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個人としては素晴らしい人なのに、
集団の中の個人としては顔が見えない。
逆に
個人としてはパッとしないのに、
集団の中の個人としてはイキイキしている。

色んなタイプの人が、います。
人が集まり、集団ができれば、
「分業」「立場」「役割分担」が
行われていることが多いものです。

これは、評価する人自身の
ものの見方にもよるところが多い。

母数を多くすればするほど、
「個人」は集団の中で個性を失い、
ある要素だけを取捨選択して見ざるを得ない。
集団としてこのような傾向があるな…、
という「漠然とした」捉え方になりがち。

例を挙げましょうか。

例えば「日本人」というくくり。
海外の人から見れば、集団としての日本人は

◆「ほぼ同じ言語(日本語)を話す」
◆「自己アピールがあまり上手くない」
◆「慎み深く、真面目で礼儀正しい」
◆「漫画やアニメに詳しい」

こんな評価を、されがちです。
ところが、実際に個人単位で見てみると

◆「方言や言葉遣いが違う、多言語の人もいる」
◆「プレゼンや自己主張が絶妙な人もいる」
◆「怠け者もいれば勤勉な人、粗暴な人もいる」
◆「全く漫画やアニメを見ない人もいる」

そういう、個別の評価になります。
…これはしごく当たり前のことですよね。
人間はそれぞれ、個別の脳みそを持った
千差万別な生き物
なのですから。

何が言いたいのかというと、
私たちはつい、日々の忙しさにまぎれ、

『十把ひとからげにして、抽象的過ぎに
人の集まりをとらえていないでしょうか?』

という注意喚起を提案してみたいのです。

◎(注)十把ひとからげ
じっぱひとからげ、十把一絡げ。
十把=把は助数詞で「十の束」。
からげ=くくる、ひもで縛る。
つまり「多くのものを一つにまとめて
個性を考えず同じように扱う」
の意味。

…ある国の指導者を見ただけで
「ああ、この国は全員、
この人と全く同じ考えをしているんだ」
と思い込んでいないか?

…ある会社の社長さんを見ただけで
「ああ、この会社の人はだいたいが
こんなキャラをしているんだ」
と思い込んでいないか?

往々にして、ある集団の指導者は、
その集団を代表はしているものの、
集団の中では異端・異能・異才を
持っていることも多い。
権力やシステムによって仮にその場に
君臨していることも多い。
「全会一致」でないことも多いのです。

だからこそ、トップという、
他の人とは異なる立場にいるとも言えます。
そのことを、集団の「中」にいる人は
よく知っている。

ところが、「外」から見た場合は、
その集団を把握したい、と思うがあまりに
「あの集団はこういう人の集まりだよね」と
わかりやすいシンボル「のみ」を指して
集団を理解しようとしがち
なものなのです。

実際には、色んな人がいるのに…。
トップだけが、違うかもしれないのに…。
その人の背景に控える
人たちにまでは、想像が及びにくいのです。

さて、読者の皆様におかれましては、
また、皆様の職場におかれましては、
ある集団を見る時に
個人の顔を思い浮かべて評価していますか?
「その上で」全体の傾向を把握していますか?

個人を考慮せず、
一人一人は違う、という前提をすっ飛ばして、
全体の傾向「のみ」を
把握しようとしていないでしょうか?

もちろん、抽象的に概念的に
とらえようとすることは時短にもなりますし
良い点も、あります。
しかし、それが行き過ぎると
「とんでもない誤解」も生じやすくなるもの。

…と、書いている私も
「〇〇という国では」と大雑把に考えたり
「この会社だから〇〇だな」と決めつけたり
そういうことが最近、多かったようです。
本記事は、自戒を込めて書いております。

皆様自身の「外からの」評価は、どうですか?
「個人としての評価」を受けていますか?
「中の人」として評価されていますか?
それとも集団の「看板」としての評価ですか?

集団の中での役割、立場、それに基づき
慎み深く働くことは
とても立派なことだとは思いますが、

「埋没」はしないように
心掛けたい
、そう思っています。

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