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「さあ、教えよう」のその前に。

四月に入り、新人や後輩の方に
何か教える立場になる人も
多いのではないかと思われる。
そこで「教えること」について、考えたい。

おしえる、という言葉の語源は
「おしむ」=愛おしむ、だという。
つまり、教える立場に立つと
相手を愛おしむことが大事、
なのではないだろうか?

そう考えて初めて、
教えられてきた自分が
教えてくれた人たちに
いかに愛されていたかに、気づく。
連綿と続く糸にも、気づける。

もしこれが、教える相手に対して
全く愛おしむ気もちが無かったら
どうなるだろうか?

「おしえる」から、「おしむ」を引く、
つまり「える=損得勘定」だけに
なりかねない。
教えることで、何か見返りが欲しい…
何かを得るために、教えている…
そういう狙いが、見え透いてくる。

もちろん、仕事として教える場合には
きちんと報酬を得ることが大事だ。

しかしその場合でも、
教える相手を尊重することがなかったり
教えっぱなしで後は知らない、と
なったりすると、ただ自分のためだけに
教える、ということになる。

そんなクレクレ精神は、
容易に相手に気づかれるものだ。
ああ、この人は私ではなく
自分の利益のために教えているんだなと
教わる側に思われた瞬間から、
教わる側の気持ちは冷めていく。

おそらく誰かに何かを教わった際に、
そんな気持ちになってしまった人も
多いのではないだろうか?

繰り返しになるが、
教えるとは、まず相手をいとおしみ
尊重し、教えた上で、何かを得ること。

何かを得るためだけではなく、
教える側から積極的に何かを与える姿勢、
これこそが大事だと思われる。

…ただし、である。
何事も、行き過ぎは良くない。

最近、気になるニュースを見た。
それは、学校の教員による
わいせつ不法行為が後を絶たない、
というものだ。

教えることには、いとおしむことが
大事なのではあるが、
愛だけではダメだし、
ましてや歪んだ愛の一方的な押し付けは
何の学びにもつながらない、有害だ、
ということを合わせて言いたい。

そこは、履き違えてはいけない。
自分がこうしてほしいという愛が
他人にとって必要な愛とは
限らない、ということだ。
そもそも愛は、人により千差万別だ。

そのことは、教わる側になると
痛感しがちだが、
いざ教える側に立つと
案外忘れがちなことである。

その独善的になりがちな愛に
歯止めをかけるのは、
いささか逆説的にはなるが、
「おしえる」の「える」の部分、
つまり「利益」「ビジネスライク」な
部分であるように思う。

え? クレクレ精神は
ダメだって言ってなかったっけ?
と思う読者もいるだろう。
もちろん、愛が皆無の
クレクレ教師、ビジネスライク教師は
そっぽを向かれがちだ。
しかし、愛100%の押し付け愛教師も
同じくらいそっぽを向かれがちなのだ。
「あなたのために!」という
無償の愛、熱血指導が行き過ぎると、
不幸な結果になることも、多い。

まとめよう。

教わる側は、教える側の
一方的な愛の押し付けを望んでない。
「愛おしむ」と「える」のバランスは
ケースバイケースで取るべきだ。

「おしえる」の「愛おしむ」が
あまりに強すぎると、
それは「おしつけ」になる。
これが、この投稿で私が伝えたいことだ。

四月、すべての教師、研修担当の方へ。

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