表現者の見えない思いを探して

 電気の源は表現者にある。ここで電気とは芸術のことだ。芸術は、表現者の見えない思いにより作られる。
 そして、電気の受容者は社会のわたしたちだ。しかし、源と受容者の間には、社会システムなど、つなぐ幾重ものコードがないといけない。
 これはアーティストが活動するための、また社会の受け手がアーティストを理解するための、アーティスト論である。関係者4人に取材した。

                            文=北條立記

1 アーティストは何を考えているか

アーティストの心意気とは

「おそらく他の奴はこれはやってないだろうなという独自性には自信を持っていて」
 ギタリスト・作曲家・画家の野村雅美さんは、自作品についてこう述べる。
「誰もやっていないことをやってやろう。逆に言うと、そうじゃないのはこびる音楽。これなら絶対聴いてもらえるとこびる音楽ではなく、人がやってないことをやってやるという心構えがある」
 自分を既存のアーティストや同時代のそれと異なる新しいものに位置づけようとする野心だ。かつそのときに、社会にこびない創作を行っていく。
 その野心の根拠は、ギターによるアルペジオのスローテンポによる反復性の音楽、たとえば「白線の内側」という曲、それらの曲の、ダンサーやピアニストなど各種の共演する表現者を包み込む音世界にある。

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 作曲家の近藤浩平さんも、同様だ。
「ベートーヴェンでもショパンでも、自分の立場、生まれた場所、時代背景をもとにやっていたと思う。誰かの真似ではなく。そういう作曲家が、いわば、同じ志をもった同業者の先達、という感じだ」
「たとえばベートーヴェンの楽譜を見ても、ここはこう考えているんだなとか、同業者としての苦労を感じられるよね」
 このように歴史的な大作曲家を「同業者」と見て、自らを歴史に位置づけようとする意識を抱いている。
 今回、近藤さんの「源流への旅」というヴィオラやサックスで演奏される曲を聴いた。その音楽には、こういうのが人の心の奥底にもともとあったが、しかしわたしたちが気付いていなかったのではないかと思うような、自然の悠久を感じさせる、独自の音遣いが感じられる。

 美術家で即興絵画のアクションペインティングを主な表現として用いる田嶋奈保子さんも、こう語る。
「アーティストとしての野望としては、作品を後世に残したいという事と、死ぬまで作品を作り続けたいという事があります」
 後世に残したい、というのは野村さん、近藤さんとも共通する感覚だ。
 田嶋さんは、「幼少期のトラウマのためか、無意識に有名な人に対する対抗心が生まれてくる部分を持って」おり、その結果「有名になりたい」という思いも持つ。だが「有名になる事への虚無も感じます」とも述べる。なぜ虚無なのか尋ねると、
「美術制度の中に入る事を目的とした人間関係の構築や媚、営業により有名になる事は、大衆の欲望の真ん中に入る事で、自身の中身が空っぽな空虚に満たされるのではないかと思います」
 表現者は、公言ははばかるかもしれないが、歴史に名を残し世界的に有名になりたい、という欲望は持っているものだ。欲望が創作の原動力であることは、村上隆『芸術起業論』も説く。
 「有名」という言葉を使わないなら「共感」という語がいいかもしれない。「自身の表現が共感をもって世界の大勢の人に受け入れられるのが表現者の願い」ということだ。

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表現とはどういうものか―エッジに立つ

 相撲の国技館で有名な両国に音楽ホールがある。両国門天ホールだ。ここで支配人の黒崎八重子さんの言葉を取り上げたい。
「アーティストは正反対のものを持っているもの。そういうキワ、エッジのところにアーティストはいる。そのエッジでのせめぎ合いが、アートの面白さです」
 キワやエッジ。これは、たとえば正の感情と負の感情の境目。アーティストは、わたしたちが目を背けがちな負の感情にも正面から向き合う。正面から向き合う結果、苦しみなどを変換して、生きる粘り強さなどの表現となる。
 そのようにして表現を行っていくのが、アーティストには必要だというのが、黒崎さんの考えだ。

アーティストの不安

 一方で、アーティストは不安も抱えながら生きているものだ。アメリカのアーティストの書いた『アーティストのためのハンドブック』という本がある。
 アーティストに襲いかかる不安として、私はアーティストではないかもしれない、自分のしていることに確信が持てない、他の人の方が優れている、作品を誰も理解してくれない、自分には才能がない、というようなものが挙げられている。
 今回取材したアーティスト諸氏は、不安についてはあまり述べていなかった。しかし、これらのような不安もどこかで持ってきているはずである。
不安を述べることは面子に関わるし、アーティストの世界には、謙遜でも「自分はできない」と言えば「できない人だ」と見なされうるシビアさがある。ポジティブなことだけを口にすることで自分を引き上げるというのもあるだろう。
 ある方は「自分は30年間誰も認めてくれない状況に耐えてきた」と述べていた。その30年間には、当然各種の不安があったに違いない。しかし、その不安を乗り越えてきたのは、前述のように、現世で受容されなくても、歴史に自らを位置づけ、現実世界より広 い視野で自分を捉えるという、アーティストならではの考え方によるのではないだろうか。

