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【イジンデン】イジン紹介 ヴァスコ=ダ=ガマ

イジン紹介記事part4です。
なんと、Twitterで大創出版の公式アカウントにフォローされました!!イジンデンで自分が語りたいだけ世界史を語る記事しかないのですが……いいのか……?

今日はヴァスコ=ダ=ガマの説明をしていきます。

出自

彼の出身はポルトガル。アレンテージョ地方に位置する都市シーネスだとされています。

赤いマーカーのところがシーネスです。

シーネスはローマや西ゴート、ヴァンダルなどかつてイベリア半島を征服した民族の痕跡が残る歴史ある都市です。
このシーネスにて、騎士階級であるエステヴァン=ダ=ガマの息子として生まれました。レオナルド=ダ=ヴィンチとは違い、ヴァスコ=ダ=ガマは名家の出身なのです。よって、「ガマ」の部分は「ヴィンチ」とは異なり、姓だと考えられます。日本語で表すと、「ガマ家のヴァスコさん」と言うことになります。
詳しい資料が見つからなかったので、「だと思う」くらいしかいえませんが……。

航海

彼の功績は、喜望峰周りのインド航路を開いたことです。このことにより、ポルトガルでは国民的英雄とされています。
しかし、それがどんな歴史的意味を持つのでしょう?順を追って説明します。

時は15世紀。ヨーロッパ諸国は大航海時代の真っ只中でした。
ヨーロッパ諸国が航海を盛んに行った理由はいくつかあります。

・十字軍により東方へ遠征した結果、東方への関心が高まったため
・マルコ=ポーロ著『世界の記述(東方見聞録)』によりアジア方面への憧れが強まったため
・アジアの香辛料や香料の直接取引による利益増大を狙ったため
・オスマン帝国の勢力拡大による危機感

などが挙げられます。高校世界史ではこんなところでしょう。
この大航海時代で特に活躍した国が、スペインとポルトガルです。両国の場合は、イスラーム教徒との戦い(レコンキスタ)の延長線上という意味合いもありました。
さて、彼らはお互いに航路発見を競っていました。1492年には、スペインのクリストファー=コロンブスがインド(実際はアメリカ大陸)への航路を発見しました。
これに焦りを覚えたポルトガルが、インド航路を開拓するために派遣したのがヴァスコ=ダ=ガマでした。当時のポルトガル国王はマヌエル1世。後にヴァスコ=ダ=ガマの活躍もあり、ポルトガルの黄金期を築くことになる王様です。

香辛料や香料があるインドへの航路ですが、スペインによって西回り航路は先に取られてしまいました。よって、ポルトガルは東回り航路を開拓するしかなかったのです。
よって、ヴァスコ=ダ=ガマはまずはじめにアフリカ方面へと向かいました。

リスボン→喜望峰→モンバサ→マリンディ→カリカット→ゴア

マリンディ(現在のケニア)を訪れ、ムスリムの水先案内人イブン=マージドを雇い、さらに東のインドへと向かいました。Wikipediaで見たところ、現在ではイブン=マージドが水先案内人として活躍したか疑問視する見解もあるようです。

さてインドのカリカットに到着したヴァスコ=ダ=ガマ。1498年5月のことでした。
しかし取引はうまくいかず、1499年にリスボンへと帰ってきました。取引はうまくいきませんでしたが、ポルトガルのインド航路が開けたことは大きな進歩でした。

しかし、ここで諦めるヴァスコ=ダ=ガマではありませんでした、1502年、第2回航海を始めました。
ポルトガルでは英雄としてあがめられる彼ですが、実はここで略奪を行っていました。例えば船をとらえて財宝を奪ったうえで火にかけたり、市街地に砲撃を加えたり。まあこの時代の航海士は、本国では英雄ですがたどり着いた先では略奪を行っているというのはよくあることです……。

以上、ヴァスコ=ダ=ガマの説明でした。

余談
ヴァスコ=ダ=ガマを派遣したマヌエル1世。実は彼に関するボードゲームがあります。

プレイヤーはマヌエル1世に宮殿の装飾を命じられたタイル職人となり、いかに美しいタイルの配置ができるかを競い合います。
ドイツ年間ゲーム大賞やドイツゲーム賞を受賞した名作です。ちょうど本日このゲームを購入しました。いずれ、レビューと一緒に世界観の歴史的観点からの説明をしてみようと思います。

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