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私が「オリジナル」にこだわる理由

前回の記事(↓)の続き。

この世に「完全オリジナルはない」という事を前提で

私はスカルプトもペイントもモデリングもします。時代がデジタルになってもアナログ時代から線と線で繋がっています。それらは物心つく頃から自然とやり始めたことで、「学ぶため」とか「それ系の仕事に就くため」とか「自分への付加価値・箔つけ」のためにやり始めたわけではありません。それらは私にとっては「自分が自然になれる世界」です。

それ故にそれらをこよなく愛してますが美大や芸術大とかを出たわけではないです。私にとってそれらは「権威から教えを請うものではない」というのがどこか自分の根底にあり、尊敬する人や勝手にライバルと思っている人は沢山いても「師匠」と呼ぶ人はいません。ただ、広義の芸術に関してはそれなりに独学と実践をしてきています。

独学で学んだ事ですが、世の中の創作に「完全オリジナルはない」という事は理解しています。なので私はオリジナルを語る際、「ゼロから創った」という言葉を使わず「イチから創った」という表現を使います。

全てのオリジナルは、クリエイターが「イチから」創ったもの

という捉え方です。

それを踏まえた上で、あえて「オリジナル」という言葉を使い、それに拘っています。

理由はただ一つ。

「イチから何かをクリエイトする人、イチからクリエイトする活動、イチからクリエイトされた作品を心からリスペクトしているから」

です。

私の言う「オリジナル」の言葉の定義は、「複製品、コピーに対する原作、原文、原画、原型、原曲」の事です。

「オリジナル」という言葉を否定することは、これらを否定することと同義と考えています。それら原作を生み出すクリエイション活動と、生み出されたクリエイション作品の意味と価値を無にすることになるからです。

宮崎アニメにみる「オリジナル性」

アレンジした曲が原曲を超える、というのはあるでしょう。「超える」の定義は多くの場合「より魅力的になった」とか「一般受けするようになった」という意味です。

宮崎駿の名作アニメ「未来少年コナン」などはその最たるものです。アレクサンダー・ケイ原作の「残された人々」は私も読みましたが、どんなに贔屓目に読んでも全く面白くないです。

でも、どんなにしょぼい原作でも、原作は原作。どんなにダメなオリジナル・クリエイト作品でも、それでもなお、依然として「オリジナル・クリエイト作品」であることに変わりはありません。それらをベースにする限り「自分のオリジナルとは言えない」という葛藤が生まれます。

「未来少年コナン」は、原作を読んだ宮崎駿が

「全く気に食わねぇ。俺ならこう描く」

と創った、

「依頼側指定のオリジナルの呪いに足をひっぱられつつ生まれた彼のセミ・オリジナル作品」

だと私は思っています。都合上、登場人物の名前や設定は踏襲しています。しかし登場人物のキャラや状況設定は原作から全く変わってしまっていますからね。後半からさらに加速して原作とは似ても似つかない暴走状態。完全に宮崎ワールドで作り上げたストーリーになっています。

原作踏襲からオリジナルに分離して飛躍する両面を含んだ、「オリジナル」という言葉を考える上で非常に興味深い作品だと思ってます。

これがあったからこそ、「天空の城ラピュタ」で、ついに「宮崎駿原作」と名実ともに名乗れる「未来少年コナンで派生したDNA」を受け継いだオリジナル作品が生まれたのだと思います。

話を戻すと、「ゼロをイチにする」というのは、クリエイションの根源。クリエイションの初期衝動であり、クリエイションの活動において最も尊いものだと私は考えています。

芸術ってなに

私は模型や造形に出戻るまでは音楽活動、Webデザイン、アイコンデザイン、Webアプリ開発、動画制作、ブログや書籍の言語パブリッシュ活動などに注力してやってきました。

前回「私がやっていることは一貫していて、根本は変わらない」と書きました。しかし、傍から見ると「この人あれこれ違うジャンルに手を出して飽きっぽい人のかな?」「単なる器用貧乏の人なのかな?」と思われるだけで、どうも他人には理解しづらいようです。

