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コロリョフと大鵬 ~インディギルカ号と三船~

歴史は紙一重の差で違う運命を用意する…。
歴史を紐解いていくと、
そんなことを感じることがあります。

コロリョフ、という人がいました。

セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ。
1907~1966年。
ソ連のロケット開発に従事した人で、
アメリカのフォン・ブラウンとともに
「米ソ宇宙開発競争」の立役者として
その名が知られています。

大鵬、という人もいました。

本名、納谷幸喜さん。
1940~2013年。
ウクライナ人の父親を持つ巨漢の美男子。
後に角界入り。
「巨人、大鵬、卵焼き」という
流行語が生まれるほど、絶大な人気と
知名度を誇った「昭和の大横綱」です。

住む世界も活躍した舞台も異なる
二人の巨星…。

しかし実はこの二人には共通点がある。
それは、紙一重の差で
北海道沖に沈んでしまうところから、
ちょっとした運命の差によって
助かった、という点です。


本記事では、その不思議な事件のことを
書いてみたい、と思います。

コロリョフは、航空機の研究者で技術者。

オデッサ、キエフ(キーウ)、
モスクワなどの学校で学び、
1933年にはソ連で初の
「液体燃料ロケット打ち上げ」に成功!
ジェット推力研究所の所長にも就任します。

…ただ、当時のソ連では
密告、粛清、そういったものが
非常に多かった。
1938年、コロリョフは逮捕されます。
仲間からの告発、冤罪によって。

拷問を受け、自白を強要させられ、
「シベリア送り」になります。
モスクワから、約6000キロも東に…。

コルィマ鉱山。
カムチャッカ半島より北のほうの金鉱山。
作家のソルジェニーツィン曰く、
「冷酷さと残酷さの極み」!
この流刑地で強制労働をさせられる。
鉱山の最盛期には、マガダンという港に
船で到着してから鉱山で斃れるまで
「平均寿命3週間」とも言われた場所。

行ったら、まず帰ってこられない…。

ただ彼には、たぐいまれな才能がありました。
それを知っている人も多かった。
学校の先生たちの懸命な嘆願運動もあり、
彼は減刑され、モスクワの科学者刑務所に
移ることになった。九死に一生を得ます。

シベリアの東端からモスクワに戻るには、
ウラジオストクの港まで船で行き、
シベリア鉄道に乗るコースになります。
彼は、オホーツク海の北方、
マガダンの港からウラジオストクの港へ
船で向かうことになりました。

1939年のことです。
「インディギルカ号」
という船に乗る予定だった。

しかしマガダンの港に着いた時、
この船はすでに満員になっていました。
早く戻りたい気持ちを押さえ、
次の号に乗ることになった、と言います。

…このインディギルカ号が、
水難事故に遭い、沈没するんです。
約700名以上もの乗客が海に沈んだ。

北海道の「猿払村」と言えば、
北の端のあたり、ホタテの水揚げが多い
場所として知られています。
インディギルカ号は暴風雨のために
宗谷岬の位置を見誤り、漂流。
猿払村沖の浅瀬に座礁し、浸水。
SOS信号が出され、
猿払村の住民が総出で救出に当たります。
約400人ほどの乗客が、助かった。

当時の船長は、
「乗客は漁業者だ、カムチャッカ半島から
引き揚げてくる時に遭難した」と
説明していたそうです。
ソ連政府は日本政府に、
「船は放棄、遺体の収容不要、遺品も不要」
という連絡をしてきています。
助かった乗客は小樽から
ウラジオストクへと帰っていきました。

長らく謎に包まれていた事件…。

ソ連が崩壊後の1991年、
この謎の一端が明らかになります。
「乗客は強制収容所からの送還者だった。
当時のソ連はシベリア送りの全容が
知られることを恐れて、日本側に詳しく
説明しなかったのではないか」と…。

「道の駅さるふつ公園」の近くには、
今でもこの事件の慰霊碑が建っています。

なお、タッチの差で
この難を逃れたコロリョフは、
戦後のソ連で宇宙事業に従事。
1957年には「スプートニク1号」という
世界初の人工衛星を打ち上げに成功。
1961年にはガガーリン飛行士による
有人宇宙飛行を成功させました。

さて、このインディギルカ号事件から、
六年後のことです。

世界の情勢は、第二次世界大戦。
日本はポツダム宣言を受諾し、
無条件降伏をします。
これが1945年、8月15日。
ただその前、8月8日にソ連は対日宣戦布告、
満州や朝鮮や南樺太へと攻めてきました。

樺太(サハリン)から長官命令が出されて、
老人、児童、女性の本土への送還が決定。

「大泊」という南岸の港から、
稚内に向けて船を出すことになります。
いったん稚内に行き、次いで小樽に向かう。
(稚内からは鉄道の便が少ないため、
そのまま船で小樽に向かう人も多かった)
宗谷丸、小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸。
これらの船に分かれて、送還民を乗せて、
順次出港していきます。

…ただし、このうち、
小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸の
三つの船が「謎の潜水艦」から攻撃される。
小笠原丸と泰東丸が、沈没したのです。
『三船殉難事件』。
合わせて、約1,700人が犠牲となりました。

…当時、5歳の大鵬は、
小笠原丸に乗っていたそうです。
しかし、稚内で下船して、
直接、船では小樽には行かなかった。
母親が船酔いと疲労による体調不良になり、
いったん船を降りたんです。

小笠原丸は、稚内から小樽に向かう途中で、
潜水艦の魚雷を受け、沈没しています。

紙一重で難を逃れた大鵬…。
その後、家計を助けるために自ら
納豆を売り歩く生活をしたと言います。
定時制の高校に通いつつ、
林野庁関係の仕事で働いた。
1956年、二所ノ関部屋が巡業に来た際に
紹介されて、高校を中退、角界入り。
その後の「昭和の大横綱」としての活躍は、
記録と記憶に残っている通りです。

なお、三船を攻撃した潜水艦は、
公式には現在でも「国籍不明」です。

北海道の留萌(るもい)などには
この事件の慰霊碑が建てられて、
1984年には慰霊の送り火を開始。
毎年八月には、黄金岬で
送り火が行われているそうです。

最後に、まとめます。

本記事では、いまだ謎の多い
「インディギルカ号沈没」と
「三船殉難」の事件を
コロリョフと大鵬の人生と絡めて
書いてみました。

人に歴史あり、と言います。

いま現在、ご活躍されている方にも、
見えないご苦労があったかもしれない。
ちょっとした紙一重の差で
全く違う人生になったかもしれない。

ましてや、これから活躍される方は
今日、何かのきっかけで
人生が変わっていく、かもしれない。

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