11激走のトリデ

「働きマン」の逃走 ~鳥見桐人の漫画断面図8~

1、逃走

逃げるは恥だが役に立つ。

ドラマで有名な俳優たちがかわいく踊ったこともあり、一躍有名になったフレーズ。元はハンガリーのことわざだったものを、海野つなみさんが自分の漫画のタイトルにつけた。いわゆる「逃げ恥」である。

俺は、秋の好天の下、草野球の試合を眺めていた。自分でプレイするのはまっぴらごめんだが、観るのはそれなりに好きだ。

一塁と二塁の間に、ランナーが挟まれている。盗塁するぞするぞとリードしすぎて、牽制球に戻り得ず、野手に追いかけられている格好だ。その姿は、一見恥ずかしい。しかし、懸命に行ったり戻ったりしてタッチをかわしている姿は、恥ずかしいながらもチームの役に立つ。もし連携のミスがあって暴投などあったら、ただで進塁できる。

しかし、彼は疲れ果て、タッチアウトとなった。

俺は空腹を覚えて、旧友の漫画喫茶「てなもん屋」で昼食を取ることに決めた。ランチのおともの漫画は決まっていた。「逃げ恥」は、つい先日読んだ。違う漫画だ。俺の脳裏には、安野モヨコさんの「働きマン」のワンシーンが思い浮かんでいた。

逃走する男。追いかける女。

これだけで表現すると、何となくラブストーリーの修羅場かなと思えるが、このシーンにはラブのかけらもない。あるのはビジネス・ワーク・ガッツ。「逃げマン」と呼ばれる回の一場面である。

2、働きマン

ここで登場する「逃げる男」は、契約社員のライター。身分も不安定な彼に、どっと仕事が押し寄せる。仕事のやりがいを、当初は彼も持っていた。しかし、いくら書いても書いても、キャリアアップには結びつかない。自分の名前を出した記事が書けない。功績はすべて他人のものになった。

対して、「追いかける女」は、正社員。雑誌の編集長を目指して奮闘している。夜討ち朝駆けどんとこい、仕事のおともは納豆巻き。上司からも一目置かれ、部下からは(たぶん)信頼されている。性別を越えて「働きマン」と化していた彼女は、しかし疲れていた。体調不良、初めての大チャンス、期待のスタッフは病気で倒れる。一人で膨大な仕事をこなさなければ、道はない。徹夜必須。「働き方改革」のかけらもない、週刊誌編集の修羅場。

そこから男は逃げた。バックレた。
しかし、罪の意識から、いったん戻ってきた。よせばいいのに。
何か手伝うことはありますか。遅すぎるフォロー。
女は鬼の形相で追いかけた。叫んだ。男は恐怖のあまり再び逃げた。

「手伝う」じゃねーよ!! てめーの仕事だよ

「働きマン」は、21世紀が始まったばかり、ITバブルの華やかな頃に生まれた漫画である。当初は爽快だった物語も、徐々にその闇を増してくる。この漫画は群像劇だ。登場人物たちは、それぞれの立場で仕事をする。中には「仕事しないマン」も現れる。女性の武器をうまく使い、立ち回る。仕事をしないのに功績は上がる。自分を客観的に見て、自分だけにしかできないことをやる。「追いかける女」とは真逆である。

彼氏を失う。年齢は容赦なく重なる。作者の安野モヨコさんは、この作品を「リアル寄り」の作品だと語る。リアルに寄っているがゆえに、例えば女性が易々と女性編集長となり、女性社長となるドリーム展開にはできなかったと言う。苛烈さを増す週刊誌業界の中でそれをやっては、すべてが絵空事になってしまうと。そして漫画は、4巻分の分量を世に残し、休載する。

しかし、と俺は言いたい。だからこそ「働きマン」は、世の中の「働く人たち」の胸を打つのだと。

逃げるは恥だが役に立つ。
「手伝う」じゃねーよ!! てめーの仕事だよ

この一見、相反するセリフを、どう昇華させるべきか…。

俺は「てなもん屋」のドアを開けた。

3、逃走と闘争

「どうした、桐人。気難しい顔をして。腹でも減ったか」

「…日替わりランチ。あと、働きマンの逃げるやつ」

「ほい、2巻」

奴は漫画の検索に関しては誰よりも速い。俺のオーダーにすいすいと答えて、ランチの準備に奥へ入った。俺は2巻を読み始めた。

なぜ、男は戻ってきたのだろう。それまでの騒がしい修羅場から、あまりにも静かな環境へ。これは、激務から退職した人間すべてが感じる平安だろう。もうあそこでは働かなくていいんだ…。しかし、この平安が、逆に彼の罪の意識を育てる。逃げてしまった。見捨てて逃げてしまった。その意識に、彼は負けた。戻った。一度逃げてしまったからには、もう自分の仕事ではないだろう。その思いから、せめて今からでも「手伝う」ことはないか、と女に問いかけた。

その一言が、手負いの猛獣を逆上させた。「手伝う」じゃねーよと。

つまり、この状況においてもなお、女は逃げた彼の仕事だと言っているのである。仕事をいったん任されたのであれば、やりきるのが仕事人だろう、と叫んでいるのである。正論。そこから男は逃げたのだ。そこを女は責めているのだ。どちらが悪いのか。男の中では自分が悪いと責め、女の中では男が悪いと責めている。この2人の主観においては、罪は明白である。

