つなぐもの

 離れの風呂場から戻り、目指すは歌仙の部屋。俺たち刀剣男士の居住区画は二階から四階にあり、主の部屋は最上階にある。
 風呂場の蒸気に慣れた体に冬の夜気は一層凍みる。二階まで上がれば壁に阻まれ幾分ましになるが、それでも早く布団に寝かさなければ主が風邪を引いてしまう。
 この時刻、二階から上の光源は窓から射し込む月だけだが、その光は未だ明るく、灯りの必要性を感じさせない。深夜に相応しい静けさの中、聞こえるのは自身の足音と主の呼吸だけ。そうやって廊下を進み何枚目かの襖の前に立つ。

「歌仙」

 宵っ張りの次郎でさえ寝ている頃合い、当然歌仙も寝ているだろう。呼び掛けても返事がないが恐らく今ので意識は浮上した筈、もう一押ししてみるか。

「起きろ、自称文化系」
「そんな風流じゃない呼称は止めてくれ」

 軽快な音を立てて襖を開け、不機嫌も顕な歌仙が姿を現した。寝癖があちこち跳ねているところからしてよく寝ていたのだろう。主の安眠に比べればどうでもいいことだ。

「未だ真夜中じゃないか。なんだってこんな時間に起こ……きみが抱えているのは主かい?」
「ああ」
「そうか…主はきみと対話できたんだね」

 歌仙が穏やかな視線を主へと注ぐ。こいつは何かを知っていたのか。
 …そうか、主は今日定例会に行っていた。そしてそこで誰かの記憶を見たのなら、こいつもそれを知っていておかしくない。ということはその時の主の激情を収めたのも…。
 主と共に定例会へ赴けるのは随伴登録が為された刀剣のみ、そして主が登録しているのは歌仙だけ。俺がその場にいられよう筈もない。とは言え、面白くないのもまた事実。―どうして、俺では……。

「長谷部」
「何だ」
「主の面が無いがこれはきみが?」
「いや、主が自ら外した」
「なんだと…主が、自ら?」
「そんなに驚くことか」
「極度の照れ屋である主が素顔を晒すということがそもそも驚きでね。でも自分から見せたのなら、それだけの信頼を置いているということだろう。大躍進じゃないか長谷部」
「圧し斬るぞ」
「そうやって気に食わないものを何でも彼んでも斬ろうとするのは風流じゃないな」

 それをお前が言うのか。大抵のことを力尽くで片付けようとするお前が―!
 そう反論したい気持ちを抑え、一つ深呼吸をする。
 今はそんなことを言っている場合ではない。主を私室へと送らなければ―と思い直した直後、寒気立つような殺気を感じ咄嗟に主を庇う。気配の元は目の前、歌仙から。
 どうしたんだこいつ、先程まで穏やかに主を見ていただろうが、何故俺に殺気を向ける。

「ところで長谷部、もう一つ訊きたいんだが」
「…さっきから幾つも訊いているだろうが。手短にしろ」
「何故きみと主から同じ香の香りがしているんだい?いや、香りだけなら気にしなかっただろうけど、きみ程ではないにしろ主の顔が赤い。加えてきみが着ているのは脱衣所備え付けの浴衣だ。―長谷部、主に何をした」
「俺が、主の意に沿わないことをするとでも?」
「合意の下だと言うのか⁉」
「……歌仙、お前何を言っている?」
「何ということを…素顔を見せるだけでなく、そこまで許してしまうとは…」

 話が見えない上に何やら勝手に衝撃を受けて悄気ている。襖に凭れ力なく俯きながら目元を押さえ「まずは文や歌を贈り合うところからだろうに…」とか言っているが何のことだ。心なしか寝癖まで萎れているような。

「…何を勘違いしているのか知らないが、俺は主の足湯の相伴にあずかっただけだ」
「足湯?」
「あとは共に酒を飲んだくらいだが、どうしてそこまで落ち込む」
「酒…足湯…そうかだから顔が……」
「おい」
「ああ、すまない。どうやら雅じゃない推察に囚われていたようだ」

 どんな推察だ。

「本題に入るぞ」
「ああ、そう言えば。こんな時間にどうしたんだい?」
「見ての通り主が眠ってしまってな、部屋に送り届けたいが俺では主の部屋に入れない」

 主の部屋に入れるのは歌仙だけ。
 その理由については様々な憶測が飛び交い真偽は不明だが、初期刀だから、と言うのが有力な説として通っている。主と共に過ごした月日が関係しているなら、歌仙と同日に目覚めた前田も入れる筈であり、〝皆が大切〟と言っていた点から信頼の度合いが関係しているとは思い難い。誰かが主に訊いたところ「秘密!」と言われたらしく、真相が解らないままだった。
 この時までは。

「部屋に入れない?だってきみ、こうして主の素顔を見ているじゃないか」

 何故ここで主の素顔が関係してくる?

