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アレクサンドロス ~ヒトの世界史~

1.アレクサンドロスとマケドニア

「父からはヘラクレス、母からはアキレウスの血が、あなたに流れているのです。」 アレクサンドロスは母オリュンピアスから、ことあるごとにそう教えられました。

アレクサンドロスは紀元前4世紀、前356年の生まれで、今からおよそ2400年前の人物です。日本は縄文時代末期で、そろそろ農耕の技術が大陸から入ってくる、そんな時期です。彼はマケドニアの国王で、のちに東方アジア世界に遠征し、エーゲ海からインダス川にいたる大帝国をつくりあげました。名前は知っているけれど何をした人かはイマイチわからない、今回はアレクサンドロス大王のおはなしです。


102アレクサンドロス大地図名入れ


その頃のギリシア世界はバルカン半島の南端部、せまーいせまい地域で、ポリスという都市国家に分かれて互いに抗争していました。穀物の栽培にむかない土地です。ですから、ポリス諸国は商業をなりわいにしたのだけど、どうしてもパイの取りあいになってしまい、それこそ何百年もずうっと争ってました。

ギリシア北方の新興国家マケドニアにとっては好機でした。半島北部の穀倉地帯を背景として、マケドニアは着実に領土をひろげていきます。農業生産は嘘をつきません。父王フィリッポス2世は混乱するギリシアへ進出し、前337年にはついにポリス諸国を征服しました。ポリス連合軍を破ったカイロネイアの戦いでは、18歳になったばかりの若きアレクサンドロスが騎兵をひきいて鬼神のごとく敵をなぎたおしたといいます。

バルカン半島図名入れ

2.アレクサンドロスの両親と師

アレクサンドロスの父フィリッポス2世は偉大な王です。彼は官僚制をととのえて、王国の税収を安定させました。ギリシア最先端のトレンド戦術を導入し、軍事力を飛躍的に強めました。フィリッポスは人心掌握にとても長けておりまして、反抗勢力をときには遠ざけ、ときには抹殺し、王宮内にただようさまざまな思惑を絶妙なバランス感覚であやつりました。優れた君主に必要なスキルです。マケドニア王国はみるみるうちに領土を拡大し、彼はギリシア世界の指導者となりました。その威勢は、東方はるかかなたのペルシア帝国まできこえます。国王はギリシア神話にあらわれるトロイア戦争、アジアへ向かう英雄たちの冒険譚になぞらえて、マケドニアによるペルシアの征服を夢みておりました。アレクサンドロスは生まれてからずっとそんなフィリッポスの姿を見てきましたから、憧憬と嫉妬がうずまく複雑な感情を父王に抱いていたのです。

母オリュンピアスはバルカン半島西部の出身で、フィリッポス2世の第一王妃となりました。彼女もわりと曰くつきの人物で、寝るときはいつも大蛇を添えていたなんていう逸話も伝わっております。祖国を征服したマケドニア王に憎悪を抱いていたといわれていますが、まあそこは愛と憎しみって表裏一体ですから、今となっては彼女の本心を知る術がありません。ひとつ確かなのは、オリュンピアスがアレクサンドロスに病的なばかりの愛情をそそいだということです。「期待」といってもいいかもしれません。「ヘラクレス、アキレウス」のくだりは彼女の口癖でありました。おのれの血脈をギリシアの英雄になぞらえ、それに比するほどの英傑となるように言いきかせたのです。そういうのを幼い時分からえんえんと吹きこむのは教育上あまりよくない気がするのだけど、ちょっといびつな両親のもとで、アレクサンドロスは聡明で利発な青年に成長しました。

13歳になったアレクサンドロスは、都の近郊ミエザに建てられた学校に入ります。彼に王としての素養・品格を身につけさせるための教育機関です。かの大哲学者アリストテレスも、教師の一人として招かれました。アリストテレスの神髄は「万学の体系化」にありますから、モノゴトをいかに整理して、どのように関連付けるか、大枠をとらえつつ詳細にせまる思考法はアレクサンドロスに大きな影響を与えたことでしょう。軍隊、ひいては国家という巨大な組織をマネジメントするためには、体系的なモノのとらえ方が必要です。のちに大帝国を築きあげたアレクサンドロスの根底には、アリストテレスの思想がひそんでいるのかもしれません。ともあれ、彼はミエザの学園で帝王学のほか、ギリシア人としての教養を身につけ、机をならべた学友たちはのちの東方遠征で大王を支える忠実な将軍となりました。


3.東方遠征のはじまり

前336年、フィリッポス2世が暗殺されました。近衛兵の凶刃に倒れます。母オリュンピアスを黒幕とする説が有力ですが、アレクサンドロスの関与も取りざたされていて、ことの真相はいまだに闇の中です。そうして、アレクサンドロスは若干20歳でマケドニア王に即位しました。

