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小五郎、と言うと「コナン君」で出てくる
「毛利小五郎」のほうが
有名になっていますけれども、

史実では『桂小五郎』のほうが
圧倒的な存在感を保っています。
桂小五郎、後の名を
木戸孝允(きどたかよし)
幕末の長州藩の志士。

毛利家の家臣でもありましたから
創作の「毛利小五郎」の名前は
この人から採られたのでしょう。

漫画『だんドーン』
幕末の薩摩藩を中心に描いている
秦三子(やすみこ)さんは
同作の5巻のコラムの中で、

『「逃げの小五郎」の実態は
「周りが命をかけてでも
桂小五郎を逃がしていた」
だったようです』

と表現しています。
『逃げの小五郎』という異名が先行し、
どうしても「逃げ回っている」イメージが
強い桂小五郎(木戸孝允)なのですが、
「彼さえ生き残っていれば
何とかなる…」
と周囲に思わせるような
かなり魅力あふれる人だったようです。

本記事では西郷隆盛、大久保利通とならび
「維新三傑」と称された桂小五郎を、
『逃がされた小五郎』という視点で
書いてみたいと思います。

1833年(天保4年)に生まれて、
1877年(明治10年)に亡くなる。
桂小五郎(木戸孝允)の生涯は、約44年です。

1853年が「ペリー黒船来航」ですから、
20歳頃にこの事件に遭遇している。
…まさに「幕末~明治維新」の
ど真ん中に生きた人
ですね!

幕末の長州藩で有名なのが『松下村塾』

ご存知、吉田松陰の塾です。
もっとも彼がひらいた塾ではなくて、
叔父の玉木文之進がひらいた塾。
吉田松陰がこの塾で教えていたのは
1857~1858年あたりの
ほんのわずかな時期でしかありません。

その吉田松陰の生涯は、
1830~1859年。わずか29年ほど。

◆桂小五郎:1833~1877年
◆吉田松陰:1830~1859年
◆黒船来航:1853年

つまり、桂小五郎にとって
吉田松陰は「先生」というより、
「3歳年上の友人」のような
感覚だったように思われます。
松陰のほうも小五郎を『門弟』ではなく、
「3歳年下の友人」と思っていたのでは…。

小五郎は、藩医の家の生まれです。

和田昌景という人が実父。
実は「和田小五郎」だったんですね。
しかし7歳で養子に入る。
桂孝古という人の家に。

この桂氏は鎌倉時代の大江広元を
祖として持つ由緒正しい家柄です。
江戸時代は「家」が何より大事。
桂孝古は子どもを先に亡くしていた。
和田小五郎を「末期養子」に迎える。
亡くなる前に養子をとって家を継がせる。

こうして「桂小五郎」になった彼は、
相当に優秀だったようです。
藩主である毛利敬親に
漢詩と孟子の解説をして褒められている。
「若き逸材」として名を高めていきます。

剣術もできる。柔術もできる。
弁舌爽やか、勉強もすごい。
しかもイケメン。
まさに絵に描いたような「陽キャ」。

この彼に、運命の出会いがある。
1849年、藩校の明倫館で
兵学師範になっていた
吉田松陰に兵学を学びました。
…つまり、桂小五郎は
松下村塾で学んだわけではない。
あくまで藩校時代の松陰の講義を受けただけ。

しかし吉田松陰は、
この桂小五郎をベタ褒めしています。
(もっとも彼は門人の良いところを
見つけて伸ばす天才でもあるのですが…)

◆「事をなすの才あり」
◆「我の重んずるところなり」

よほど信頼していたんでしょう。
小五郎もまた、松陰に一目置いた。
…しかし幕末における松陰の行動は
あまりにもフリーダムでした。

1852年、ペリー来航の前年、
宮部鼎蔵らと東北旅行を計画。
出発日の約束を守るため、
藩からの通行手形の発行を待たずに脱藩。
「公務員がパスポートも持たず
いきなり無断退職して海外旅行に行く」
レベル。
ふつうは処刑されます。
しかし藩主お気に入りの松陰は許される。

1853年、ペリーが浦賀に来航すると、
旗艦ポーハタン号に無断で乗り込もうとする。
これも、即、処刑レベル。
ですが牢に入る程度で許された。

1857年、松下村塾で講義。

1858年、日米修好通商条約が結ばれると
老中暗殺を決意。
藩に「大砲を貸して?」と頼んで拒絶される。
さすがの門人たちもドン引きして離れていき、
再び牢屋に入れられます。

それで1859年に「安政の大獄」で、
老中暗殺計画を自ら告白して
処刑される
んですね。享年29歳。

「諸君、狂いたまえ」が松陰の口癖。

…おそらく、その生きざま、有言実行を
これでもかと見せつけることで
門人が「決起」することを望んだんでしょう。

さて、この松陰の生きざまを
見せつけられた「友人」小五郎は
どうしたのか?
…松陰の門人たちが次々と「狂っていく」中、
その人たちをうまく調整し、使って、
討幕へと奔走していく
んですね。
彼の心にもまた、松陰の言葉が響いていた。

たぶん小五郎がいなかったら
長州藩はあっという間に四散、
滅亡していたのではないか。
危ない綱渡りの長州藩の「事前調整」と
「事後処理」を行う男…。
(組織に一人は欲しい人材ですよね!)

だからこそ「逃がされた」。

もちろん自分から「逃げて生き延びた」部分も
あったとは思いますが、
それ以上に周囲が「桂さんだけは何としてでも
生き延びらせろ!」と助けていたと思います。

◆1863年 長州藩攘夷実行(外国艦隊に砲撃)
◆1864年 池田屋事件(新選組による襲撃)
◆1864年 禁門の変(京都から追い出される)
◆1864年・66年 長州征討

激動の幕末にあり、
ひたすらに小五郎は調整と処理を行う…。
止めるべくは止め、行くときは行く…。

1864年、第一次長州征討を機に、
松陰の門人、高杉晋作が
藩でクーデターを行います。
禁門の変の後、但馬出石に
逃げていた(逃がされていた)小五郎は、
藩の統率者として迎えられる。

「山口をはじめ、長州では、
大旱(ひどい日照り)に
雲霓(雨の前触れである雲や虹)を
望むごときありさまだった」

小五郎が帰って来た時のことを、
松陰の門人、後の初代総理大臣の
伊藤博文はこう語っています。

日照りの際の恵みの雨…。

それほど桂小五郎は慕われていた。
その後、藩の舵取りをした小五郎は、
薩長同盟、戊辰戦争を経て
明治時代へと突き進みます。

最後にまとめましょう。

本記事では「逃がされた小五郎」こと
桂小五郎(木戸孝允)について書きました。

彼は明治新政府において
廃藩置県、四民平等、三権分立、
議院制と法治主義の確立など、
多くの「近代化」政策への
提言を行っていきます。

1877年、西南戦争の年に亡くなる。

幕末~明治維新の激動にあって、
最前線にありながら
時には「逃げ」時には「逃がされて」
時代を動かした小五郎…。

早稲田大学の創始者、
大隈重信の小五郎評で締めます。

『独り、我輩が敬服すべき政治家は、
一に木戸公、二に大久保公。
いずれも日本における偉大な人物、
いな、日本のみならず、
世界的大偉人として尊敬すべき人物である』

※秦三子(やすみこ)さんの漫画
『だんドーン』5巻はこちらから↓

吉田松陰と桂小五郎などを描いた
短編『番外長州藩』も収録されています。
合わせてぜひどうぞ!

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