くゆる想い
「……主、ここはまさか」
「うん、私たちが使ってるお風呂だよ。長谷部も起きてるって知ってたら、大風呂の方を準備してきたんだけど」
「ならば俺はそちらの準備をして参りましょう」
「…やっぱりやだ?こっちで入るの」
「……。」
何故俺が主と共に風呂場に来ているのかと言うと、事態は十分程前に遡る。
それは主の誓いを聞き、漸く主の心からの笑顔を見られたと密かに喜んでいた時のこと。
「さて、私の話はこれでおしまい。最初に長谷部が言っていた訊きたいことって言うのは、さっきの?」
「はい。充分な答えを頂けました」
あの時の主の答えを忘れない、この先何があっても。忘れはしない。
「…それにしても我ながら大胆な…と言うか〝好き〟だなんて言葉、なんで出て…いやみんな好きなんだけど。……うぅ、何だろうこれ、恥ずかしいな…」
先程決意を表明した表情とは打って変わり、頬を染めて目を逸らす姿はまるで普通の少女のようで。普段の綿毛姿からは想像がつかないその可憐さに、胸に熱いものが込み上げる。
先程の主の言ではないが…何だ、この感覚は。
主の顔をまともに見ていられず慌てて視線を逸らすものの、もっと見ていたいような気もする。
視界の端に首を傾げた主が映る。
心配を掛けてしまっているのだろう。落ち着こうと息を吸ったところに、主の声が降ってきた。
「長谷部、あなた何てところに…!いや私が気付かなかったのがいけないんだけど…ごめんなさい、寒いでしょう?」
そう言いつつ羽織を俺に掛ける。
心配そうに眉尻を下げる主の顔が目の前にあった。
肩に掛けられた羽織も、その上に乗せられた主の手も温かく、夜気に冷やされた体が少しずつ解れていくのを感じた。
「雪の上に膝を付くなんて、いくら刀剣男士でも体を冷やしてしまうよ。さぁ立って」
その後、主についてくるよう言われ共に歩くこと暫し。離れへ繋がる廊下を渡り、辿り着いたのがここだった。
この本丸には風呂場が二つある。
一つは、俺たち刀剣男士が使用している大風呂。もう一つは、主や職人たち人間が使用しているこの風呂場。
短刀たちは兄弟で入りたがるし、大太刀や槍連中は体が大きい。
この風呂場は短刀が六振も入れば埋まってしまう上、俺たちは数が多い。入る順番を待っていたのでは時間がかかる。
それなら各々が好きな時に入れるように、と造られたのが大風呂だ。
刀剣の数が今程多くなかった頃は、刀剣男士と人間の区別なくこの風呂場を使用していたと聞く。
だからここを利用することに抵抗はない。主の口振りから〝普段使っている風呂場ではないが大丈夫か〟と懸念していることが窺えるが、その点に関して言えば大丈夫ではある。だが―
「主と配下が共に風呂に入るというのは…。主命ならば従いますが」
「ううん主命じゃない。一緒はいや?」
「嫌というわけではなく…」
俺は何を言っているんだ。
いや、そもそも主も何を言っているのか。
主は女性であり、俺は刀とは言え男性のかたちをしている。どう考えても共には入れない。
主命ならば果たすまでだが主命ではないのなら…、しかし主がそれを望まれるのであれば俺は……。
「…だめ?」
…主の柔肌を俺が見ていい筈がない。
「体冷えきってしまうよ?一緒に入った方が手間も省けるし温まるし…どうしてもだめ?」
「…申し訳ありません」
「足湯だよ?」
「足湯であろうと主と共に入るなど―……足湯?」
「うん、足湯」
曰く、定例会から戻った後、主は俺たち遠征部隊が戻るまで部屋で休んでいたと言う。その反動で眠気が訪れず、月見をしようと思いつくも体を冷やしてはいけないと考え、庭に向かう前に足湯の準備を調えていたのだと。
「足湯なら男女境なく浸かれるし、浴衣もあるから濡れてしまった長谷部の寝間着も着替えられると思ったんだけど」
「…そういうことであれば」
「良かった!」