2 アーティストは何を思うべきか

 アーティストの思いを見てきた。その持つ思いというのは、実は公演の集客の根幹である。表現者の強い意識がない限りよい表現は生まれない。公演会場にお客さんを集めるのは、そのような思いの詰まった表現だ。
 ただし、アーティストが表現を磨いているだけでは、お客さんとの交流は十分に生れない。
 黒崎さんは、アーティストの態度について次のように語気強く語る。

聴き手への真剣なまなざし

「現代芸術は、今までそれに興味がなく見たことがなかったお客さんに見せる場合、その舞台は、その人が一生に一度だけ見るものであるかもしれないわけです」
 このことをどれだけのアーティストが考えているだろうか。その舞台がお客さんの感性を惹き付けるものであるとき、そのお客さんは、一生に一度で終わらず、さらに次を見ようとするかもしれない。
 しかし逆に、お客さんを惹き付けなければ、その人の舞台のみならず、そのジャンルへの関心を、まさに生涯にわたって失わせるかもしれないのだ。
 したがって、あるアーティストは、自分の公演がお客さんを惹き付けるか否かで、そのジャンルのファンの獲得に貢献するか、一生見向きされなくするか、という責任が生じると言ってもいい。アーティストにはこの覚悟が必要と言えそうだ。

双方向性を持つ、プレゼンをしていく

 さらに黒崎さんは若手の態度について語る。
「今の若い人たちは、オレのやり方はどうだ、っていう感じじゃないんですよね。演奏してどうだったと聞き、こうだねと言われ、発見があるのが面白いわけじゃないですか。やったことで波及していく、そういう相互交流の魅力が本来あるはず」
「どんどん活動していく人を見ると、ちゃんと双方向性がある。それがないといけない感じがしますね。自分のプレゼンをしながら、いろいろな人とのコミュニケーションをしながら、発見していく。そういうのを持っている必要があると思います。表現する人たちは」

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3 表現者の思いを実現させるには

 前章は集客につながるアーティストのとるべき在り方の話だ。それは、アーティストとお客さんの、特定の会場における対面的やりとりを含む。
 つぎに、会場ではなく地域レベルの集客に関わっていく話を見ていきたい。語るのは、野村さん、田嶋さん、近藤さんという3人のアーティストだ。その内容はある種の「アーティストの夢」でもある。だが、社会にとっては、アーティストが何を切望しているのか、知ることができる話であるはずだ。

芸術家にカケをしてほしい

 芸術が観光資源として扱われ、そのうえでアーティスト支援がある程度充実している国がある。アメリカだ。支援するということ は、カケをしているということだ。
 アメリカでは、日本よりも、芸術が観光資源として積極的に扱われる。観光資源として扱われて支援されれば、アーティストは活躍できる。
 同国では作品の委嘱のような直接の芸術家支援がある。さらに税制優遇措置により芸術への寄付を促す間接の芸術支援もあり、日本より大規模に行われてきた。
 そのような芸術家支援の先駆は、戦前にある。アメリカ1930年代の経済政策であるニューディール政策だ。その中には大規模芸術支援策も含まれた。4万人の芸術家を雇用し、1300以上の壁画を委嘱するというものだ。
 その支援は、第二次大戦後に一流芸術家を輩出した。現代アートの即興絵画の旗手であるジャクソン・ポロックなどである。野村さんも述べる。
「美術の世界ではポロックやリキテンシュタインやウォーホルやロスコ等々、ああいう人達の作品が世界中からニューヨークへ人を集めている。ダンスではマース・カニングハムの公演が人を集めるし、ジャズはニューヨークがメッカだしね」
 このようなアメリカの支援策の根本には、「芸術家にカケをする」という考えがありそうだ。野村さんの解釈ではこうだ。
「根本にあるのは芸術なんだから食えないでしょう?でもひょっとしたらこの芸術家を支援しておけば未来のこの街の観光資源になるかも知れない。ならばそいつを支援しておこうというカケをしているんじゃないかな」
 このように未来の可能性を信じて芸術家を支援しておくという行政や市民の姿勢は、日本にもっとあってもいいのではないだろうか。

アメリカにあり日本にない文化

 アメリカでもライブパフォーマンスをされてきた田嶋さんは言う。
「アメリカに行って感じるのは、showに行く文化が様々な世代にあり、多くの人が足を運んで、即興演奏のような演奏でも、観たことのないものでも、反応があり受け入れる空気があることです。日本では名の知れたものでないと、若い人などでshowに行く人が少なく、大多数への迎合があるように感じられ、それは残念でありますが」
「それは文化の違いとしか言いようがない。日本でもドネーションや異文化融合を自然なことだと受け入れることができるようになるのか、遠い将来、開かれた日本が来るのか。それはわかりません」
 野村さん、田嶋さんのお話は、いずれもアメリカには、日本と違う、芸術家を支援し受け入れる空気があるという話だ。
 日本でも同じ文化が広められるかということは、日本の表現者の未来もかかっている重要な問題だ。

