、ではなく、ただなり!
岩瀬忠震、という外交官がいました。

「…だ、誰?」

そう思った方、無理なからぬところ。
私も、この人をよく知りませんでした。

幕末の1818年生まれで、1861年に死去。
「水野忠徳、小栗忠順、岩瀬忠震」
この三人を「幕末三俊」
呼ぶそうなんですが、
「西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允」、
この「維新三傑」に比べて
知名度が非常に低い…。

勝てば官軍、とも言います。
「勝った側」の薩長サイドに比べて、
「幕末三俊」は負けた側、滅んだ側。
どうしても後々の歴史上では分が悪い。

本記事では、知られざる敏腕外交官、
「最強のコミュ強」岩瀬忠震を紹介します。

…そもそも、何をした人なのか?

1858年の「日米修好通商条約」の締結に
尽力した人
です。

「ああ、あれですよね。不平等条約。
『治外法権を認める』と
『関税自主権がない』の条約!
最強でもなんでもないのでは?」

そう思いましたか?

確かに歴史の教科書には
「日米修好通商条約」=不平等条約、
こんな条約を結んだから
後々の人たちが苦労したんだ!という
ニュアンスで書かれることが多い。

…ただ、ですね。
当時の様子を詳しく見てみると、
岩瀬はかなり頑張った。
まず、この頃の流れを確認します。

◆1853年 アメリカ海軍のペリーが来航
◆1854年 日米和親条約
◆1856年 アメリカ総領事のハリスが来日
◆1858年 日米修好通商条約
◆1859年 「安政の大獄」の開始
◆1860年 桜田門外の変(井伊直弼死去)
◆1861年 岩瀬忠震死去

ペリーとかハリスとか
井伊直弼とか出てくるあたり。
当時の幕府のトップの人たちはこちら。

◆阿部正弘(あべまさひろ)
・1845年~1855年に老中首座(1857年死去)
◆堀田正睦(ほったまさよし)
・1855年~1858年に老中首座(1864年死去)
◆井伊直弼(いいなおすけ)
・1858年~に大老(1860年死去)

トップになり、気苦労が絶えず、すぐ死去。

在野で無責任に暴れる浪士たちと違い、
この頃のトップの仕事は命を削る激務です。
決して「安定」している時代ではない。
かいつまんで言うと、岩瀬忠震は、

◆阿部正弘に見出される
◆堀田正睦の下で働く
◆井伊直弼に罰せられる

そんな人。

父親は旗本でした。母親は学者の娘。
母方の祖父は「林述斎」といって、
佐藤一斎とタッグを組んで
儒学の林家、幕府の昌平坂学問所を
立て直した人でした。

1840年に岩瀬家の婿養子となり家を継ぐ。
1843年に昌平坂学問所に合格。
成績優秀で褒美をもらったほどの秀才。
…平和な世の中の「旗本」は、
戦うわけでなく、基本、やることがない。
そんな中で岩瀬は学問に邁進、頭角を現す。

部屋住みの身から召し出されて、
昌平坂学問所の教授になっていきます。
その彼を、阿部正弘が見出した!

1854年、ペリー来航の翌年。
講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所開設。
軍艦や品川の砲台築造。
そんな国家レベルの「開国政策」に
奔走することになる
んです。
有名な勝海舟より、ずっと働いていた。

その後は「外国奉行」にまで出世し、
1855年にはロシアのプチャーチンと交渉、
「日露和親条約」を結んでいます。

…この「阿部~岩瀬」ラインが
ずっと続いていれば
歴史も変わっていたかもしれません。
しかし阿部正弘は1855年に老中首座を
堀田正睦に譲り、1857年に死去…。

1856年、アメリカ総領事ハリス来日。
堀田正睦の家で演説を行いました。
長いので要約・超訳をしますと、

「アメリカはイギリスとは違うよ?
イギリスは、アヘン戦争を起こして
中国を食い物にしてますよね?
イギリスはいきなり戦艦を連れてきて
開国を迫る輩。しかしアメリカは
このハリスがたった一人で来ました。
まさにザ・フェアプレー。
まずはアメリカと条約を結びましょう!
自由貿易でガッポガッポできますよ?」

…ペリーは黒船を引き連れてきましたが、
確かにハリスは喧嘩腰ではなかった。
(ハリスは商人出身です)
もちろんこれはアメリカが他のライバルを
出し抜こうとするハッタリも含まれている。

ただ、国際情勢や交渉に慣れていない
幕閣や官僚は、彼の弁舌に圧倒される。
そりゃそうだ。
幕府は「鎖国」中心だったのだから。
国際交渉の初心者です。

…しかし、その中に岩瀬がいた。

彼はハリスが言う自由貿易のメリットを
充分に理解できる能力を持っていた。
下田奉行とともにハリスと交渉開始!
海千山千のハリスに対し、
丁々発止のやり取りを行います。
ハリスの回想から引用しましょう。

(ここから引用)

『関税は、私は自由貿易主義者だが、
日本のために平均20パーセントとした。
酒・煙草は35パーセントと重くした。

(中略)

議論のために、私の草案や原稿は
真っ黒になるほど訂正させられた。
主立った部分まで変えることすらあった。
このような全権委員(岩瀬と下田奉行)
を持った日本は幸福である。
彼らは、日本にとって恩人である』

(引用終わり)

そうなんです。
岩瀬はハリスの主張や欺瞞を的確に見抜き、
納得できない部分は質問、論破して、
圧倒的に不利な部分は書き変えさせた。
まさにコミュニケーション強者!
鵜呑みにしたわけではない。
欧米列強に対して弱者の立場だった
日本の代表として頑張ったんです。

英国外交官、ローレンス・オリファントも
後に岩瀬を絶賛しています。

「日本で出会った中でも最も愛想が良く、
教養に富んだ人物だった」

もし彼がいなければ、日米修好通商条約も
他国との条約も、もっと厳しい条件で
結ばれていたはず…。
もしかしたらすぐに植民地になっていたかも…。

最後にまとめます。

本記事では幕末の条約締結に奔走した
岩瀬忠震を紹介しました。

…ではなぜ、知名度が低いのか?
実はこの後、井伊直弼の安政の大獄で
永蟄居の刑を受けてしまい、体調悪化、
1861年に死去したからです。
いわゆる「明治維新」には
全く関与しなかった。

当時の朝廷、国際交渉の経験は皆無。
「尊王攘夷」の「志士」たちは暴れ回り、
外国人を各地で斬り殺す始末。
「朝廷の許しなく条約を結んだ」幕府を
非難する声が各地で上がっていきます。

対する井伊直弼は、各地で反対派を処罰。
特に、徳川慶喜を次の将軍にしよう、
とする一橋派は、どんどん処罰された。
徳川斉昭、橋本佐内、吉田松陰など。

…岩瀬もそのうちの一人。
さびしく死去してしまい、
その功績は次第に埋もれていきました。

後に明治維新が成った後、
江戸幕府やその施策は悪役になりがち。
「不平等条約を結んだ」という
取捨選択・四捨五入された解釈だけが
前面に出されていきます。


各国の外交官たちに絶賛された
知られざる凄腕外交官、岩瀬忠震。

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