刀とは言え人間の男と同じ姿をしている俺に肌を見られるのは嫌なものである筈なのに、何故抵抗がないのかと思えば足湯だからか。足湯であれば晒すのは膝下まで。主が共にと望む以上、問題ないだろう。
…主と配下が共に入浴するのはどうかとは思うが、それをこれ以上言っても主を困らせるだけだ。
何より、主の望みであるなら果たすまで。
主が嬉々として手を引き、脱衣所に入る。大風呂程ではないにしろ明るく広い。どうやら造りも同じで、違うのは規模だけのようだ。
脱衣所に入って正面に洗い場へと通ず扉、その右手に洗面台。左の壁側に凡そ二十の脱衣籠。右の壁側に棚があり、浴衣や手拭いなどはそこに収納されている。天井に取り付けられた羽根が一定の間隔で回り、空気を撹拌しているところも同じ。
「浴衣の場所は判る?」
「はい。…主、どちらへ?」
「ちょっと忘れ物取りに行ってくる」
「ならば俺が―」
「濡れた服で歩き回らないの。すぐ戻るから長谷部は先に浸かってて」
主はそう言い残し、本当に出ていってしまった。
確かに、膝下までとは言え濡れている着物をいつまでも着ているのは気持ちが悪い。先に浸かっているよう命じられたこともあるし、手早く着替え風呂場へ向かう。
扉を開けると蒸気に迎えられた。と同時に香るものがある、これは…
「花…いや、果物の香り?」
造りは大風呂と同じ檜、だが香りは檜ではない。
湯気で煙る風呂場を見渡すと見慣れないものが目に入った。
浅く張られた湯に浮かんでいたのは、蓮の花…を模した掌大の細工。淡い橙色のそれは僅かに弾力があり、振ると中でカラコロと音がした。
香りの発生源はこれだろう。手の中から甘く爽やかな香りが濃く漂ってくる。
「長谷部ー、入って平気ー?」
「はい。少々お待ちください、今開けますので」
「いいよー浸かってるでしょ?それにほら。…もう自分で開けてしまったし」
器用に片手で扉を開けた主は、反対の手に盆を乗せていた。そして湯船に立つ俺を見て目を丸くする。
「あれ、どうしたの」
「湯に見慣れないものが浮かんでいたので、調べていました」
近付いてきた主に蓮の花を差し出す。
「ああそれ、私が浮かべたやつだよ。アロマバス。審神者仲間がくれたんだ、眠れない時や気分が沈んだ時にどうぞって」
「アロマバス?」
「えっと…お風呂でする療法、かな。私もあまり詳しくはないんだけどね」
湯で体を、そして香りで心を解し、心身共に元気にするものだと言う。この蓮の花はその為の道具であり、熱に反応して香りを放つ芳香剤が中に入っているのだとか。
香り自体にも様々な効果があり、気分の沈静、或いは逆に気分の高揚。催眠に覚醒、緊張に弛緩。体への効果も含めれば実に多岐にわたる。
「なるほど。現代ではそのようにして香りを楽しむのですか」
「面白いでしょう?その時々で自分に合ったものを選ぶんだよ。それで…ええと、これはどんな効果だったかな」
蓮の花に鼻を近付け香りを確かめる主は、どこか小動物に似ていた。
そのまま、主がゆるく香りを纏っていく。現代の人間たちは、こうして風呂から上がった後も香りを楽しむのだろう。眠る前のひとときに安らぎを、或いは活力を得て、明日もまた頑張れるようにと。
「ごめん長谷部、どんな効能か思い出せないや…。柑橘系の香りだから精神活性の類いだとは思うんだけど」
申し訳なさそうに言いながら顔を上げた主は、すぐに笑顔で付け足した。
「でも大丈夫!変な効果じゃない筈!こういうのは基本的に体にも心にもいいのばっかりだから!と言うか、あの人が悪いものをくれる筈がないから、その辺は安心していいと思うな」
「その方を信頼しているのですね」
「私にとっては大切な先輩だからね。あの人が叱ってくれなきゃ、私は今こうして長谷部と話せていないよ。…きっと、気付くこともなかったと思う」
「それでは、俺にとっても恩人ですね」
主は穏やかに微笑むと浴槽に腰を下ろした。そして手に持っていた盆を置き、隣に来るよう促される。