「そこまでは聞いていないのかい?主の部屋の入室条件は〝素顔を憶えていること〟だそうだよ。前田や愛染が入れないのは、主が綿毛になったことの衝撃が大き過ぎて素顔の印象が飛んでしまったんだろうね。主、就任二日目にはもう綿毛になってしまっていたし」
「…主は条件を隠しておきたかったんじゃないのか。秘密、と言っていたのだろう」
「きみに素顔を晒してそうやって自分を預けているのに、部屋には入れないだなんて、そちらの方がおかしいと思わないか」
「……。」
「主が体を任せたのはきみだ、きみが送り届けるべきだろう。駄目だったらまた声を掛けてくれ」

 そう言うなり歌仙は襖を閉じた。薄明るい廊下に残されたのは俺と主。
 あいつ、これで俺が主の部屋に入れなかったら二度手間になる上、その分主に寒い思いをさせることになるだろうが。もしこれで主が体調を崩してしまったら圧し斬ってやる。
 当の主はこれだけの応酬の中でも目覚めることなく安らかに眠っている。香の力か、酒の力か。何れにせよ主の心が平穏であるならそれに越したことはない。体の方は依然として温かく、汗で冷えていることも湯冷めをしていることもなさそうだ。
 歌仙の言、合っているのか確かめに行くとしよう。

 本丸の最上階。主の部屋のみが存在するこの場所に足を踏み入れるのは、二回目だ。
 主の技によって目覚めて間もない頃、何も知らないままに主の部屋を訪ねて手入れ部屋の前に飛ばされたことがある。あの時は本当に驚いた。しかし聞くところによると手入れ部屋など未だ良い方で、物置部屋の前や厩舎の入り口、中には城の門前に飛ばされた者もいるらしい。
 〝本丸のどこか〟というのは、正確には〝城内のどこかの入り口〟ということのようだ。
 短刀たちはこの現象を楽しんでいる節があり、最上階へ向かう姿が時折見られる。主命があれば止めさせるのだが、主もまたそんな短刀たちの様子を面白がっているようで、放置するように言われている。
 階段を上がりきると、高さ、長さ共にちょうど岩融一振分の尺の廊下に出た。左手が一面の襖となっており、開けたところが主の部屋となる。…歌仙以外は襖に手を触れた時点でどこかへ飛ばされるが。

〝素顔を憶えていることが条件〟

 あいつの言うことが正しければ、飛ばされない筈。
 やや緊張しながら引手へ手を伸ばし―…
 襖を引いた。
 音も抵抗もなく滑り、襖は部屋の入り口としての機能を果たした。拍子抜けする程にあっけなく。
 しかしこれで主の部屋に入れる。断りなく入室することに関しては明日謝るとしよう。

