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学校の授業において歴史の授業というのは
「好き」/「嫌い」、「得意」/「苦手」に
二極分化しがちなものである。

目を輝かせて楽しみにしている人もいれば
「寝る時間」と決め、聞く気のない人もいる。

どうしてこんなに差が出るのか?

私はその原因の一つに、
歴史を「自分が登場する物語」として
感じられるかどうか、
言い換えれば「自分ごと」として
とらえられるかどうかが
二極分化している現状がある
、と思う。

自分史(個人史)、家族史、市町村史、
都道府県史、日本史、世界史…。

本来ならば、まずは
自分自身の歩み(歴史)を考え、
それに大きく関係する人たち、
つまり家族等の歩み(歴史)を考えて、

その上で今いる場所の成り立ち、
街や都道府県などの歴史を踏まえて、

日本史などの「国」のレベル、
世界史などの「世界」(人類)のレベルの
大きな範囲の歴史を学ぶべきだろう。

まずは「自分」からスタートするべき。
順番が、大事だ。

この順番で、接続が重層的に積み重なった
児童生徒が、日本史や世界史を学んだ時、
自分という存在を
その歴史の中に位置付けることがしやすい。
言い換えれば、
「自分が登場する物語」として
学ぶことが、できやすいだろう。

ところが、その段階を踏まず、
言うなれば、円滑な接続ができずに、

いきなり「テストに必要だから」などで
日本史や世界史を学んでしまうと、
自分自身には全く関係ない、
「どこかの誰かの、自分には関係ない物語」
として、学ぶことになりかねない。

そうなってしまった場合、
(歴史そのものが好きとか
推しの登場人物が
いるのならばともかく、
そういうものがなければ)
これほど苦痛な学習も、ないだろう。
興味もない「他人の物語」を
えんえんと聞かされることほど、
辛いものは、ないと思う。

眠気も襲ってくる、というものだ。
ましてや、歴史の先生は
歴史が大好きな人が多いので
聞き手の心情に気づかないこともある。

歴史学習に興味を持たせるためには、
まず何よりも興味があるはずの
「自分」の過去・現在・未来へと
目を向けさせるべきだ
、と思う。
そこから、なのである。

堅い言い方をすれば「歴史的なものの見方」
これをいかに早い段階で
経験させ、身に付けさせていくか?
歴史が入る「器」をまず作らないと、
水(知識)をいくら入れようとしたところで、
水がたまっていかないのと同じだ。

…以上のことを、組織運営に援用してみよう。

ある組織全体の歴史、物語を、
「自分ごと」ととらえられるかどうかは、
主体的に動けるかどうかのカギになる。

創業者の社長なら、自分ごとと感じやすい。
組織の歴史=自分の歴史だ。
おれ=会社だ、文句あるか!
一人親方、ワンマン社長になればなるほど
そういう心情を持ちやすい。

しかし、他の人はそうではない。

会社がどうなろうと、どこ吹く風。
会社のこれまでの歩み、これからの歩みを、
「どこかの誰かの、自分には関係ない物語」
ととらえるなら、どこまでも他人ごと。
そういう人も、組織には、いる。

もちろん、すべての組織が、
すべてその構成する人に対して
「自分ごと」ととらえさせなければならない、
ということでは、ない。
組織が大きくなればなるほど、
待遇や立場、責任の大きさも変わっていき、
自分ごと・他人ごとととらえる人の格差も
また大きくなるものである。
バイトの人に、社長並みのことを考えろと
いうのは、構造的に難しい。

ただ、極端な話、会社のことを
社長「だけ」が「自分ごと」として考え、
他の全員が「他人ごと」として考えていたら、

いざ何か組織に大問題が起きた際に
あっという間に組織は分裂、四散するだろう。

そうならないように、
いかに「自分ごと」として考えさせるか?
そういうことを考えさせる時には、
上記した「自分ごととしての歴史学習」の
方策が活かせるように思う。

大手の企業などは「愛社精神」を育ませるため、
社史という「作られた物語」を「研修」などで
触れさせることも多いのである。

ただし。個人の視点から考えると。

一社専従、終身雇用の世の中ならともかく、
副業複業、転職全盛のこの世の中では、
「この会社しか、自分にはない!」
「この組織の歴史=自分の歴史!」と
思い込むと、むしろ生きづらくなる。

日本史で、様々な立場の人の視点を学び、
世界史が、様々な国の視点を学ぶように、
(そうなっていない歴史学習もありますが…)

『複合的な歴史のものの見方』をこそ、
身に付けたいものである。
自分の働き方を主体として考えるなら、
『「複業的な」歴史のものの見方』だ。

そのためには、順番的には、
「いきなり社史」「唯一絶対の歴史」
から始めるのではなく、
「はじめに自分の存在があり、この組織の中で、
それはどのように位置づけられるのか」を
まず考えていくことこそが望ましい。
その見方は、ひいては、
「自分の歴史『の中で』、この組織『が』
どのように位置づけられるのか」

考えていくことにもつながるだろう。

こういう歴史的なものの見方は、
一社だけしか経験していない場合には、
なかなか実感としては身につきづらい。
無意識のうちに、組織の経営陣の望むような
「愛社精神」を植え付けられやすいからだ。
愛社精神は、しばしば、排他的になる。

もちろん、一社専従という働き方
そのものを否定するものではない。
そういう状況に置かれている人は、
複数多社を経験している人よりも、
自覚的に貪欲に、
他者・他社の視点を学ぶ必要がある、
と言いたいのだ。

社史がまずあって、家族史、自分史(個人史)
の順では、ない。
自分史(個人史)から、家族史を踏まえ、
その上で社史を組み込むべきだ。
いきなり「昇進に必要だから」と
社史を学んでも(学ばせても)、
苦痛で眠たくなるだけなのである。

以上、今回は、歴史学習を皮切りに、
組織に対するものの見方について
書いてみました。

読者の皆様は、いかがでしょうか?
『「複業的な」歴史のものの見方』は
お持ちでしょうか?

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