蓮の花を再度湯に浮かべた後、縁側の時と同じ距離感で、今度は主の右隣に座る。と、主から猪口を手渡された。
「やはりそれは酒ですか」
盆に乗せられていたのは、ふたり分の徳利と猪口。
「そうだよ。足湯しながら飲むのは初めてだけど、温まると思って。はいどうぞ」
笑顔で徳利を傾けようとする主をやんわりと止める。
「主、酌は俺が」
「ええ、お酌くらいさせてよ」
「主に酌をさせる配下など聞いたことがありません」
「今は主じゃなく霞月個人としてここにいるんだけどな」
「俺にとって、主はどうあっても主です」
「…長谷部なら、そう言うと思ったけど」
そう呟く主は、どこか寂しそうで。
「……主?」
「隙あり!」
「あっ⁉」
「ふふ、今日は珍しいことが続くね?隙を見せた長谷部なんて初めてだよ」
「…今後気を付けます」
「いいよ、気を付けなくて。〝主〟にくらい隙を見せてくれなきゃ」
楽しそうに笑う主は、やはり寂しげに見える。
霞月個人として、という言葉が引っ掛かるが、いったいどういうことだろう。
主ではない主。一己としての主。俺の主ではない主。
…駄目だな、想像がつかない。
その後、手酌をしようとする主からどうにか徳利を受け取り、酒を注いで小さく乾杯をした。
冷えた酒が喉を滑り熱を放つ。淡麗な口当たりが飲みやすく、遅れて芳醇な香りが広がる。するすると飲めそうな旨い酒だ。
縁側で冷やされた体は足湯ですっかり温まっていたが、酒の力で中からも温かくなっていく。
数時間前までであれば、こうして主と酒を飲むことになるなど、まして共に湯に浸かることになるなど考えもしなかった。
当の主は杯をゆっくりと傾けているものの、早くも顔がうっすらと赤い。
「主、あまり早く飲むと酔ってしまいますよ」
「ん…、大丈夫だよこれくらいなら。次郎さんと飲む時はもっと強いの飲んでるし」
「顔が少々赤いようですが」
「そりゃまぁ、お酒飲んでるし足湯浸かってるし。……えと、あんまり見ないで。今、面してないから」
更に頬を赤らめて、主は背を向けた。
主が照れている? ……俺に?
そう思うのと同時に酒の熱とは違う熱さが胸を焼く感覚がした。縁側にいた時にも感じた…いや、あの時よりも強い熱。
気付けば香の甘い香りが周囲に満ちている。ふと、この香を纏った主を、その顔を見たくなり、熱と香りに誘われ手を伸ばした。
―届く間際、〝見ないで〟と言われたことが過らなければきっとそのまま主に触れていた。触れて、どうしようとしたのかは判らない。
判らないことが恐ろしかった。一瞬とは言え我を忘れ、俺はどうするつもりだったのか。
視線の先では、こちらに気付いていない主が杯を傾けている。
この手を、届かせてはいけない。
俺は主から視線を外し、平静を呼び戻しながら「そう言えば」と話題を振った。
「縁側にいた時も最初は面をしていましたね」
「…うん。あれは私の、審神者としての装備だから」
「どういうことです?」
主は居住まいを正すと空になった杯を再び満たし、その揺らぎを見つめつつ事も無げに言った。
「私は臆病者なんだよ、臆病で弱い。ここには自分で望んで来たけれど、戦いが怖い。失うのが怖い。見ての通り私は顔に出やすい性質だから、心配も動揺もすぐ表れてしまう。そして将がそれでは、配下を不安にさせてしまう。些細なことで悩み躓き、不安を伝播させ士気を下げる…そんなのは〝指導者〟と呼べないでしょう?だから顔を隠す。面をしていないと、毅然とした態度なんてとれないから。指揮なんて執れないから。指揮の執れない統率者なんて、ふらふらと危うい主なんて、要らない」
必要なのは、迷いなく皆を導ける強い柱。
面で顔を隠せばそれに近付ける、〝主〟として振舞えるからと。〝霞月〟ではなく〝主〟として在る為に面を着けるのだと。自嘲でもなく卑下でもなく、ただ事実を述べるように。
「普段綿毛でいるのも同じ理由。表情を隠せる上に移動が楽だからね、あの姿は」
