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伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣。

日本の近代化を進めた政治家と言えば、真っ先に彼の名前が挙がっても良いだろう。ところが、彼もまた賛否両論にさらされて、「掛け値なしの英雄」とみなされることは、少ない。

「否」のほうから先に言えば、やはり1910年の「韓国併合」までの流れの、象徴的な人物というイメージが根強く影響している。1905年に、彼は韓国統監府という組織の初代統監に就任した。日本版帝国主義の象徴として、特に朝鮮半島に住む人たちからの評判は、悪い。彼自身は1909年に暗殺されたのだが、暗殺者は「国民的英雄」「義士」としてたたえられている。

だからと言って「賛」の功績が全くない、とも言えないだろう。彼は、幕末以後、明治時代にかけて日本の政治の中心にあり、日本の近代化のために力を尽くしてきた。そんな彼の人生を見てみよう。

1841年に長州藩(現在の山口県)に生まれた彼は、いわゆる「志士」として奔走した。吉田松陰の「松下村塾」に入り、幕府を倒すために全力を注ぐ。桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作といった、維新の英雄たちとともに行動した。「俊輔(伊藤)には、周旋(政治)の才がある」と、師の吉田松陰は評価したという。軍事や謀略より、彼は人と人とをつないで、物事をまとめて進めることに力を発揮した。

明治維新後、1871年、廃藩置県の年。彼は「岩倉使節団」の一員として、欧米に旅立った。近代化を進めるために欧米諸国を見て回ることは、明治の新政府にとって必要不可欠。…しかし実は、彼にとって、これが初めての海外渡航というわけではなかった。

維新前の1863年に、密かにイギリスに留学していたのである。彼と4人の仲間は、合わせて「長州ファイブ」などと呼ばれていた。尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、彼は欧米の近代文明をその目で見た。その上で岩倉使節団の副使として、彼は再度、欧米諸国を目の当たりにすることになるのだ。人間だれしも、1回目は情熱的なお試し、2回目から冷静に客観的に見ることができる。この「留学経験の豊富さ」こそが、欧米を手本にして近代化を進める明治新政府にとって、出世へのパスポートであった。

使節団の帰国後、1877年に西南戦争が起きる。一言で言えば、西郷隆盛と大久保利通の国家観の違いによる、旧薩摩藩の重鎮同士の同士討ち。彼はこの流れの中で、大久保と親しくなった。大久保が暗殺された後は、後を継いで内務卿に就任する。自由民権運動の高まりの中、1881年(明治14年)には急進的な大隈重信を下野させつつ10年後の国会開設を約束し、政府の中心人物となっていった。

1882年、自身3度目のヨーロッパ留学に出発。目的は「憲法の調査」だ。主な訪問先は、当時強国としてぐんぐん国力を伸ばしていた、プロイセン(ドイツ)。

ここで学んだことを活かして、彼は1885年に「内閣制度」を作った。他の政治家たちは人事に注目した。…さて、誰が初代内閣総理大臣に就任するのか?

有力な候補は2人いた。1人はもちろん伊藤博文、もう1人は、公家の三条実美(さんじょうさねとみ)であった。

この2人、対照的すぎる。伊藤博文は、長州藩の貧乏な家の出だ。一方、三条実美は、貴族の中の貴族、名門の出身。伊藤は、政治の能力は申し分ないとしても、元の身分があまりにも低い。いくら「四民平等」とはいえ、そんな人物を政治のリーダーにして良いものだろうか? まとまるのか。ましてや、天皇を中心とした「朝廷」が上に立つことで成立した明治政府だ。結局は、三条が総理大臣になったほうが良いのでは…?

そんな空気を打ち破った男が、いる。彼の盟友、井上馨(いのうえかおる)。「長州ファイブ」の1人、古くからの同志だ。彼は、こう主張した。

「これからの総理は、赤電報(外国電報)が読めなくては、だめだ!」

…正論だ。みんなが、なるほど、と思った。これで決まった。近代化のためには、外国からの情報を自分自身でつかみ、咀嚼して、うまく取りこむことが不可欠だ。こうして3度もの留学経験のある伊藤博文が、初代内閣総理大臣に就任する(全部で4回も総理大臣に就任することになる)。

…結果的に言えば、この「内閣制度」が、近代日本の政治の原点の1つになったと言っても良い。

江戸幕府の頃は、大老や老中はいたが、政治のトップは何と言っても将軍だ。明治新政府ができた頃は、大久保利通などの力のある政治家が主導して政治を行った。それに対して内閣制度は、それぞれのジャンルに専門家の大臣を置いて、しっかりと役割分担をして政治を行う仕組みだ。しかも新しい総理大臣が組閣することで、(基本的には)平和のうちに交代することもできる。1人もしくは少数で政治を行う仕組みから、集団体制で専門的に政治を行う仕組みへの改善。もちろん立場上、明治天皇は上にいる。軍隊や議会も力を持っている、しかし、刻一刻と複雑になる近代の政治状況に対応していくために、この内閣制度は必要不可欠だった、と言える。

彼はその後、憲法制定に着手した。1889年には「大日本帝国憲法」が発布され、1890年には第1回帝国議会が開催された。「イチハヤク作る帝国憲法」という覚え方とともに、この比較的早い段階でアジアにおいて近代憲法を備えられたのは、彼の功績が大である。

その5年後、1894年に日清戦争が起こる。彼はその時、2度目の内閣総理大臣を務めていた。1895年には、下関条約に調印。そのあとの、三国干渉・日露戦争の流れの中でも、彼は常に政治の中心にいた。1900年には、政党の立憲政友会を結成し、初代総裁を務めている。議会を中心とした新しい政治の形も、ゆっくりだが徐々に軌道に乗せた。

数々の政治上の功績から、彼は「日本のビスマルク」と呼ばれた。ビスマルク。プロイセンの宰相で「鉄血宰相」とも呼ばれた、不撓不屈の政治家。彼自身も、ビスマルクになぞらえて呼ばれることに、誇りを持っていたであろう。

…ところが一方で、彼には「箒(ほうき)」という異名もあったそうだ。

「掃いて捨てるほどいる」という意味。何が? …女性だ。彼は、とほうもない数の女性を愛した、と言われる。もし現代であれば、真っ先に「文春砲」に撃たれて、政治的生命が無くなっていただろう。歩く女性スキャンダル。叩けばホコリがばんばん出る。しかしそんな彼にもポリシー?があり、「その地方で一番の芸者には手は出さない」ことを心掛けていたそうだ。一番の美人には、その地方の政治家がバックについていることが多いから。手を出せば彼らを敵に回してしまう。だからこそ、二番手・三番手の芸人を相手に遊んでいたそうである。

政治の達人、第一人者でありながら、あえて二番手・三番手の人にスポットを当てて、深く愛でる。これは「集団」「数」「役割分担」を重視する、近代的な政治の力学にも、通底する。

まとめよう。伊藤博文は、公私ともに、たぐいまれな「箒」の使い手であった。

うまく物事をまとめ、うまく箒できれいに掃き清めて、数を揃え、環境を整える。そんな「周旋の達人」であったように思われる。

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