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東京、昔の江戸は、「沼」でした。

「…うん、わかりますよ。
東京、昔の江戸は、大都会でしたよね。
江戸時代には徳川氏の居城、
江戸城がそびえたち
きらびやかな「大奥」では
どろどろの愛憎劇の『沼』がある…。
さぞ、はまりこんだら出られないような
魅力を持つ街だったんでしょうなあ…」

えっと、違いますよ?

文字通りの「沼」だったんです。
ベッチョベチョ。泥だらけ。

本記事では、関東の覇者だった
「後北条氏」が滅亡して、
徳川家康が関東を任された後の
江戸の街づくりのお話
を書いていきます。

1590年「イッコクマルク 治める秀吉」、
豊臣秀吉は小田原城を包囲して、
後北条氏を倒し、滅亡させました。
広大な関東地方が手に入った。
これを、徳川家康に任せるんですね。

秀吉は大坂城が本拠地。西です。
東は、家康に任せる。

…もちろん、戦国の話ですから
色んな思惑があります。
家康は、強いんです。
あまり大坂城の近くの領地を渡すと
歯向かってこないとも限らない。

そこで秀吉は、家康が持っていた
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の
領地を取り上げ、遠く離れた
関東地方に「封じ込めた」んです。

元の家康の領土には、山内氏など
秀吉子飼いの武将たちを配置します。
(関ケ原の前に家康についたりしますけど)
西の上田城には名将、真田氏!
東北の常陸には名門、佐竹氏!
「家康包囲網」を作っておく。

家康も、内心はどうあれ
秀吉に臣従していますから、
はい、わかりました、と従います。

で、ここで「どうする家康」。
関東地方の拠点を、どこにする?

…これ、ふつうに考えれば
「小田原」ですよね。
後北条氏の居城だったところです。
城下町はすでに発展している。

また「鎌倉」もいいですよね。
武家の聖地、鎌倉!
家康は鎌倉時代のあたりのことを書いた
「吾妻鏡」を熱読していたと言いますから
鎌倉、かっこいい、と思っていたはず。

ですが彼は「江戸」に本拠地を定める。
家臣たちは「マジかよ」と
手を打ち鳴らし仰天した、と言われています。

(秀吉に勧められて江戸にした、
という説もありますが、
逆らえば処刑、というレベルではないので
選ぶ余地はあった、と思います)

と、言いますのも。

この当時、江戸は、言葉は悪いですが
「ド田舎」だったんです。
小田原や鎌倉のほうが、ずっと都会。

いや、もちろん、街がないわけじゃない。
最近の研究では、江戸が草ぼうぼうの
荒地だった、というのは
徳川家康の努力を神格化するための創作、
室町期の名将「太田道灌」がある程度、
街を整備していた
、という説もありますが、

ともかく、大大名の家康が
本拠地にするようなところじゃない。

…ここで皆様、誤解しないで
いただきたいのですが、

この当時、つまり戦国~安土桃山あたり、
「川」は「荒れ放題」だった。
先進的な戦国大名、例えば
武田信玄などは「堤防」を作って
民政を安定させたりしていますが、
そういう英雄ばかりじゃないんです。

大雨が降れば「川」はすぐ氾濫しました。
ほら、秀吉だって「水攻め」しますよね。
城の周りに川の水を流して、
籠城する城を孤立させたりする。
(後北条氏を攻める時も
石田三成が忍城を水攻めにしようとして
失敗したりしています。
『のぼうの城』であったやつです)

ともかく、今のように滅多に氾濫しない
川じゃないんです。ほぼみんな、暴れ川。

江戸のあたりは、沼、湿地帯だらけ。
どろどろのベッチョベチョ。
「マジでこんなところに住むのかよ」
家康の家臣たちはそう嘆いたでしょう。

ましてや、この頃、
江戸にはとにかく川が多かった!
何と「利根川」と「荒川」が
江戸のすぐ近くあたりを流れていた。
そう、まさに「水の入り口=江戸」

「利根川」と言えば、
(『カイジ』の中ボスじゃなくて)
「坂東太郎」とも言われた暴れん坊です。
荒川は、文字通り、荒々しい暴れ川
もう、暴れまくり、氾濫しまくり。

かつ、この頃は「汐入地」と言いまして、
海の水(今で言う東京湾の海水)が
地上の深くまで満潮の時にやってきて
そこかしこにたまっていたりします。
現在の皇居の辺りまで海岸線があった。

さて、家康は「どうする」?

…海を埋め立て、川を動かしたんですよ。
これが、世に言う
「利根川東遷・荒川西遷事業」

「またまた~、フィクションの作り話だ。
川ですよ? 動かせるわけないでしょ?
ましてや相手は強敵、利根川・荒川」

…これ、実話です。

家康とその一族は、ベッチョベチョの
川や沼の多いド田舎、江戸を
世界的な大都市へと作り替えていった。
その果てが、今の東京なのです。

まず手始めに、神田山を掘り崩し、
日比谷の汐入地を埋め立てました。
神田山は、今の「駿河台」。
日比谷は、今の「日比谷公園」あたり。
(だから日比谷は地盤が緩くて、
そのあたりには官公庁が少ない)

洪水対策で、新しい川も作った。
これが「神田川」。
ちなみにこの工事を請け負ったのが、
「独眼竜」伊達政宗と
その一族(仙台藩)だったそうです。

利根川と荒川については、
治水のエキスパートに任せた。
その名も、伊奈忠次(いなただつぐ)

Inaoの名前は忘れても、
伊奈忠次の名前は忘れないでほしい。
マイナーですが凄い人。
教科書に太字で書いてほしいくらい。

この事業、江戸湾(東京湾)に
流れ込んでいた利根川を
今の利根川の流れのほう、つまり
千葉と茨城の境目を流れるよう変えた。
荒川も、西に移動させた。
まさに治水の魔術師!
どれだけの民がこの人と
その一族に救われたことか。

もちろん、こんな膨大な土木作業は
一朝一夕、一代では終わりません。
家康、伊奈忠次が死んだ後も、
その子孫たちが続けていきます。

何十年もかけて堤防を作り
川の流れを変え
少しずつ江戸を整備していった…。

この当時は「水運」が
物資運搬の中心
ですから、

川が多く海が近い江戸は、
文字通り「将軍様のお膝元」として
おおいに繁栄していったのです。
「守りやすく攻めにくい」小田原や鎌倉
ではなく、
「みんなが来やすい」江戸を本拠地にした。
家康(と秀吉)の慧眼、恐るべし、ですね。

最後に、まとめます。

本記事は、江戸が沼から大都市に変わる
本当にその一端だけを紹介しました。

なお、伊奈忠次は
代官頭(後の関東郡代)となり
内政のエキスパートとして
各地の内政や治水工事を行っています。

村々でネットワークをつくらせ
洪水情報を共有させたりもした。
今で言うハザードマップ

彼は「備前守」でしたから
例えば茨城県の水戸(水の入り口)にも
「備前堀」という水路が残っています。
また、埼玉県の「伊奈町」
彼の名前から町名が取られています。
ドラマにはなりにくいですが隠れた偉人。

ついつい忘れがちですけど
私たちの街の安全も
少し歴史を紐解けば
先人たちの街づくりの
努力のおかげ、なんですよね…。

さて、読者の皆様の街には、
どんな地理や歴史がありますか?

※伊奈町がつくった渾身の伊奈忠次PR動画もぜひ!↑

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