風に乗って本丸内を自由に行き来する主の姿が思い出される。気儘に振舞いながら俺たちの様子を見ていたことは知っていた。
だが傑然と出陣を命じるその裏で、憂悶を抱えていたことには、それを隠していたことには、気付けなかった。
全ては〝主〟として。俺たちが迷わないように。
優しく高潔な主。だがそれではあまりにも―
「つらくありませんか」
誰にも迷いを見せない。弱さを晒せない。常に気を張り、その糸を弛められるのは自室にいる時だけ。
「…目が別のことを言ってるよ」
「え」
「歌仙もね、そんな反応だった。同じことを話した時、同じように怒っていた。もっと信用してくれてもいいだろう、って」
「……あいつと同じですか」
「ふふ、気に食わないかな。みんなを信用してないわけじゃないんだけど、こればっかりはね。それにつらくもないよ。ああは言ったけど、悩みや心配事をずっと抱えてるわけじゃないから」
「そうなんですか?」
「弱った時とか、ちょっと歌仙に頼ってる。あまり寄り掛からないようにはしているんだけど―」
ああ、またお前か…。
主がお前を重用しているのは周知の事実だが…。忠義でお前に劣るつもりはないぞ、歌仙兼定。
「まあ、今まで素顔を知っているのが歌仙だけだったからね。弱ってるところを見せるとなると面を外したくなるし…。でもこうして長谷部にも晒したから、もしかしたら今後は長谷部にも情けない姿を見せてしまうかも知れない」
「俺で良ければ、いつでも」
「……幻滅させたらごめんね」
「幻滅なんてしませんよ」
あなたの主としての理念は俺たちへの想いで溢れている。そんなあなたが見せる弱さなら、どんな姿であろうと幻滅などしない。
「主の力になれるなら、それに勝る喜びはありません」
「っ」
音がしそうな勢いで主の顔が朱に染まった。そして瞬く間に顔を伏せると膝を抱え、何か呟きながら杯を傾ける。
「…だから、これだからいやなんだ……!」
嫌、だと…⁉
「主、何がですか?俺は何か気に入らないことをしてしまったのでしょうか?」
「あっ、う……うぅ」
「…主?」
「長谷部が悪いんじゃない…」
耳まで赤く染めた主は、額を膝頭に擦り付けながらそんな言葉を絞り出した。
俺の所為ではないと言うのなら、いったい何が。
「恥ずかしいんだ……長谷部の、その…恭しさが…。そんな風に接されたことないから、慣れてなくて…」
「俺がここに来て数ヶ月経ちますが」
「…慣れてないんです。恥ずかしくて、ずっと避けてきたから」
先程は献身性が嫌で避けていたと言っていたが、なるほど。この羞恥心もそこに一役買っていたとは。
「では改めなければなりませんね」
「そこまでしなくていい!そこまでしなくていいから、私が慣れれば済む話だから…!」
「ですが」
「お願い、こんなことで長谷部に無理をさせたくない」
「主命とあらば…ですが主が無理をされる方が、俺には耐えられません」
「あう」
綿毛姿でもなく面も外している今、これが主の素なのだろう。羞恥から縮こまり顔を伏せて弱々しく言葉を紡ぐ主は、どこまでも初心だった。
常に自由に、且つ昂然と。そうやって皆を導く面の下がこれほど健気で可憐だとは思わなかった。
だがあいつは、歌仙は知っていたのだろう。主の素顔も性質も、面をする意味もこの恥じらいも。
これからは俺も、あなたを支えられますよ、主。あいつだけに任せはしません。
「長谷部」
「はい」
「…やっぱり長谷部はそのままでいてほしい。慣れたいんだ。主として、いつまでも配下に恥ずかしがってるわけにいかないもの」
「…主の思うままに」
「ありがとう」
やはり恥ずかしそうに、それでいてどこか喜色を滲ませた柔らかい笑顔が綻ぶ。この笑顔が見られるなら、あなたの力になれるなら、俺はいつでもあなたの為に働きましょう。
気付けば体はすっかり熱く、酒の所為か足湯の所為か、薄ら汗ばむ程だった。だが心は軽い。そしてこれはアロマバスとやらの効果だろうか、不思議な高揚感が胸を満たしている。それに伴うように心臓が逸り、鼓動が大きく聞こえる。