私は「芸術は単に美術・音楽だけではない」という考えです。私に言わせれば、それは「狭義の芸術という捉え方」という考えです。

私の意味する「芸術」とは、あらゆるクリエイション活動を指します。

・文芸(言語芸術)
・美術(造形芸術、視覚芸術(絵画はこれに含む))
・音楽(音響芸術)
・総合芸術(舞台芸術、映像芸術)
・デザイン(応用芸術)
・その他(漫画、イラストレーション、Webデザインなど)

これら全て私の言うところの「芸術」です。
このnoteも、「思考を言語化し、表現する」という意味において文芸であり、私にとっては芸術活動のひとつです。

芸術に貴賤はない・・・という言葉があるかは知りませんが、少なくとも私はこれら全て同列。上も下もないですね。どっちが上とか下とかというような、それぞれの世界の偉い人達が権威・権力・利益のために作り上げた価値観からは距離を置いたところにいます。

絵画やイラスト、漫画などは形や色で表現されて視覚に訴えかける芸術と捉えれば、私に言わせれば本質は同じ「視覚芸術」です。

一般的に、格調高く一段上にあるとされている「クラシック音楽」も、ロックやポップスと同じ「音響芸術」です。

こう書くと、美術のお偉いさんや音楽のお偉いさんはきっと怒ってこう言うでしょう。

「歴史ある絵画を漫画やイラストと同じにするな!」
「クラシックとポップスが同じだと?」

と。ですが・・・どんなに凄いクラシックのピアニストとか〇〇フィルハーモニーオーケストラとかも、そのほとんどが

「大昔の人の創った曲をコピー・カヴァーして演奏しているだけだよね」

という事実を言及する人はあまりいません。不思議ですね。
私に言わせると、"素晴らしい演奏する格調高い"オーケストラも、他人の作曲した曲を演奏するという意味では

「ニルヴァーナのカヴァーバンド」と同じ

です。(あー怒るひといるだろうな・・)

違うのは、前者を「格調高い崇高なもの」と思っている人が世の中の大半であるということ。でも、「オリジナル作品」として定義されるのは後者のほう。人類史的に見ても、世界中の多くの現代に生きる一般人の心を動かし、売れに売れて経済を動かしたのはニルヴァーナのアルバムのほうでしょう。

売れれば偉いのか、と言われたらそうではないと思います。「高い絵が素晴らしいとは限らない」「アートとして価値があるわけではない」とかね。
しかしそう言われてる反面、大御所の絵画作品の価値をどれだけの価値でオークションで落とされるかで測ったりしていますね。

まぁ、色々言ってることとやってることが矛盾してておかしな世界ではあります。

偉い人達は私が欲しい物を創らない


私がオリジナルにこだわる理由。オリジナルを創りたいと思う理由。それは他の既存の作品に対し

「全く気に食わねぇ精神」

があるかどうか、です。

私は「〇〇芸術大学名誉教授」とか「〇〇アーチスト」とか言われても、正直、全くその権威に対してなびきません。「〇〇芸術大学卒」とかも同じです。

私がもともとそういうヒエラルキーや権威主義が嫌いというのもありますが、私がオリジナルにこだわるのは、

そういう偉い人達はちっとも私が欲しい物を創ってくれないから

というのが最大の理由です。

模型世界もそれとまったく同じで、タミヤという巨人が存在し権威となってますね。私からすると模型する人はみんなタミヤ教かとでも思えるくらいまるで宗教のように多くの人に崇拝されています。弱小メーカーがいいアイテム出しても「タミヤから出たら買う」とか「タミヤが出してくれないかな」「タミヤだったらこうするだろう」云々・・・とかね。

でも、タミヤも、大手メーカーも、私が欲しい造形をちっとも創ってくれないのです。「気に食わねぇ」精神が出てくるわけです。

だから、私はオリジナルにこだわり、オリジナルを創っているのです。

続く(・・・かもしれない)

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