 主の部屋はさっぱりとしていた。
 一見して主の私物と判る物は室内の一角に積まれた書籍ぐらいで、他は備え付けの物であるようだ。机の上の端末も恐らく政府からの支給品だろう、黒く沈黙したままのそれ以外には何も置かれていない。
 採光の為か東側の壁の二ヶ所に大きな窓が取り付けられ、凡そ二十畳の室内はそこから射し込む光で充分に照らされている。その窓に挟まれるように瀟洒な扉が一枚あり、ここから廻縁(まわりえん)へ出られるようだ。
 部屋の中心には襖からの視線を隠すように衝立が立てられ、その背に桐箪笥が、更にその隣、西の壁に沿うように姿見と化粧台が置かれている。
 布団はそれらに囲まれるように敷かれていた。枕元には一輪挿しが一瓶、紅梅が慎ましやかに活けられている。
 この部屋の中で主の心を慰めてくれそうなものは、この梅ぐらいか。
 端的に言えば質実…だが俺の目にはひどく寂しく映った。光忠や歌仙などは特にそうだが、俺たちでさえ自室に趣味の物を置いていると言うのに。
 主くらいの年の女性であれば、もっと自分の物を置いていても良さそうなものだが。まるで敢えてそうしているかのようだ。
 …それは俺が言うようなことではないか。
 疑問を端へ寄せ、主を寝かせる。風呂場を出た時赤かった顔は、だいぶ元に戻っていた。発熱はなく、呼吸も正常、体調を崩している様子はなさそうだ。
 どうやら部屋の主が戻ったことで、この部屋も落ち着いたようだ。恐らく先程はここの物たちの不安も映っていたのだろう、清淡さは変わらないが、今は部屋の中が幾分明るく見える。
 帰るべき家が他にある主にとって、この二十畳が主の世界。唯一の、心休まる空間。
 主を戦いへと縛る俺のような者がいてはいけない場所。
 腰を浮かせ、いざ去ろうとした時。くっ、と袖を引かれた。

「…はせべ」
「主?申し訳ありません、起こしてしま―」
「どこ、いくの」

 茫然と小さな声は迷子のようで。

「俺は自分の部屋へ戻りますが、どうかしましたか」
「…やだ」
「主?」
「いかないで」

 はら、と涙が零れる。寝惚けているのか涙の所為か、或いは熱が出始めたのか、こちらを向いているのにその焦点の先に俺はいない。

「いかないで、はせべ…ここにいて」
「主命とあらばいつまでも。俺はあなたの傍にいます」

 けれど目は虚ろなまま、声は悲嘆を増して、枕を濡らしていく。
 縋る手に力が籠る。想いに呼応するように。
 〝長谷部が―〟と、弱く紡がれる。

 長谷部が、死に…焦がれるのは
 長政殿のところに行きたいのは…解った
 いつか送ってあげるから―
 だから今は、ここにいて
 この戦いが終わるまで、あなたがここに厭きるまで
 一緒に戦って
 一人でいかないで
 私を置いて、逝かないで

 涙を拭う手が止まる。誰にも話したことのない、知る者のいない願いの筈だった。思わず「どうして」と、呟きが落ちる。

 「長政さまのことを…俺が長政さまのところへ行きたいと願っていたことを、どうしてあなたが知っているのですか。誰も知らない筈なのに」

〝ある刀剣の記憶に触れた〟
〝その記憶の中で、彼は前の主と共に在ることを望んで―死んだ〟

 ああ―…あれは俺のことだったのか。
 長政さまと共に在りたいと願った。叶うことなら、俺たちにあの世があるのなら、…ついていきたかった。
 だがそれは叶わぬ願い。
 叶わないなら忘れたかった。
 永い時の中で、いつか忘れられると思っていた。
 もしあなたに会えないままでいたら、この世に何も見出せなかったら、或いは俺も―

 袖を掴む主の手をゆっくりと解き、その手を繋ぐ。涙は未だ涸れず、主の世界を濡らしている。
 こんなに泣く程の想いを、あなたは抱えていたのですか。酩酊状態でなければ明かせない程奥深くに閉じ込めて。
 もう泣かないでください。他の本丸の、死んだ奴なんて見ないで。俺はここにいます。
 あなたに会えた、傍にいると約束をした。何があろうと、俺はあなたを置いていくようなことはしません。

「…それに、それは俺の台詞です」

 あなた方は、俺たちより早く逝く。
 だから今度はどうか置いて逝かないでください。
 もう忘れたくない。忘れられる筈がない。
 主命でなくとも共に戦いましょう。
 あなたの全てを、その傍で見守る為に。
 そしてどうか終わる時も―

「…?」

 不意に主の手が緩んだ。そのまま二、三度瞬きをし、目元を拭おうとして、手が繋がれていることに気付いたようだ。濡れたままの瞳に彩光が戻る。

「あ、れ…?」
「主、大丈夫ですか」
「はせべ?ここは…わたしどうして…」
「風呂で眠ってしまったんです。勝手とは思いましたが、部屋へお運び致しました」
「ああ…そっか」