ここで(内心の激怒を押さえて)ニッコリと笑って、少しでも「手伝って」もらえれば、女の仕事の負担も減ったろう。しかし、彼女は許せなかった。「手伝う」と表現されたことにである。その結果、男は再び「恥の上塗り」をして逃走し、女は体力を浪費してうずくまった。どちらにもさらにダメージを残す再逃走劇であった。

単純な仕事論としては、取るべきだった行動は明白だ。急な人員不足に備えてスタッフを揃えておく。契約社員である彼のプライドと立場を尊重し、単純作業だけでなくやりがいのある仕事を与える。管理職や部下に救援を依頼しておく。体調不良にならないよう、自己管理を徹底する…。

しかし、どんなに人事を尽くしてもなお、キャパを越える修羅場は出現してしまう。その際に、逃げるのか、やり通すのか。「働きマン」は、「逃げる男」と「やり通す女」の対比を通じて、「働き方改革」の世の中を生きる我々に、「仕事とは何か」という命題を突きつけてくる。

…奴が手招きしている。スタッフルームでランチを食えと言っているようだ。奴も「働きマン」は大好きだ。ついでに語りたいのだろう。

「俺はな、桐人。どちらかじゃない。どちらもありだと思っている」

今日の日替わりのメイン、ハンバーグチャーハンを食べ始めた俺に、奴は話し出した。このワンシーンについて。

「逃げる。やり通す。問題は正邪じゃない。タイミングと覚悟なんだ」

「というと?」

「このシーンで、男は最も逃げてはいけない場面で逃げた。残された女が最もダメージを喰らう場面でな。しかも無断で。それはいかんと思う。逃げるにしても、タイミングがある。事実、この行動によって、彼は多くの将来を失った」

…先日、奴はバイトが1人、無断退職してしまったことを嘆いていた。経営者として、感じるところがあるのだろう。

「しかし、それほど切羽詰まっていたんじゃないか?」

「そこで、覚悟の有無が必要となる。逃げるなら、覚悟を持って逃げ切るべきなんだ。いったん戻って手伝うなんて言っちゃだめだ。ただ目の前の苦痛から解放されたくて、男は逃げた。そうじゃなくて、綿密な作戦と不退転の覚悟をもって退転するべきなんだ。いったん振り返って逃げたら、再び振り返ってはいけないよ。残されたものが逆に困惑する」

「不退転の覚悟を持って退転する、かよ」

「そう。逃げることは恥だけど、その恥をも受け入れて逃げるべきなんだ。その覚悟が、この男には足りなかった。仕事から解放される楽しみと、仕事につながっておく安心感。その二兎を得ようとしたから、仕事をやりきる、死んでもやりきってやるという、究極の選択をすでに下していた女に罵倒された。やるならやれよ、やらないなら最初から断れよ、と」

「しかし、その白か黒かという選択は、生きづらいんじゃないか?」

「…多くの人間は、そこまで竹を割れない。なんとなく妥協して、なんとなくぼんやりと働く。おそらく『働きマン』は、時代の変わり目の混沌とした状況の中で、様々な仕事観がありますよ、1つだけじゃないですよと我々に示してくれた漫画なんじゃないか。だから群像劇なんだ。その証拠として、逃げる男の心情も描けば、周囲の人物の思惑も描いている。1つの主観だけじゃない。逃げる、やりきる、の是非を問うているわけじゃない。どこまで自分の仕事観を客観視して、どこまで作戦と覚悟を持って動いているのか、それこそを世に問うているんじゃないか?」

「だからこの、建前と本音、仕事とプライベート、本業と副業、『働き方改革』の号令の元、境目が溶けている今の時代においては、追いかける女の、竹を割ったような思想と行動がまぶしいってわけか」

「漫画だからな。あえて誇張して描いている。この漫画の群像の中には、おそらく読者によって、理解できる仕事観と理解できない仕事観があるだろう。それでいい。人間は千差万別だから。色々な仕事観を持った人同士が、せめぎあって働くのが、組織であり世の中なんだ。その点において、この漫画ほどリアルを描き出している作品はないように思う」

奴は、氷水をグッとあおると、決め台詞のように言った。

「逃走も闘争だってことだ」

(つづく。逃げるなら全力で…)

4、「令和の働きマン」も読みたいです…

いかがでしたでしょうか?

今回は安野モヨコさんの「働きマン」より、「逃げマン」のワンシーンを取り上げました。登場人物は固有名詞を出さずにぼかしています↓。

4巻で休載になったのがつくづく惜しい作品です。安野さんの体調と心情が整ったら、ぜひ「令和の働きマン」を読んでみたいものです。今のSNS全盛時代なら、オンラインサロンとか電子書籍週刊誌とか作れそうですが、ただそうなると、この修羅場の舞台設定自体がなくなりそうですね…。

海野つなみさんの「逃げるは恥だが役に立つ」はこちらから↓。

結婚後の第2部も始まっていますので、さらに楽しみですね!

なお、安野モヨコさんの他の作品では、あの超有名な監督との生活を描いた「監督不行届」がおススメです↓。

逃げ恥の夫婦も面白いですが、この夫婦も面白いですね…。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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