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「この作品、完パケすぎて入れない…」ヒスイが思う、型とスキマの話。

今日は「完璧に作りこむと、かえって受け手は入っていけない」について話します。

先日、ヒスイが大尊敬している方とメッセージをやり取りしているときに
『フォーマットばちばちに作りこんである小説って、読み手が感情移入しにくくない?』という話になりました。

ものごとには『型』というものがあり、
ヒスイはべつに型を否定しませんが、
ときに『型』にハマりこみすぎると
受け手が入るスキマがなくなる、と思うんです。

小説でも、絵でも、そうなんです。
『型』にみっちりおさまるように作りこむと
感情移入しにくくなる。

そこに、受け手の想像力が羽ばたく、スキマがないからです。

隙間なく完成した作品は、美しいけれども、どこか受け手を拒否しているような感じがある。

こう考えていて、ふと、ヒスイの大好きな画家、田中一村(たなかいっそん)を、思い出しました。

田中一村は昭和期の画家です。
幼少時から水墨画の天才と呼ばれ、東京芸大に入りますが、所々の事情により退学。
以来、画家として中央に立つことはほとんどなく、苦闘の末、50歳でひとり、奄美大島へ転居。最晩年の3年間に集中して傑作を描き、亡くなりました。

生涯で一度の個展もできなかった一村ですが、賞を取ったこともあります。
日本画家、川端龍子(かわばたりゅうし)による青龍社展に入選。「白い花」です。


無数にある花弁、ひとつひとつに入念な筆を入れ、完璧に作りこんだ作品。
構図は考えぬかれ、圧倒的な存在感があります。

ですが、これはいわば「フォーマットばちばち」の絵です。
このとき、一村はどうしても賞が欲しくて、中央画壇に認められたくて、執念で描き上げたと言われています。

ヒスイはこの絵を見ると、美しいと感じると同時に、
すさまじいまでの息苦しさを感じます。
感情移入が、できない。
この絵はとても美しいんですが、見るひとを拒絶しているような感じがあるんです。

完璧すぎるがゆえに。
フォーマットの枠、いっぱいいっぱいまで、みちみちに描きつくしてあるからです。
逆に言うと、型どおりに描いたからこそ、受賞したともいえます。
賞を取る絵、というのは、型と自分の気合が一体化したものだからです。
悪いわけじゃないですよ、もちろん。

ただ、この絵の中には、ヒスイは入れません。


こうして賞を取った一村ですが、画家として厳しい状況は変わらず、50歳で奄美大島へ渡った後、一気に独自の世界が開花します。
傑作のひとつ、「白花と赤翡翠」

画像はhttps://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1983/よりお借りしております

同じ白い花をあつかっていても、この伸びやかさには、人が入れる空間がある。
余裕と自由があるんです。
その自由さは、フォーマットにこだわっている限り、生まれてこない。
型を越えてしまった、何かがある。
見る人が絵の中へ入ってもいいし、出てもいい、自由さを確保してある絵なのです。




「賞って言うのは、減点査定だからね」と言う話も聞きます。
一定のレベルから先は、減点方式。そのとき基準となるのは『型』です。
最終的には『型』に近いものが賞にも近くなります。
いってみれば、すでに「完パケ」にちかい作品ほど、あとの手を入れる時間が少なくて済むし、すばやく商品になるんです。

だけど、そうやってスピーディに商品になった絵も小説も、あまり売れてないな、というのが、ヒスイの正直な感想です。

だって、完パケすぎるから。
手ざわりになじみがありすぎて、とげ=フックがなさすぎて、手の中でつるん、とすべっていってしまう。

だからこそ『型』と『とげ』と『じぶんが描きたいもの』のバランスをとれる一点を、ヒスイはひたすら探しつづけているんだと思います。

先週末に書いた短編ふたつは、どっちもかなり気に入っています。
ヒスイの理想のバランスに、ちょっとだけ、近づけたかなという気がします。

だからたのしい。
だからまだまだ、書きつづけられるんだと思います。


参考サイト:
千葉市美術館(「白い花」が掲載されています)  https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/10-8-21-9-26/


和楽web(「白花と赤翡翠」が掲載されています)


ヒスイの短編ふたつ。


よろしくお願いします(笑)♡


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