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世界のあしたが見えるまち。
茨城県の「つくば市」は、筑波山の南に
広がって、栄えている街です。
つくばエクスプレス、筑波大学も有名!

この街は自然発生した街ではなく、
戦後、計画的につくられた街です。
様々な「歴史」と「地理」の土台の上に
成り立っている街。

本記事は、茨城県の
つくばの歴史と地理の紹介です。

『つくばねのみねよりおつるみなのがは
こひぞつもりてふちとなりぬる』

和歌に詠まれた筑波山は、
つくばのシンボルです。
筑波山周辺は「平将門の乱」
「天狗党の挙兵」の舞台にもなりましたが、
のどかな田園風景が広がる
「おおむね」平和な地域でした。

明治時代の廃藩置県の末、茨城県が成立。

しかし、県の南部の中心は、
「軍都」としても栄えた隣の土浦であり、
「つくば市」は影も形もありませんでした。

1945(昭和20)年、終戦。
戦後の復興政策の1つとして行われたのが
「東京五輪」の誘致です。
1957(昭和32)年に五輪の開催が決定。

東京では五輪に向けて、
高速道路の建設が進んでいきます。
用地買収が間に合わずに
堀や運河を埋め立てることも多かった。

人口はどんどん流入、水需要は増大。
東京は徐々に「水不足」に陥っていく…。
1961(昭和36)年には
「水飢饉」と言われるほど深刻化します。

その対策として考えられたのが
「国公立研究機関等の地方への集団移転」。
候補地が絞られていきます。

◆富士山麓 ◆赤城山麓
◆那須高原 ◆筑波山麓

この中から選ばれたのが
筑波山麓なのです。

「科学技術の振興のために」建設された、
のではなく、
「東京の都市問題の緊急解決策」
という側面が強かった。

1963(昭和38)年に、
筑波研究学園都市の建設が
閣議了解されます。

1968(昭和43)年、
旧科学技術庁防災科学技術センター着工!
しかしですね、多くの機関は、
すぐには着工されなかった…。
筑波研究学園都市の建設は、
「一時頓挫」に陥ってしまう。

なぜでしょう? …波が去ったのです。

五輪は閉幕して、都市問題も落ち着いた。
「急いで作らなくてもいいんじゃない?」
政府の関心度が低下していた。

このままだとTSUKUBAは、
生まれなかった…?

一時頓挫した学園都市建設を進めるため、
ある法律が制定されます。
1970年の「筑波研究学園都市建設法」。
これによって、ようやく、
国家事業として正式な予算が組まれる。

そう、「閣議了解」されてから、
国の正式なプロジェクトとなるまでに、
7年もの歳月がかかっていた。

しかし、なぜ7年も経ってから
改めてこの法律ができたのでしょう?
…その当時の状況が背景にある。
全国で大学紛争が起こっていたのです。

その解決策の一つとして作られたのが
「筑波大学法案」でした。
学園都市建設法もこの流れの中で作られた。

1973(昭和48)年、
東京教育大学を母体とした筑波大学が開学!

この大学ができたことによって、
学園都市建設が大幅に進んでいきます。

ちょうどその頃、追い風が吹いていた。
「日本列島改造論」の田中角栄さんが
総理大臣に就任していました。

「列島改造だ! さらに街も発展する!」

…しかし、好事魔多しと言いましょうか、
石油危機(オイルショック)の波が襲った。
予算は縮小、都市建設は頓挫。
どうする、どうなる、TSUKUBA!

しかし1975(昭和50)年、
茨城県知事に竹内藤男さんが就任。
彼は建設省OBで、学園都市の
建設プラン作りにも関わった方です。

この竹内県政の下で、
つくば建設が前進していきます。
1980(昭和55)年、
学園都市建設事業の「概成」宣告!

「概ね(おおむね)完成」
という言葉からつくられた造語です。

国公立機関の移転は一通り完了しました。

…しかしですね、機関が移転したから
街ができたとは成らない。
「まちづくり」は、むしろこれから。

道路は整備されず、雨が降ればぬかるむ。
歩くのには「長ぐつ」が欠かせない…。
町の明かりは少なく、夜は暗い。
見上げればそこには「星空」が広がる…。
1981(昭和56)年に
「筑波研究学園都市の生活を記録する会」が
編集した文集『長ぐつと星空』には、
生活の苦悩がたくさん書かれています。

「街らしく」なるためには、
国の力だけでなく民間の活力も必要。

1985(昭和60)年、
「国際科学技術博覧会」が開催されました。
いわゆるこの「つくば万博」
「科学技術都市つくば」の名が知れ渡る…!

会場跡地は工業団地として整備され、
「民間企業が誘致」されていきます。
「常磐自動車道」も整備され、
東京からも来やすくなる。

1987(昭和62)年に4町村が合併。
現在の「つくば市」が爆誕したのです。

…ただ、まだまだ問題はありました。
この学園都市は、もともと
東京の都市問題の緊急解決策として
建設されたものですから、
東京との交通はあえて不便にされていた。

「陸の孤島」と呼ばれていたほど。

その状況が「つくば万博」を機に
変わっていきます。
1994(平成6)年、
「常磐新線」の起工式が行われた。
そう、この筑波研究学園都市が
「首都圏内の地方都市」と位置づけられ、
「東京と直結させる」鉄道の
建設が進んでいったのです!

2005(平成17)年、
「つくばエクスプレス(TX)」が開業。

…ただですね、大都会東京とつながるのは、
光と闇、メリ/デメがあるもの…。

TX開業後のつくば周辺では、
大規模販売店が次々と誕生します。
その一方で、首都圏に
転居していく人も増えてしまい、
これまでつくばを
支えてきた企業や店舗の
移転・撤退・閉店も増えていきます。

2017(平成29)年には街の中心地、
「西武筑波店」が閉店…。

このような状況は「ストロー現象」
という言葉によって説明されます。
「交通の整備によって、
人間の活動はより魅力ある方に移動し、
特色の無い地域は衰えていく」。
このままでは東京に吸い取られてしまう…。

そこで特色を出し、生き残りを図るために、
「つくばスタイル」という言葉が
広まっていきました。

いや、「広めていった」のでしょう。
つくば・TX沿線ならではの
生活をブランド化する言葉!

街の新陳代謝はどんどん進んでおり、
「自立都市」としての模索が
今でも続いている
ところです。

最後に、まとめましょう。

本記事では
つくばの歴史と地理を書きました。

紆余曲折を経て栄えてきた街です。
今後50年のつくば、TSUKUBAは、
どんな歴史を積み重ねていくのか?

「世界のあしたが見えるまち」
一度ぜひ訪れて
考えてみてはいかがでしょう?

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