地産地消の音楽文化

 観光資源として芸術家にカケる文化がアメリカにあるという話、観たことのない作品も受け入れる文化が日本には少ないという話を取り上げた。
 そこで、アーティスト側からの、今後地道に努力されていくだろう、興味深い動きを紹介したい。
 関西における、「地産地消」という発想のもと、オーケストラなど音楽を観光資源にしようという動きである。
 近藤浩平さんが、大阪の日本センチュリー交響楽団と、関西圏においてそれに取り組もうとしている。
 街の人が誇りに思うような音楽やオーケストラを、ある土地で生み出せたら。それはその土地たとえば関西の観光資源となり、経済的にその地を潤すメリットもある。
 その際の第一のキーワードが、「音楽の地産地消」だ。地元の人が地元の作曲家やオーケストラに対し、コンサートのチケットを購入する、作曲の委嘱をする、という形で、金銭的支援をする。
 たとえば、作曲家の新作上演に地元の人が100万円を出し、100万円が関西の作曲家に行くと、GDP(国民総生産)が100万円プラス。もらった作曲家が地元で使うと関西のGDPはさらに100万円プラス。作曲家が使った地元の店の店員が100万円得てまた使うとGDPが100万円プラス…というようにGDPが倍増していく。このように、地域の経済循環を生むことができる。
 第二のキーワードが「グローカル」。地産地消の基本となる概念だ。地産地消というと一見ローカルである。しかしそれで閉じるのではなく、ローカルなもので世界に通じる、というグローカルの戦略が必要だ。
「ローカルなものこそグローバル、グローカルなものこそ世界に通用する」と近藤さんは述べる。
 たとえば関西の人がインバウンド(訪日旅客)の観光資源として例えばオーケストラを位置づける。地産地消の施策の下、オーケストラを育て、その土地外からのお客さんが継続的に聴きにくるオーケストラができると、関西の音楽文化が育つとともに、経済的にもプラスになる。
 第三のキーワードもある。「資源消費をしない持続的な経済成長」だ。地産地消といってもお金だけの話ではない。これからはSDGs(持続可能な開発目標)的には、モノの贅沢な消費を避けないといけない。しかし経済成長はしないといけない。そこで、消費財ではない音楽での地産地消なら、資源を消費せずに経済成長ができる可能性があるという考えだ。
 「地産地消の文化」という考えは、このようにいくつものプラスの側面を持ちながら、文化と経済の発展を促進させる可能性を感じさせる。

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4 表現者と社会とのつなぎ

 表現者は独特な強い思いを持って、創作をしている。しかし創作しているだけでは、社会には十分に届かない。
 届くには?という疑問から発したのが今回の取材だ。届くためのポイントは2つある。
 1つは表現者がお客さん=社会との交流のため発表の機会を増やし、双方向的に交流して動くことだ。
 2つは社会の側で、このアーティストは支援しておくと大きな働きをするのではないか、とカケをしたり、観光資源として芸術を位置づけて経済と一体で芸術活動を活性化させることだ。

 あらためて。電気の源は表現者にある。電気とは芸術のことだ。電気の受容者は社会のわたしたちだ。しかし、間にはつなぐ幾重ものコードがないといけない。
 そのコードは、太さは細いがしっかりしたもの、厚く頑丈なもの、色はエメラルドから深紅、鼠色など、さまざまあることだろう。
 また流れる電気も、電圧、速さ、量がその時代、その土地、表現者、受け手に応じて万別なはずだ。
 コードを作るのはどっちか。表現者でも社会でもない。基本的には、マネージャー、プロデューサー、ライター、批評家の働きだろう。

 しかしそれだけでもないかもしれない。両者をつなぐのは歴史かもしれない。歴史とは、偶然、運命、予測のつかない社会の動きということだ。
 その歴史にカケる表現者がいる。表現者は歴史に自らを位置づけようとするという意味で。
 そして社会は、その表現者に、カケることができるのだ。

取材協力
 黒崎八重子 両国門天ホール支配人
 近藤浩平 作曲家
 田嶋奈保子 美術家
 野村雅美 ギタリスト、作曲家、画家

参考文献
村上隆『芸術起業論』幻冬舎、2006年
タイラー・コーエン著、石垣尚志訳『アメリカはアートをどのように支援してきたか』ミネルヴァ書房、2013年


          書き手・北條立記(作曲家、チェロ奏者、ライター)

本稿は、宣伝会議編集・ライター養成講座(2020年冬期)での筆者の卒業制作です。

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