酒に酔った時と似ているが、違う感覚。
試しに杯を呷れば、温くなった酒が喉を滑り降りていき、臓腑が熱を持つ。それでもこの感覚は紛れず、かと言って強まりもしない。
初めて陥る感覚だった。酒の所為でないとすれば、やはりこの香りの影響か。
であれば、主にも同じように作用している筈。
「主」
「ん?」
杯を口に運び、小さく喉を鳴らし嚥下する。たったそれだけの動作がひどく色気を帯びて見えるのは気の所為か。
いや、色気など。俺は主に何を見ているんだ。…主に色気が無いと言っているのではない。主は色香溢れる女性と言うより純情可憐な少女であり、恥じらう様など特に可愛らしく―
もしや俺は既に酔っているのか。
「ああ、猪口が空だね。ついであげるよ」
「っ…いえ、ありがたいのですが俺はもう」
これ以上酔うわけにはいかない。
「もういいの?」
「はい」
「このお酒、強くないほうだけど…。長谷部、お酒弱かったっけ?」
「弱い、のかも知れません」
半分に蕩けた瞳がじっと見つめてくる。雪の中で冴え冴えとしていた瞳は今、火照りと共に僅かに潤んでいた。
見上げてくる視線も表情も、酒気を帯びるだけでこれ程までに艶めくのか。
「ああ本当だ、顔がまっか。ごめんね気付かなくて」
「俺も、自分が酒に弱いとは思っていなかったもので…」
顔が赤いのは、果たして酒だけの所為なのだろうか。
「ん…じゃあ、のこりは私がもらおうかな」
「主も顔が赤いですよ、大丈夫ですか?」
「…ふふふ」
問いに答えず笑いだけで返した主は徳利に手を伸ばした。そして手酌で注ごうとして「あれ」と首を傾げる。
「主、酌なら俺がしますが、あまり深酒は―」
「おさけ、もうないや」
主が徳利を振ると底に残った滴が軽い音を立てた。
俺が飲んだのは二、三杯。当然徳利一本分にも満たない。ふと見れば、主の奥に更にもう一本の徳利が転がっていた。いつの間に。
「どれだけ飲んだのですか、主」
「んー?んー…」
目を閉じ考える素振りをする主。その頭はゆらゆらと揺れている。
「…酔っていますね?」
「……うん」
頷いた拍子にかくりと体が傾き、猪口を持ったまま湯船に落ちかけた主を、既の所で受け止めた。
その背に腕を回し体を起こすと、ゆっくりと頭をもたげた主が薄く目を開く。
「ああ……はせべ、ごめんね」
そう呟くや否やもう一度脱力し、体をこちらに預けてきた。
ややあって静かな寝息が耳に届く。
「…寝姿を晒してもらえる程に信頼を得ていると、見るべきなんだろうな。この状況」
深くゆっくりとした呼吸を繰り返す寝顔は無防備で、あどけなさと艶やかさが混在する神秘性は人間の男の前に晒せば襲われかねない魅力があった。そんなことになろうものなら皆圧し斬るが。
ともあれ、主をこのままにしておくわけにはいかない、私室へ運ぶべきだろう。しかしそうなると問題が一つ浮上する。
俺では主の私室へ入れないのだ。
主の部屋に入室できるのは歌仙だけであり、他の者が入ろうとすると本丸のどこかに飛ばされる。
主が自室へ戻るのは日々の業務を終えた後、殆どの刀剣が眠る頃合い。今日のように早い時間から休む方が珍しく、俺たちが主の部屋を訪れるような事も滅多にない為、今まではそれで困ることもなかった。しかしまさかこんな事態になろうとは。
癪だが、あいつに主を託すしかないだろう。
そう考え主を抱き上げると、その体はあまりに軽かった。本当に綿でできているのではと思いたくなる程に軽い。それとも人間の少女というのはこれが標準なのだろうか。
腕の中で穏やかに眠る主は多少の揺れでは起きそうにないが、それでも細心の注意を払い、万が一にも眠りを妨げることのないようにしなければ。
今だけでも日々の重圧から解放され、主が安らかな時を過ごせますように。
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