アレクサンドロスは東方への遠征をはじめます。前334年のことでした。父の悲願であったペルシア帝国の征服、そしてギリシア世界によるアジアの支配をめざして、国をあげたプロジェクトを敢行するのです。歴史のセオリーとして、国家の拡大運動は避けることができません。なぜなら、国家という装置は自国利益の最大化をとめられないからです。政治体制は富を「集約・配分」するシステムであり、支配する領域がひろければひろいほど中央政府に莫大な富が流れこみます。指導者たちの得る恩恵がおおきいのです。これはもう、ホモ=サピエンスの本能といっていいでしょう。小さいころに読んだ少年漫画で主人公の敵役たちはみな雁首そろえて世界征服をたくらんでいたけれども(いつも本当に謎だった)、その最大の理由はここからきています。

マケドニアの勢いはとどまることを知りません。ペルシア帝国になだれこみ、君主ダレイオス3世が指揮するペルシア軍を幾度も撃破します。アレクサンドロスは都ペルセポリスに入城すると、これを焼き払ってしまいました。前330年にペルシア帝国が滅んだのち、イラン高原から中央アジア、そしてインダス川上流域に進出し、彼はついに「最果ての地」インドを見わたす場所までやってきたのです。


4.東征の果てに

アレクサンドロスは征服した土地にあわせた支配をすすめます。例えば、エジプトではファラオ(エジプトの王)を称して寛容な政治をとりましたし、ペルシアではペルシア人総督を任命して統治をあたらせました。しかし、ペルセポリスの炎上からは状況がうつろいます。父フィリッポス2世の、いやギリシア世界の宿願は、ペルシア征服までのはずでした。以降のインド行軍は、アレクサンドロスの個人的な戦争といってさしつかえないでしょう。彼の衝動(ギリシア語で「パトス」といいます)は、ただインドにそそがれていたのです。こんな最果ての地に領土をひろげて得ることができる富と、無謀な軍事行動による損失を天秤にかければ、どちらが理にかなうか、才気にあふれるアレクサンドロスならわかるようなもの。そもそも、ペルセポリスの街を灰でならした行為ですら、ペルシア人の感情を逆なでし、統治の妨げになることは明らかです。

アレクサンドロスは若すぎました。

広大なインドを見おろす峠に立った大王は、齢にして30です。父のまぼろしを追いもとめたのか、はたまた母の呪いをはらうことができなかったのか。彼のまなざしはずっとインドに向いていました。慣れない気候、不十分な兵糧、諦めを知らない原住民の抵抗に、部下の将兵たちはひどく疲弊してゆきます。王の熱情と兵の意識のあいだに、埋めがたい溝が築かれていました。

アレクサンドロスは部下の懇願で帰路につきました。マケドニアを離れてはや8年、2万キロにおよぶ遠征ですから、将兵の要求もやむを得ないでしょう。帰還の行軍は彼の挫折と喪失感を反映するように大変な苦難の道でした。ペルシアの旧都スサへ帰還するころには、たくさんの将兵を失っていました。その後、さらなる遠征計画を練っていた若き王は、バビロンで突然の熱病におかされます。朦朧とする意識の中で、アレクサンドロスは何を思っていたのでしょうか。前323年、彼は静かに息を引き取りました。享年32歳11カ月でした。


5.アレクサンドロスは何を為したのか

アレクサンドロス死後に帝国は後継者争いで分裂しますが、東方遠征がインド北部まで到達したためギリシア世界が東方にひろがりました。ここから約300年の時代を、“ギリシア風”という意味で「ヘレニズム」といいます。各地には世界市民主義の風潮が波及し、東方と西方の技術・思想が融合する新たな時期をむかえました。大王がのちの世界に与えた影響です。

はたしてそれはアレクサンドロスが意図したことなのでしょうか。彼はギリシアという意識の体現者であり、父と母に縛られたひとりの青年でした。その後の世界がどうなったかなんて、彼にとっては意味のない事柄なのかもしれません。ギリシア世界の拡大という願い、両親の幻影、それはアレクサンドロスという人物の本質であり、また本質ではないのです。

歴史は、一定のルールに従えば一定の結果をみることができます。もちろん地域や気候によって入力する条件は異なりますが、いくつかの基本的な仕組みさえおさえておけば、ほとんどの事象は説明がつきます。しかし、人びとの理想がひとりの人間へあまりにも投影されると、そして人を縛る想いがあまりに強すぎると、歴史はときに予期できない動きを示すのです。アレクサンドロスの東征は世界史上もっともイレギュラーな事象の一つでした。

偉業の陰から、オリュンピアスの声がきこえてきます。

ギリシアの英雄になりなさい。

ヘラクレスのように、アキレウスのように。

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