 まるで今起きたかのような様子だった。どうやら先程のは酔いではなく夢だったか。若干舌足らずな感覚だけを残して、主の意識は覚醒したようだ。

「ごめんね、運んでくれてありがとう」
「恐れ入ります。ですが俺の方こそ、主の断りなく部屋へ入ってしまい申し訳ありません」
「気にしないで、だいじょうぶ。でもわたし、なんで泣いて―」
「…きっと、悪い夢を見ていたのでしょう」

 主を置いて死にに行くような奴のことなんて、忘れてください。

「だから手つないでくれたの?ごめんね、こどもみたいなことを」
「……」

 そう言えばどうして手を繋いだのか、俺自身も解らない。袖ではなく手を掴んでいてほしかったのかも知れないが…それを主に告げるのは憚られる気がした。それで主の悪夢を払えるなら、願ったり叶ったりだが。
 そうやって沈黙している俺に構わず、繋いでいない方の手で目を拭いながら、主が小さく笑った。繋いだ手は繋がれたまま。

「手、つなぐの恥ずかしいけど、うれしい。むねがあったかい」
「そうですね、俺もです」
「こころも…」
「…心?」
「こころを、わけあってるのかも。はずかしい…けど、あったかい」

 想う心を分け合って、同じ温かさを繋ぎ合う。
 らしくなく詩情的なことを言ったと主は目を伏せたが、俺はそうであればいいと思う。
 この手は、斬ることしか知らない。
 けれどあなたを温める役に立てた、そして繋ぐことで心も温められるなら。
 今も、この手を離さないでいてくれるのが。

「恭悦です、主」

 主は目を合わせると、やがて嬉しそうに破顔した。その後するりと手を解き、肩まで布団に包まった。

「ここにいてくれてありがとう、はせべ」
「主命とあらば―いえ。主命でなくともあなたが望むのであれば、俺はそれに応えます」
「……。」
「…主」
「がんばって慣れようとしているところだからちょっと待って…」
「畏まりました」

 もしかして綿毛の姿でも今のように恥じらうのだろうか。
 どちらにせよそのままでもいいと思うのだが、主の望みは慣熟。照れずに対応できるようになりたいと言うのなら、俺はその望みに応えるのみ。―つまりいつも通りに接するということ。
 僅かの後、深呼吸をした主が布団から顔を出した。

「はせ」
「はい」
「こんな時間までしばってごめんね」
「元より明日は休みを頂いていますから、差し支えありません。…主は眠れそうですか?」
「うん、へいき。手をつないでくれたからかな、よくねむれそう」
「それでは―おやすみなさい、主」
「おやすみ、またあしたからよろしくね」

 そうして目を閉じて、再び寝息を立てるまで数秒と掛からなかった。
 よろしく、の言葉が響く。
 思い返せば数時間前、主にどう想われていようが構わないと思っていたのに。それが共に酒を飲み、私室への入室を許される程になっていようとは。
 …この数時間で、主の〝素顔〟を知った。
 〝指導者〟である為に、面という蓋で自身が弱いとする心を塞いでいること。
 無垢で、無防備で、極度の照れ屋であること。
 主は―普通の少女と何ら変わらない。
 ここに来るまでただの少女であったということを、思い出さなければ解らない程に忘れていた。もしかしたら綿毛の姿をとっているのは、それを意識させない為でもあるのかも知れない。
 優しく、純粋な主。安らかに眠る姿を前にして実感した。
 この方は戦いに向かないと。
 〝導く者〟の器であることは間違いない。だがその内側は繊細で柔い。
 戦局の判断を誤りはしないだろう。しかしそれで誰かを失えば、例え勝利を収めたとしてもその心は哀惜に沈む。何も失わずに勝利できる程、戦は易くないと知っていても。
 だからこそ数時間前にも思っていた想いを―いや、ずっと。初めから定めていた覚悟を今、改めて誓う。

 あなたを守る。仇なすものから、望まぬ戦禍から。

 主が皆と共に在ることを望む以上、どんな敵が立ち塞がろうと斬り伏せよう。皆で、主の元へ戻れるように。
 俺一振では主の笑顔を望めないのだから。

 一つ礼をして部屋を辞す。
 明日からまた、主は面をして戦いに臨むのだろう。その素顔を綿の中に押し隠して。
 何も憂うことなく、ありのままに過ごせる日々が一日でも早く訪れるように。
 主―…最良の未来を、あなたに。

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